2 恋を知った日

文字数 1,587文字

「兄さん、寝ていていいから」
 車に乗り込むと、疲れ切った和宏に優人はそう声をかける。
 もう二度とこの幸せを失いたくないと思う。
 ぎゅっとハンドルを握ると、彼の方を一瞥しアクセルを踏む。
 

 三年前のあの日、優人は母から兄、和宏が家を出たことを知らされたのである。
「優人、ごめんね。和宏を止められなかった」
 母は泣きながらそう言ったのだ。
 優人は兄が家を出たことそのものよりも、自分に黙っていなくなったことの方がショックだった。
「兄さんは……俺のことが嫌いなの……?」
 泣きたくなくて唇を噛みしめる。
 しかしそんなものなんの役にも立たなかった。
 
 傍に居た姉が二人から目を背ける。
 それはまるで”痛々しい”とでも言っているように感じた。

「違うわ。和宏は優人のことが大好きで大切だから、黙って行ってしまったの」
 その意味が優人には理解できなかった。
 姉は何かを察したように、優人の背中を撫でる。
「意味が分からないよ」
 震える声。
 思った以上に傷ついている自分がいた。

「優人、よく聞いて」
 母は優人の両肩を掴むと、優人の瞳を覗き込む。
「和宏はあなたが好きなの。それは特別な好きよ。でもきっと……あなたにはそれを受け入れることはできない。和宏はそう思って離れる決心をしたの」
 優人は何がなんだかわからずに、ただ首を左右に振った。
「なに? なんで勝手に俺の気持ちを決めるの?」
 母の言っていることは全く理解できない。

 兄が自分を捨てたのだと思った。
 何も話していないうちから勝手に何かを決めて、自分を捨てて阿貴と何処かへ行ってしまったのだと。
「優人も恋をするようになったら分かるわ」
 それは姉の言葉。

 だからいろんな人と付き合ってみた。
 好きだと言われたらOKした。
 でも、分かるどころかますますわからなくなっていったのだ。

 学ぶことは多かった。
 好きになれば、嫉妬、独占欲、優しさ、温かさ、笑顔、そして肉欲が沸き起こるものだと知る。
 けれども兄は自分にそれらのものを求めなかった。

──兄さんの言う好きが分からない。
 どうすればよかったの?

 応えようにも当の本人がいない。
 何を求めていたのか分からない。
 理解したいと思った。

 初めはたくさん送っていたメッセージ。
 まったく既読がつくことはなかった。
 拒否されているのだろうか?

 毎日兄のことばかり考え、泣いた日もある。
 そのうち、これが恋だと知った。
 もう、手遅れなのだと半ばあきらめていたが、姉が傍に居てくれたから何とか耐えられたのだ。
 そして母づてに送られる誕生日のメッセージに希望を繋いだ。
 二年も経てば、兄の意思ではなく阿貴によって連絡が遮断されていると予想くらいつく。

 どうやって兄を取り返したらいいのだろう?
 そんなことばかり考えていたある日、あの男の秘書から連絡が来たのだ。
 やっと巡って来たチャンスを逃すはずなどない。

 いつの間にか車は目的地に着いていた。
 和宏の自宅からは遠く、優人のマンションからはほど近いホテル。
 今夜は外泊すると同居人には告げてある。姉は優人のマンションへ泊ると言っていた。同居人は男だが、姉とは顔見知りであるし特に心配はしていない。

「兄さん、着いたよ」
 予約を取ってるのでフロントへ向かうだけだ。
「うん……」
 ゆっくりと目を開ける和宏。
 優人はシートベルトを外すと、和宏の頬を撫でた。その手に添えられる彼の手。くすぐったいというように、小さく笑う。
「兄さんに触れたい。早く部屋に行こうよ」
 優人は気が変になるほど彼を求めて、愛を感じたいと思っていた。
「結構、積極的なんだな」
と和宏。
 少し驚いたように優人を見上げている。
「兄さんは俺をなんだと思っているの? 俺はお姉ちゃんと違って無性愛者(アセクシャル)じゃないよ」
 その言葉に和宏は一瞬言葉を失ったが、意味を理解したのか真っ赤になり腕で顔を(おお)ったのだった。
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