第64話 「裏切り」
文字数 3,026文字
技師を名乗る男と伺いしれない対談を済ませ、ナトは当てられた部屋に戻ってきていた。
湿気を吸ったシーツに腰をおろし、会話の内容を鑑みる。
結局、わかったことはあの男が長生きであると言うことと、この街の過去くらいだった。
ほとんど謎に満ちたままだ。
そして、「魔王」について。
彼は、「ルトス」を名乗っていた者が唯一の王だと言った。
そもそも下町で流れていた噂では、このベルガーデンという土地は魔王の支配する悪しき大地だとされていた。
だが、実際は野生がのさばり、超常の存在が蔓延する広い土地である。
住民たちは魔王を知らない。そこに魔王の影は無いのだ。
「どうなっているんだ……?」
ただの噂に過ぎなかったのか。
だとしたら、何の為にここへ来た?
もし魔王が居らず、ここが本当に未知の世界であるだけというのなら――戻る道を閉ざされた今、どこへ向かえばいい?
「――ナト、入るわよ!」
その時だった。
軽いノックが響き、空いた扉からアメリオが顔を出した。
「どうしたのよ、そんな暗い顔して」
「……なんでもない」
「ふうん」
アメリオはそのままズカズカと部屋の中へと入ってくると、なにか薄布の包を机の上においた。
その袋からは、やけに甘い匂いが漂っている。
「これは?」
「お菓子よ! マルギリが置いていってくれたの!」
あの食えない男が?
少し不審に思ったナトだったが、アメリオが結び目をほどき、中から出てきたものを見て目の色を変えた。
「クッキーだわ! こんなの見たのいつぶりかしら!」
「俺は初めてだ」
ナトの髪と同じくらい明るいはちみつ色をした何枚ものクッキーが、包の中から姿を表した。
丁寧に焼き上げられていて、昼下がりになろうとしているこの時間帯では大変魅力的に目に映る。
アメリオの細い指がそれを一つ摘み、口の中へと放り込んだ。
「とんでなく美味しいわ! ……ナト、あなたは食べないの?」
「ああ……いや」
そういうと、ナトも菓子を口に運んだ。
確かに美味しい。それにとても甘い。
そんな甘さに口が緩んだ。溢れるように言葉が漏れる。
「マリー。もしも、俺がこの旅をやめるって言ったとしたら――どうする?」
再び菓子をつまんでいたアメリオの手が止まる。
「もしかしたら、この旅に終わりなんて無いのかもしれない。『魔王』が、居ないかもしれないんだ。
俺は、妹の敵 を討つためにここにきた。でも、それも、もう――」
「ねえ、ナト」
アメリオの手が、ナトの傷だらけの手を包み込む。
ゆっくりと開いたその形の良い唇から、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「それはあんまりにも今更すぎるわ」
「……え?」
ぽかんと口を開けて聞きかえすナト。
「だって、そうじゃない。もともと魔王の詳しい情報だって持ってなかったのに、急かされるみたいに旅に出ちゃったわけでしょう?」
ぐ、と言葉に詰まる。
確かにその通りだ。情報と言っても、国に流れている噂を集める程度のことしかしていない。
「もしナトが旅をやめるなら、私はヨルカについていくわ。あの子はお父さんの行方を追わなきゃいけないもの」
「いや、まあ、それはそうなんだが」
「あなたは旅をやめたらどうするの?」
アメリオに言われて、ふと、考える。
「……暮らす?」
「なんで疑問形なの?」
「その、今よりも、もっと平和に、この世界で――」
例えば、沼の村に戻って、言葉がわかる片腕の老人に教わりながら村民たちと助け合うとか。
暗い森の村なら、小さな子どもたちと仲良くなって、果物を採って毎日を過ごすとか。
「ナト、本当の目的を教えてちょうだい」
――本当の、目的?
「あなた、元々別に魔王なんてどうだっていいんでしょう?」
――は?
「何を言ってるんだ、俺はこれまで――」
「いいのよ、もう。それとも、本当に気がついてないの?」
何を、言って。
恐る恐る、アメリオの顔を見た。――ぞっとするほど冷たい表情をしていた。
「ただこの世界で死にたいだけなんでしょ?」
「――――っ!」
心臓が縮むようだった。
一拍置いて、ひやりとした体に再び血が流れ出す。
胸の中で熱い塊が激しくなっていた。
ふとアメリオを見ると、不思議そうな表情でこちらを覗き込んでいた。
一泊置いて、早まる鼓動が落ち着く頃、ようやく理解できた。
ちがう。さっきのは幻聴だ。
彼女は何も言っていない――ただの俺の、思い込み。
どこから――そうだ、本当の、目的。
「ナト、私はあなたを尊重するわ。だって、こんな私を認めてくれたのはナトじゃない。だったら、あなたの目的がなんだって、尊重するわ」
自分の脳が勝手に解釈した先程の氷のような表情とは打って変わって、アメリオは優しげな笑みを浮かべていた。
そうだ、さっきのは幻覚。だとしたら、なぜあんな事を……。
「俺は――」
その時だった。
肌が震えるような、
心臓の奥まで響くような、
そんな破壊音が、はるか遠方から聞こえた。
「……なんだ?」
ナトが窓から外の様子を伺うと、ひと目で何が起きたのかがわかった。
遠くの壁が壊れ、水が大量に溢れ出していた。恐らく、大雨に耐えきれず川の水をせき止めていた施設が崩壊したのだ。
街中に流れ出した水は、石畳の上を犯し街に広がっていく。恐らく、このままでは浸水する。
「これは……とんでもないわね」
アメリオが呆然とそういうと、はっと何かに気がついたようにナトの服を引っ張った。
「まずいわ、ヨルカたちが……!」
「わ、わ、なんですかこれ!?」
「すごい量の水……まずいですね、早く戻りましょう」
水路から水が溢れ、足元の桟橋を濡らしていく様子にヨルカが慌てふためいている横で、グリーゼは辺りを見回しマルギリの姿を探していた。
帰るなら、彼も連れて行かなければ。しかし、いくら探そうとも彼の姿は無かった。
一方、マルギリは彼女ら二人からは視認されない場所で、じっと二人を見ていた。
「この浸水……何か地上で起こったのか?」
ボソリと彼はつぶやく。
そして、人の良さそうな笑みはどこへやら、まるで物を見るような目で二人を見下ろす。
「まあいい、色々と好都合だ。あの用済みのケルオ人とアメリオ様にくっついている男をまとめて始末できる。後はあの二人をどう引き離すか……」
バサリと、マルギリは黒いフードコートを羽織った。背中には、赤い目を持つ白い鳥の刺繍がある。
「アメリオ様はお見送りして、あの金髪女は俺が貰おう……ああ、完璧だ!」
マルギリは細長い棒のようなものを取り出した。よく見れば、微細な装飾が施され、小さく剣と炎の紋章が掘られているのがわかる。
「さあ……踊れ!」
ふらりと、踊るように振られる棒。
それに呼応するように、光る粒子のようなものが舞う。
――いち早く危険を察知したのはグリーゼだった。
「……何か来る」
「えっ?」
グリーゼが見つめる先、そこは水路から落ちる滝のような水の向こうだった。
何かが、猛々しい足音を鳴らしながら走ってくるのを、彼女の人を超越した聴覚が察知していた。
湿気を吸ったシーツに腰をおろし、会話の内容を鑑みる。
結局、わかったことはあの男が長生きであると言うことと、この街の過去くらいだった。
ほとんど謎に満ちたままだ。
そして、「魔王」について。
彼は、「ルトス」を名乗っていた者が唯一の王だと言った。
そもそも下町で流れていた噂では、このベルガーデンという土地は魔王の支配する悪しき大地だとされていた。
だが、実際は野生がのさばり、超常の存在が蔓延する広い土地である。
住民たちは魔王を知らない。そこに魔王の影は無いのだ。
「どうなっているんだ……?」
ただの噂に過ぎなかったのか。
だとしたら、何の為にここへ来た?
もし魔王が居らず、ここが本当に未知の世界であるだけというのなら――戻る道を閉ざされた今、どこへ向かえばいい?
「――ナト、入るわよ!」
その時だった。
軽いノックが響き、空いた扉からアメリオが顔を出した。
「どうしたのよ、そんな暗い顔して」
「……なんでもない」
「ふうん」
アメリオはそのままズカズカと部屋の中へと入ってくると、なにか薄布の包を机の上においた。
その袋からは、やけに甘い匂いが漂っている。
「これは?」
「お菓子よ! マルギリが置いていってくれたの!」
あの食えない男が?
少し不審に思ったナトだったが、アメリオが結び目をほどき、中から出てきたものを見て目の色を変えた。
「クッキーだわ! こんなの見たのいつぶりかしら!」
「俺は初めてだ」
ナトの髪と同じくらい明るいはちみつ色をした何枚ものクッキーが、包の中から姿を表した。
丁寧に焼き上げられていて、昼下がりになろうとしているこの時間帯では大変魅力的に目に映る。
アメリオの細い指がそれを一つ摘み、口の中へと放り込んだ。
「とんでなく美味しいわ! ……ナト、あなたは食べないの?」
「ああ……いや」
そういうと、ナトも菓子を口に運んだ。
確かに美味しい。それにとても甘い。
そんな甘さに口が緩んだ。溢れるように言葉が漏れる。
「マリー。もしも、俺がこの旅をやめるって言ったとしたら――どうする?」
再び菓子をつまんでいたアメリオの手が止まる。
「もしかしたら、この旅に終わりなんて無いのかもしれない。『魔王』が、居ないかもしれないんだ。
俺は、妹の
「ねえ、ナト」
アメリオの手が、ナトの傷だらけの手を包み込む。
ゆっくりと開いたその形の良い唇から、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「それはあんまりにも今更すぎるわ」
「……え?」
ぽかんと口を開けて聞きかえすナト。
「だって、そうじゃない。もともと魔王の詳しい情報だって持ってなかったのに、急かされるみたいに旅に出ちゃったわけでしょう?」
ぐ、と言葉に詰まる。
確かにその通りだ。情報と言っても、国に流れている噂を集める程度のことしかしていない。
「もしナトが旅をやめるなら、私はヨルカについていくわ。あの子はお父さんの行方を追わなきゃいけないもの」
「いや、まあ、それはそうなんだが」
「あなたは旅をやめたらどうするの?」
アメリオに言われて、ふと、考える。
「……暮らす?」
「なんで疑問形なの?」
「その、今よりも、もっと平和に、この世界で――」
例えば、沼の村に戻って、言葉がわかる片腕の老人に教わりながら村民たちと助け合うとか。
暗い森の村なら、小さな子どもたちと仲良くなって、果物を採って毎日を過ごすとか。
「ナト、本当の目的を教えてちょうだい」
――本当の、目的?
「あなた、元々別に魔王なんてどうだっていいんでしょう?」
――は?
「何を言ってるんだ、俺はこれまで――」
「いいのよ、もう。それとも、本当に気がついてないの?」
何を、言って。
恐る恐る、アメリオの顔を見た。――ぞっとするほど冷たい表情をしていた。
「ただこの世界で死にたいだけなんでしょ?」
「――――っ!」
心臓が縮むようだった。
一拍置いて、ひやりとした体に再び血が流れ出す。
胸の中で熱い塊が激しくなっていた。
ふとアメリオを見ると、不思議そうな表情でこちらを覗き込んでいた。
一泊置いて、早まる鼓動が落ち着く頃、ようやく理解できた。
ちがう。さっきのは幻聴だ。
彼女は何も言っていない――ただの俺の、思い込み。
どこから――そうだ、本当の、目的。
「ナト、私はあなたを尊重するわ。だって、こんな私を認めてくれたのはナトじゃない。だったら、あなたの目的がなんだって、尊重するわ」
自分の脳が勝手に解釈した先程の氷のような表情とは打って変わって、アメリオは優しげな笑みを浮かべていた。
そうだ、さっきのは幻覚。だとしたら、なぜあんな事を……。
「俺は――」
その時だった。
肌が震えるような、
心臓の奥まで響くような、
そんな破壊音が、はるか遠方から聞こえた。
「……なんだ?」
ナトが窓から外の様子を伺うと、ひと目で何が起きたのかがわかった。
遠くの壁が壊れ、水が大量に溢れ出していた。恐らく、大雨に耐えきれず川の水をせき止めていた施設が崩壊したのだ。
街中に流れ出した水は、石畳の上を犯し街に広がっていく。恐らく、このままでは浸水する。
「これは……とんでもないわね」
アメリオが呆然とそういうと、はっと何かに気がついたようにナトの服を引っ張った。
「まずいわ、ヨルカたちが……!」
「わ、わ、なんですかこれ!?」
「すごい量の水……まずいですね、早く戻りましょう」
水路から水が溢れ、足元の桟橋を濡らしていく様子にヨルカが慌てふためいている横で、グリーゼは辺りを見回しマルギリの姿を探していた。
帰るなら、彼も連れて行かなければ。しかし、いくら探そうとも彼の姿は無かった。
一方、マルギリは彼女ら二人からは視認されない場所で、じっと二人を見ていた。
「この浸水……何か地上で起こったのか?」
ボソリと彼はつぶやく。
そして、人の良さそうな笑みはどこへやら、まるで物を見るような目で二人を見下ろす。
「まあいい、色々と好都合だ。あの用済みのケルオ人とアメリオ様にくっついている男をまとめて始末できる。後はあの二人をどう引き離すか……」
バサリと、マルギリは黒いフードコートを羽織った。背中には、赤い目を持つ白い鳥の刺繍がある。
「アメリオ様はお見送りして、あの金髪女は俺が貰おう……ああ、完璧だ!」
マルギリは細長い棒のようなものを取り出した。よく見れば、微細な装飾が施され、小さく剣と炎の紋章が掘られているのがわかる。
「さあ……踊れ!」
ふらりと、踊るように振られる棒。
それに呼応するように、光る粒子のようなものが舞う。
――いち早く危険を察知したのはグリーゼだった。
「……何か来る」
「えっ?」
グリーゼが見つめる先、そこは水路から落ちる滝のような水の向こうだった。
何かが、猛々しい足音を鳴らしながら走ってくるのを、彼女の人を超越した聴覚が察知していた。