第25話 「木漏れ日 下」
文字数 2,935文字
グリーゼは、ベッドの上で蹲る、雨に濡れた若葉の少女に、木のコップに入った湯気の立つホットミルクを差し出した。
「落ち着きましたか?」
「はい……ありがとうございます」
乱れた金の糸を軽く整え、少女はカップに口をつけた。
ミルクの柔らかい香りと舌触りの中に、蜜のような甘さ、そして微かに鼻を抜け、鼻腔を焼くような味。
喉を通すと、その暖かさだけではない、別の何かが体の中から熱を伝えた。
「お酒、大丈夫でした?」
どうやら、香り付けに果実由来の酒が入っているらしかった。
コクリと頷いて、血色の戻ったピンク色の唇が、再びその縁を食む。
美味しい。
ここに来てから、まともな物を口にしていなかった影響かもしれないけど。
強い味ではないはずなのに、花が開くかのように味覚が覚醒していくのがわかる。
味わいながら、少女は懐かしさを感じていた。
父は酒が好きだった。
味見程度に何度か飲んだことはあったが、しかし、父の語る「旨味」と言うものを感じられたことは一度もなかった。
それでも唯一好きだったのは、眠れない夜に母が作ってくれた、ジャムと少量の果実酒を混ぜた特性のお茶だった。
涙が零れそうになり、いけない、と、目をつぶった。
その父に会うために、ここまで来たんだ。
そのために、家を出たんだ。
覚悟はしてきたはずだ。もう戻れない。戻ってはいけないと。
それに、また迷惑をかけてしまう。泣いてはいけない。
「えっと、グリーゼ、さん」
「はい」
黒い鎧が振り返る。
「あ、あの……面識もないのに、助けていただいて、その、色々ご迷惑をおかけして……助かりました、ありがとうございます」
「気になさらないでください。私がしたくてしたことです」
「で、でも、あの……」
その時、「ふふっ」と、グリーゼが笑った。
「え、えっと……?」
「ああ、いえ。あなたとナトさんが、似ていたものでつい」
遺構の中でのやりとりを思い出すグリーゼ。
「はぁ」と、ヨルカは釈然としない様子で頷いた。
「こんな物しか、ありませんけど」
そう言って彼女は、湯気の立つ盆のような小さな木の皿を差し出した。
それを受け取り、中身を眺める。
「この村はあまり牧畜が盛んではありません。実はそのミルクも、豆類由来のものです。
なのでお肉は出せませんが、その代わり……」
その上には、炒めた野菜に囲まれた、白い色の果実が載っていた。
やわらかそうなその果肉には、様々な種類の香辛料がかかっていて、微かな焼き色がついている。
皿を彩る野菜炒めからは、見た目の単調さとは裏腹に、鼻腔をくすぐる鮮やかな香りが立ち上っていた。
やはり、果実と同様の香辛料が振りかけられているようだが……この香りは、それだけではない。
野菜本来の、青々とした水々しい香りだ。その良さを降りかかった香辛料達が引き立てている。
渡された木のフォークを、並んだ野菜炒めに差し入れる。
シャクっとした微かな感触の後に持ち上げると、その中から微かに黄金色がかかった緑黄色野菜が姿を現した。
「もちろん、この村で取れた野菜です。朝取ったばかりですよ」
口に運ぶ。
ありふれた程よい塩味が効いている。
美味しい。
咀嚼する。
新鮮なシャクシャクとした食感。
そして、そのたびに溢れる、水々しい野菜の水分が舌を潤す。
そして、飲みくだし、息を鼻から抜くと――。
頭の中に、花畑が広がった。
咲き乱れる色とりどりの花――その香りが、鼻の奥を捕らえて離さない。
「この、胡椒……でしょうか。こんなにいい香りの物は、アタラシアにもありませんでした」
「そうでしょう。薬草以外に、この村が誇る数少ない取り柄ですが、交易品としては人気なんです」
グリーゼが話す。
確かに、人気なのもうなずける。
まるで、香りが色を持っているような――。
「こちらも、食べてみてください」
すると、鎧で包まれた指が、中央の果実を指した。
溢れる唾を飲み込み、フォークで割くようにその先端を操る。
するりと、柔らかい感触。
木でできた先端が、その中へと滑り込んでいく。
一口サイズに分けられたそれを突き刺して、口の中に運ぶ。
舌の上に乗った、その瞬間。
溶けるかのように、まろやかな味が流れ出す。
バター、だろうか。
いや、違う。
若干の青臭さが、香辛料と混ざり合って互いに引き立て合う。
確かな、植物の味わい。
「不思議な味ですけど、美味しいです」
「この村で重宝されている果物です。お肉が中々取れないので、皆その代わりにこれを食べます」
豆類には肉と同じ栄養分が含まれると、教育の一環で教わったことがある。
そういった類の物なのかもしれない。
しかし――。
果実自体が薄めの味であるのに、なかなかどうして、癖になる。
微かな塩味が、なおさら病みつきにさせる。
どこか気怠さが残る体が、蘇っていくような錯覚すら覚える。
それほど、食が止まらない。
「それで」
皿が空になると同時に、グリーゼはベッドの向かいに椅子を置いて座り、話しかけてきた。
ヨルカはフォークを皿の上に置いて、彼女に向き合った。
「どうされたんですか?」
ヨルカは黙った。
うまく言い表しづらかった。
「あ、と……あの……」
口籠る。
……言い表しづらいのではない。
ただの言い訳に過ぎない。
本当は、口に出してしまうことで、それを認めてしまうような気がして。
事実なのに、それが嫌で。
「わた、しは……」
ヨルカは顔を伏せた。
そして、ぽつり、ぽつりと言葉が紡がれる。
「迷惑を、かけてしまって……」
「迷惑、ですか」
「ナトさんたちに……ただ、付いてきてるだけなのに、やらなきゃいけないことも、何もかも違うのに……」
俯いたヨルカを仮面の奥から見つめるグリーゼ。
ふと、何かを思いついたように鎧を鳴らした。
「でしたら」
ヨルカが顔を上げる。
グリーゼは、穏やかに言った。
「彼らの力になればいいのです」
帰り道、ナトとオーハンスは二人で歩いていた。
チェットを待つというハルトマンを置いて店を出た。
その後、アメリオはすぐに村の子供達に捕まって、どこかへと行ってしまった。
甚だ疑問だった。
一体、言葉の壁とは。
「なあ、ナト」
オーハンスが、隣を歩く親友を見上げている。
「なんだい」
「あのさ、お前、その傷平気なのか?」
少女のような顔を痛ましい物を見るかのように、ナトの体を上から下まで視線で撫でた。
大きいものから小さいものまで、いくつもの傷が付いていた。
「うん」と言って体を擦り、「大丈夫だよ」と返した。
「その、悪いんだが……ちょっと、付き合ってくれねぇか」
そう言ったオーハンスの顔は、なんとも捉えづらく、
「……うん、わかった」
同じように間をおいて、その意図を察せないまま、ナトはそう返した。
「落ち着きましたか?」
「はい……ありがとうございます」
乱れた金の糸を軽く整え、少女はカップに口をつけた。
ミルクの柔らかい香りと舌触りの中に、蜜のような甘さ、そして微かに鼻を抜け、鼻腔を焼くような味。
喉を通すと、その暖かさだけではない、別の何かが体の中から熱を伝えた。
「お酒、大丈夫でした?」
どうやら、香り付けに果実由来の酒が入っているらしかった。
コクリと頷いて、血色の戻ったピンク色の唇が、再びその縁を食む。
美味しい。
ここに来てから、まともな物を口にしていなかった影響かもしれないけど。
強い味ではないはずなのに、花が開くかのように味覚が覚醒していくのがわかる。
味わいながら、少女は懐かしさを感じていた。
父は酒が好きだった。
味見程度に何度か飲んだことはあったが、しかし、父の語る「旨味」と言うものを感じられたことは一度もなかった。
それでも唯一好きだったのは、眠れない夜に母が作ってくれた、ジャムと少量の果実酒を混ぜた特性のお茶だった。
涙が零れそうになり、いけない、と、目をつぶった。
その父に会うために、ここまで来たんだ。
そのために、家を出たんだ。
覚悟はしてきたはずだ。もう戻れない。戻ってはいけないと。
それに、また迷惑をかけてしまう。泣いてはいけない。
「えっと、グリーゼ、さん」
「はい」
黒い鎧が振り返る。
「あ、あの……面識もないのに、助けていただいて、その、色々ご迷惑をおかけして……助かりました、ありがとうございます」
「気になさらないでください。私がしたくてしたことです」
「で、でも、あの……」
その時、「ふふっ」と、グリーゼが笑った。
「え、えっと……?」
「ああ、いえ。あなたとナトさんが、似ていたものでつい」
遺構の中でのやりとりを思い出すグリーゼ。
「はぁ」と、ヨルカは釈然としない様子で頷いた。
「こんな物しか、ありませんけど」
そう言って彼女は、湯気の立つ盆のような小さな木の皿を差し出した。
それを受け取り、中身を眺める。
「この村はあまり牧畜が盛んではありません。実はそのミルクも、豆類由来のものです。
なのでお肉は出せませんが、その代わり……」
その上には、炒めた野菜に囲まれた、白い色の果実が載っていた。
やわらかそうなその果肉には、様々な種類の香辛料がかかっていて、微かな焼き色がついている。
皿を彩る野菜炒めからは、見た目の単調さとは裏腹に、鼻腔をくすぐる鮮やかな香りが立ち上っていた。
やはり、果実と同様の香辛料が振りかけられているようだが……この香りは、それだけではない。
野菜本来の、青々とした水々しい香りだ。その良さを降りかかった香辛料達が引き立てている。
渡された木のフォークを、並んだ野菜炒めに差し入れる。
シャクっとした微かな感触の後に持ち上げると、その中から微かに黄金色がかかった緑黄色野菜が姿を現した。
「もちろん、この村で取れた野菜です。朝取ったばかりですよ」
口に運ぶ。
ありふれた程よい塩味が効いている。
美味しい。
咀嚼する。
新鮮なシャクシャクとした食感。
そして、そのたびに溢れる、水々しい野菜の水分が舌を潤す。
そして、飲みくだし、息を鼻から抜くと――。
頭の中に、花畑が広がった。
咲き乱れる色とりどりの花――その香りが、鼻の奥を捕らえて離さない。
「この、胡椒……でしょうか。こんなにいい香りの物は、アタラシアにもありませんでした」
「そうでしょう。薬草以外に、この村が誇る数少ない取り柄ですが、交易品としては人気なんです」
グリーゼが話す。
確かに、人気なのもうなずける。
まるで、香りが色を持っているような――。
「こちらも、食べてみてください」
すると、鎧で包まれた指が、中央の果実を指した。
溢れる唾を飲み込み、フォークで割くようにその先端を操る。
するりと、柔らかい感触。
木でできた先端が、その中へと滑り込んでいく。
一口サイズに分けられたそれを突き刺して、口の中に運ぶ。
舌の上に乗った、その瞬間。
溶けるかのように、まろやかな味が流れ出す。
バター、だろうか。
いや、違う。
若干の青臭さが、香辛料と混ざり合って互いに引き立て合う。
確かな、植物の味わい。
「不思議な味ですけど、美味しいです」
「この村で重宝されている果物です。お肉が中々取れないので、皆その代わりにこれを食べます」
豆類には肉と同じ栄養分が含まれると、教育の一環で教わったことがある。
そういった類の物なのかもしれない。
しかし――。
果実自体が薄めの味であるのに、なかなかどうして、癖になる。
微かな塩味が、なおさら病みつきにさせる。
どこか気怠さが残る体が、蘇っていくような錯覚すら覚える。
それほど、食が止まらない。
「それで」
皿が空になると同時に、グリーゼはベッドの向かいに椅子を置いて座り、話しかけてきた。
ヨルカはフォークを皿の上に置いて、彼女に向き合った。
「どうされたんですか?」
ヨルカは黙った。
うまく言い表しづらかった。
「あ、と……あの……」
口籠る。
……言い表しづらいのではない。
ただの言い訳に過ぎない。
本当は、口に出してしまうことで、それを認めてしまうような気がして。
事実なのに、それが嫌で。
「わた、しは……」
ヨルカは顔を伏せた。
そして、ぽつり、ぽつりと言葉が紡がれる。
「迷惑を、かけてしまって……」
「迷惑、ですか」
「ナトさんたちに……ただ、付いてきてるだけなのに、やらなきゃいけないことも、何もかも違うのに……」
俯いたヨルカを仮面の奥から見つめるグリーゼ。
ふと、何かを思いついたように鎧を鳴らした。
「でしたら」
ヨルカが顔を上げる。
グリーゼは、穏やかに言った。
「彼らの力になればいいのです」
帰り道、ナトとオーハンスは二人で歩いていた。
チェットを待つというハルトマンを置いて店を出た。
その後、アメリオはすぐに村の子供達に捕まって、どこかへと行ってしまった。
甚だ疑問だった。
一体、言葉の壁とは。
「なあ、ナト」
オーハンスが、隣を歩く親友を見上げている。
「なんだい」
「あのさ、お前、その傷平気なのか?」
少女のような顔を痛ましい物を見るかのように、ナトの体を上から下まで視線で撫でた。
大きいものから小さいものまで、いくつもの傷が付いていた。
「うん」と言って体を擦り、「大丈夫だよ」と返した。
「その、悪いんだが……ちょっと、付き合ってくれねぇか」
そう言ったオーハンスの顔は、なんとも捉えづらく、
「……うん、わかった」
同じように間をおいて、その意図を察せないまま、ナトはそう返した。