第32話 「時の湖 下」

文字数 3,675文字

「間に合うか……っ!?」

 縄を持ったオーハンスは、ぶら下がる二人を見て歯嚙みをした。
 まずい、このままでは二人とも食べられてしまう。

「マイク!」

 オーハンスは、自分に懐いた馬に似た容姿をした生物の名を呼ぶ。
 馬より体躯の大きなそれは、オーハンスの側に寄ると、その小さな体を背に乗せた。
 「待ちなさい!」と言うグリーゼの言葉を背に、オーハンスは飛び出した。

 ナトは、その怪物に襲われながら、徐々に落下しつつあった。
 と言っても、襲われるたびに壁から壁へと飛び移り、辛うじて生き延びてはいる。
 しかし、そんな大道芸じみた事も、体力をいたずらに消費していく。

「はあっ、はあっ」
「な、ナトさん……」

 怪物がまたしても飛び出した。
 その黒い牙がナトたちに迫る。

「くうっ!」

 ナトは飛んだ。
 飛んで――ヨルカのポーチが、捕らえられた。

「しまっ!?」

 グイッと引っ張られ、勢いを殺された二人は穴の底に引き込まれる。
 怪物が噛みちぎったポーチは破れ、中から液体の入ったいくつもの瓶が飛び出した。

「あっ!」

 ヨルカが慌てて手を伸ばすも、その瓶の幾つかは怪物の口の中で砕けた。

「二人とも、掴まれ!!」

 その声に、ナトは反射的に腕を伸ばし、それを掴んだ。
 体が浮くような感覚の中で、手早くそれに乗り込めたのは、ひとえに強化された彼の身体能力の賜物だろう。

「助かったよ」
「まだ助かったわけじゃないけどな」

 オーハンスだった。
 愛馬と共に駆けつけて二人を拾ったオーハンスは、落下する時間を稼ぐかのように、
 マイクに穴の小さな凹みに足をかけさせ、ナトが行ったように何度も跳躍する。

 通常の馬なら、この時点ですぐ落下して居ただろうが、この生物(マイク)はこの世界に生きる者だ。
 その身体能力の限度は、この生き物と、恐らくオーハンスしか知らない。

「あの怪物さえ居なけりゃどうにかなるんだが……」
「そうだね、このままじゃ三人とも食べられてお終いだ」

 「だから」と、ナトは続ける。

「オルフ、ヨルカをお願い」
「お、おいナト――」

 その一瞬後。
 穴の奥底から、人ならざる者の悲鳴が上がった。
 その直後に、ナトは馬から飛び出し、穴の底へと落ちて言った。

「っ、あの馬鹿! 死にたがり!」

 落ちていくナトは、壁を切りつけながら、暗い穴の奥へと目を向けた。
 すると、暗闇の中に、何かが見え始めた。

 黒い牙を長い足で繕う、蜘蛛のような怪物。
 何やら、硝子の付着した口から煙のような物が上がっている。
 その口の中をこするようにして怯んでいた。

「ここだっ!」

 壁を蹴る。
 下へ向けて、暗闇の中に飛び出す。
 すると、闇に紛れて怪物の頭部が見えてきた。

 剣は逆手に、切っ先を真下へ向けて。
 頭の上から、勢いに乗せて突き下ろす。

 その牙の付いた頭頂部を包む甲殻が割れ、銅色の刃が突き刺さる。
 またしても怪物の悲鳴が上がった。

「うわっ!?」

 ナトを頭部に乗せて、怪物は穴を登り始めた。
 振り落とされないよう、深くまで突き刺さった剣の柄を握る。

「まずい、このままじゃ――」

 上を見上げれば、オーハンスとヨルカが居た。
 あの場所まで上がらせるわけにはいかない。






「不味い、上がってくる」

 オーハンスは、「マイク」を操作しながら、そう呟いた。
 後ろに乗る少女は、必死に下を向かないように青くなって震えていた。

「マリー、どうにかしてくれ!」
「わかってるわ!」

 穴の外から、アメリオは右手をその暗闇に向けて突き出していた。
 しかし。

「あなた達も巻き込んじゃうかもしれないわ!」
「それは困る!!」

 思うように「魔法」を行使できずに居た。
 破壊の衝動を風に乗せる「魔法」では、この狭い空間だと三人を巻き込んでしまう可能性がある。

「もっと、狙って、狙って――」

 穴の底を睨みながら、アメリオは気を高めた。
 彼らに当てない程度の、精密さ。
 そして、暴風ではなく、決まった(みち)を流れる水の想像。

 アメリオの右手の周りの空気が歪む。

 ――じわり、と、アメリオの周りの土が湿り出す。
 泥のように柔らかくなったそれは、ズルズルと滑り落ちるように、穴に向かって動き出した。

 その現象は穴の側面にまで達し、湿りと共に流れ落ちた土や小石は、まるで泥の滝のように、奥へと注がれる。

「……なんだ?」

 オーハンスがふと上を見上げた。
 上から、一本の滝のような泥水が、ものすごい勢いで流れ込んでくる。

「おいおい、何だよありゃ……」

 穴の奥へと向かっていくそれは、大きな音を立てて落ちる。
 その滝を伝って上を見ると、そこには右手を突き出したアメリオがいた。
 自分の右手を見て、何故か顔に影を落としている。

「マリー、お前……」






 ナトが怪物の上でバランスを取っていると、不意に上から音が聞こえてきた。
 まるで、土砂崩れでもあったような――。

「ん?」

 その通りだった。
 ものすごい勢いの泥水が、飛沫をあげて一直線にこちらへ向かってくる。

「うおっ」

 慌ててそれを避けると、その土砂は怪物の胴体に直撃した。
 そして、怪物を穴の奥へと押し込める。

 ナトの体がふわりと浮く。
 それを感じたナトは、剣を抜いて、再び高く掲げた。

 そして、

 鈍い落下音と、砂埃が舞う。
 同時に、怪物の声にならない悲鳴が穴の中に反響する。

 ナトの剣が、首の付け根を完璧に穿っていた。

 怪物は暴れる。
 しかし、混乱によるもののようで、そこに明確な殺意は感じられない。

 ナトは大人しくなるのを待ちながら、暗闇に慣れた目で辺りを見渡した。
 見たことのない動物の亡骸や骸が散乱している。
 この巣穴に住み着き、こうして生き物を捕食してきたのだろう。

 改めて思う。
 自分たちは、こういう世界の食物連鎖に介入してしまったのだと。
 追われる側になってしまったのだと。

「おい、ナト! 大丈夫か!」

 上の方から、壁を蹴る蹄の音と共にオーハンスの声が聞こえてくる。
 それに対して、何か答えようとした、その時。

「……ん?」

 バキ、という音がした。
 穴の底の方からだ。

 なんだ、一体。
 そう思い、そこを覗き込むと――。

 ガクンと、体が浮き上がった。
 そして、ものすごい音と共に、穴の底が崩壊していく。

「っ!?」

 怪物の亡骸にしがみつきながら、砂と怪物の食べかすと共にナトは落下する。

 穴は急な傾斜に差し掛かり、剣先を壁に打ち付けて勢いを殺す。
 怪物の死体諸々は穴の奥へと落ちていき、少ししたところで落下音が聞こえた。

「……あれは」

 暗闇の中に、光が漏れていた。
 行き着く場所までそう遠く無いらしい。





 壁にコの字に曲がった杭を打ち付けて、その穴にロープを通しながら穴を下る。
 そんなナトを、穴の縁から四人が見守っていた。

「どうしても行かなきゃいけないんですか……?」

 顔を青くするヨルカ。

「あの怪物の解体はできればしておきたいですし、この穴が繋がった洞窟の先の光も確認して置きたいのです」
「あ、あの、この穴、どうやって降りれば……」
「狭くて暗いだけじゃない!」
「そこをなんとかしてもらえませんか……」

 涙目で穴を覗くヨルカ。
 蒼白な肌に拍車がかかる。

 この四人の中でナトがこの役に選ばれたのは、至って合理的な理由故だった。
 この作業ができるほどの体力があるのはナトとグリーゼしか居ないし、体重の差でロープ面での安全性を考慮するなら、と白羽の矢が立ったのが彼だった。

 胴に巻き付けた命綱が切れればそれまでだが、不思議と、ナトの中に恐怖の感情は湧いてこなかった。
 いつからだろう。
 いつから、感じなくなったのだろう。

 ふと、淡々と作業をこなすナトの横顔を、橙色の光りが照らした。
 それは、この穴の向かうところの出口から漏れ出した光だった。

 杭を打ち終え、地面に足を着けると、ナトはその光に向かって歩いた。
 そうして、たどり着いた先には。

 湿った暖かい空気が迎え入れる。
 地面には薄い緑色の、背の高い苔の絨毯が風に揺れていた。
 空気には何らかの胞子だか花粉だかが漂っていて、優しい緑から木もれ出る太陽の光の柱を浴びて輝く。

 辺りには太い幹を持つ木がいくつも生えていた。
 その太い幹には、その迫力を増すように、琥珀色の透明な塊――樹液が包み込んでいた。
 それらすべてが相まって、視界に映る景色に、緑と橙色の光が交差する。

 その時、ナトの頭に一つの言葉が浮かんできた。
 無意識に、言葉となって唇からこぼれ出る。

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