第19話 「星見の宮殿:最奥地」
文字数 7,631文字
ある広場に、二人の少年と、一人の少女が遊んでいた。
少女と、片方の少年の服装は身なりが良く、仕立てられた服を身にまとい、その動作の一つをとっても、気品が漂っていた。
対して、もう一人の少年は、とてもみずぼらしかった。
泥で薄汚れたズボンには穴が空き、少し大きめのブラウスの裾は擦り切れていた。
そう、彼一人が、平民――第三階級であった。
しかし、彼はよく笑う少年だった。
何をしても、とにかく嬉しそうに笑った。
少女と、もう一人の少年は、その笑顔につられていつも笑っていた。
彼らは、いつもその三人で遊んでいた。
追いかけっこ。お花摘み。冒険ごっこ。
毎日会う約束をしては、決まって平民の少年を中心に遊んでいた。
もう一人の――貴族の少年は、彼が大好きだった。
大人たちからは、いつも口酸っぱく言われていた。
「彼とはもう関わるな」「それよりもお勉強や、習い事に努めなさい」と。
でも。
それでも少年は、毎日抜け出して、彼に会いに行った。
身分の壁なんて、そこにはなかった。
貴族の少年も、平民の少年も、その間の溝なんて微塵も感じたことはなかった。
彼ら三人は毎日欠かさず会っていた。
平民の少年に率いられて遊んだ日々は、貴族の少年にとって、とても新鮮な毎日だった。
彼の見たことのない、規則や常識に囚われない、まごう事のない自由がそこにはあった。
ある日は川へ釣りに行き、
ある日はパンを盗んで貧民街に配り歩き、
ある日は平民の夜中の集会に侵入し、
そんな日々を送っていた、ある日。
彼は、部屋に軟禁されてしまった。
少年との密会を快く思っていなかった少年の親代わりが、そんな不純な行為を止めようとしたのだ。
彼と共に訪れていた少女も、これでは平民の少年と会うことができなかった。
翌日、平民の少年が夜まで待とうとも、彼らを見ることはなかった。
あの心地よい時間は、訪れなかった。
そして、それからも。
幾度も雲が流れ、太陽が沈み。
劣化する石柱と共に待ち続け。
来る日も、来る日も。
――来る日も、来る日も。
黒い具足と皮のブーツが、暗闇の中で足音を鳴らしていた。
深度がより深まったその場所は、もうほぼ光の存在しない薄暗い世界だった。
閉じ込められた闇が視界を遮る中、僅かな光る結晶が与えてくれる情報は、虫やコウモリ、光を知らず色の抜けた植物の巣窟であるということだけだった。
グリーゼとハルトマンが踏み入ってからしばらく経つも、彼らの目は未だにはっきりと周りを視認できてない。
目が慣れた今でも、この程度が限界だった。
「悲鳴、止みましたね」
「……ああ」
暗闇と無音の中で、彼ら二人の声はよく響く。
呟くようなその声も、「闇の無」に慣れた彼らの耳は過大に聞き取る。
「もしかしかたら、手遅れかもしれない」
「そんなことは……」
「……あの怪物に、情なんてものはないだろう」
その言葉に、グリーゼは口を噤んだ。
そう、ここはベルガーデン。
星の数ほどの危険を孕んだ、未開の地。
「手遅れならそれまでだ。あいつらは置いていく。
僕の標的は唯一つ、あの怪物だ」
そう呟いて、歩幅を大きくした、その時だった。
暗闇の中から、呻き声のようなものが聞こえてきた。
「っ!」
ハルトマンが剣の柄に手を添え、グリーゼも構えて、前を見据える。
暗闇の向こう、白い何かが見える。
「……ロベルト?」
それは、赤い目をした白い鳥の刺繍が入った、白いローブだった。
血溜まりの中、床に倒れ伏している。
それが、一つ……二つ、三つ。
「ハルトマン……様っ、ごほっ」
そう、苦しげにうめきながら声を出したのは、満身創痍の大男だった。
体中の深い刺し傷から、血の泡を吹いていた。
「すみま、せん……取り逃がしました……」
「いい。それより、ミカとステインは無事なのか」
他に倒れる二人の男女、血で染まる白いローブを指して、ハルトマンが問う。
男は咳き込みながら、うつろな目でハルトマンを見る。
「多分、既にもう……それに、私も」
「……そう、か」
悔しそうにハルトマンが男の顔を覗き込む。
男の顔からは既に血の気が引いて、真っ青になっていた。
この世を去るのも時間の問題、その事実を物語っていた。
「……まだ、何人か生き残っています。
あの怪物、俺たちが物音を立てたら……すぐ飛んできやがりました。
気を、つけて……もしか、したら……もう……」
そういうと、その表情のまま、男は黙り込んでしまった。
男の中の時は止まってしまった。
グリーゼは悲しげに、彼とハルトマンから視線を逸らした。
すると、改めてその場所の様子が目に飛び込んできた。
凄惨に飛び散った赤い飛沫。
床に作られた血の湖。
むせ返るような鉄の匂いに、グリーゼは意識を引き締めた。
しかし、とグリーゼは思う。
彼らは、殺されただけ。
――そう、捕食されたわけではない。
いくら怪物といえど、その中身は生物にほかならない。
つまり、他の生命を奪うという行為には、必ず食事の概念がついて回るはずである。
にもかかわらず、彼らの死体からは、血の一滴でも啜 られた跡が見当たらない。
これは、一体どういうことなのか。
――殺めるために、殺す。
極めて動物的ではない、その動機。
ありえない。ありえて良いはずがない。
これじゃあ、まるで――――。
まるで、狂った人間みたいじゃないか。
「行こう」
ハルトマンが、静かにそう言った。
グリーゼが「ええ」と返し、視線を戻して――。
彼の目を見て、少しだけ既視感を覚えた。
どこかで、見覚えがある。
ごく最近、すぐ近くで、その目を、見た気がする。
「……どうした」
「なにを、考えているんです」
グリーゼは、ハルトマンに問いかけた。
彼は、フンと鼻を鳴らし、「そんなの決まってる」と呟き、
「俺の目的は唯一つ、あの怪物を殺すことだ」
瞳の奥に闇を湛え、青年はそう答えた。
オーハンスは、ベッドで苦しげに眠るヨルカの側を、そわそわとせわしなく歩いていた。
その脇には、机に座り、チェットと何事かを話し合っているアメリオがいた。
「そんな事してもヨルカが落ち着かないだけよ」
アメリオが呆れて口をはさむと、
「この状況がわかってるのかよ!」と、オーハンスが言った。
「帰って来てみれば、こいつは意識不明の重体だし、
ナトとグリーゼは帰ってこないし、この医者は信用なんねーし!」
と、ヨルカの傍らに屈んでいる医者を指してそう叫んだ。
医者は指を刺されたことを気にもとめず、拡大鏡でヨルカの体を覗き込んでいる。服の上から。
「わからないわ。此処はベルガーデン、どんな医者がいても不思議じゃなもの」
「いやな、宗教とか伝統の呪 いとかだと困るんだよ。わけのわからん儀式で仲間を殺されてたまるか」
そう言うと、オーハンスは頭を抱えた。
アメリオは軽くため息をつくと、片手に持ったお茶を啜った。
小さな喉仏を上下させると、木のコップを机の上において、「オルフ!」と名を呼んだ。
「なんであれ、私たちにできることはもう無いわ!
このお医者さんだって、わざわざ無駄なことをしに来たわけないじゃない」
「まあ、それはそうだけどさ……」
オーハンスがそう言うと、アメリオは無言で椅子を引いた。
少年は、大人しくその席にすわり、俯いた。
そして始まった貧乏ゆすりに、アメリオは再びため息をついた。
「っ!」
その時。
そんな二人のやりとりを見ていたチェットが、突然立ち上がった。
「うわっ、ど、どうしたんだよ」
オーハンスが恐る恐るそう問うと、今まで表情を崩さなかったチェットが、顔を険しくして、「まずい」と答えた。
「ハルトが、危ない……!」
すると、一目散にドアの外へと飛び出て、目にも留まらぬ速さでどこかへと走り去っていった。
唖然としていた二人だったが、ふと我に返り、オーハンスが立ち上がった。
「追うぞ!」
「え? なんでよ」
「いいから!」
オーハンスがそう言うと、アメリオの手をひっつかみ、外へと連れ出そうとドアの方へとズイズイ引っ張っていく。
アメリオは、未だに拡大鏡を覗いている医者に、「頼んだわ!」と声をかけた。
外に出ると、「マイク」を繋いでいたロープを外し、アメリオと二人でそれに跨った。
そして、一気に加速して走り出す。か
目標は少し距離の離れた場所を走るチェット。
それを追うように、「マイク」を全速力で走らせる。
あいつから目を離しちゃいけない――!
険しい顔で馬を操るオーハンス。
アメリオは、訳もわからずただ彼のことを伺っていた。
「なあ」
知り合って、半年経ったある日。
貴族の少年は、平民の友人に問いかけた。
「もし、もしもだ」
「なんだよ、急に」
貴族の少年は、目を逸らしながら彼に言った。
「僕が君を裏切ったとしたら、どうする?」
笑い声。
平民の少年は、腹を抱えて笑っていた。
「し、真剣な話なんだ!」
「あはははっ、いや、ごめん。いつになく真剣だったから……くふっ」
「それで……どうなんだよ、僕なことを嫌うか?」
腹を抱える平民の少年を見ながら、貴族の少年は言った。
それに対して、ひいひい言いながら、
「そんな訳ないじゃんか。俺たち、親友だろ。
いきなりそんな事聞くなんて、なんかあったか?」
「ああ……まあ」
貴族の少年は口ごもる。
平民の少年は不思議そうな顔をして彼を見る。
「最近、ほら、貴族とか協会の圧政が強まってきてるって、だから、第三身分の人たちから恨まれてないかって……」
貴族の少年がそう言うと、キョトンとした顔をする平民の少年。
そして、彼は突然ニッと笑った。
「俺は政治なんかよくわかんねーから大丈夫だ!」
「そういう問題じゃ……」
「いや」
平民の少年はそ言葉を遮る。
「大人たちのいうことなんて、俺たちには関係ないだろ。
俺は俺、お前はお前、俺達は俺達だ!」
貴族の少年は暫く考えるように俯く。
そして、ボソリと呟く。
「それ今考えただけだろ」
「あっはははは」
平民の少年はそう言うと、貴族の少年から離れた。
そして、踵を返して帰路に着いた。
「もう帰るのかよ」
「ああ。ねーちゃんが今日は早く帰ってこいって」
そういうと、貴族の少年の方を振り返り平民の少年は手を振った。
「じゃあな! また明日、ハルト!」
そこは、巨大な地下牢だった。
今までの宮殿のような作りから一変し、まるで凶悪な何かを捉えるべく作られたかのような、
丸石の廊下の左右に用意された、丸太のように太い格子の牢屋。
ハルトマンが中を覗くと、そこには腐った木のベンチと――なんらかの死骸しか残ってなかった。
だが。
「……人を収容していたんじゃないのか?」
その姿は既に朽ちかけていたが、黒く爛れた広く伸びた肌に、そこから見える骨格は人間の構造とは思えない形をしていた。
人間どころか、猿や他の動物にだって当てはまらない。
「どこか人の面影はありますけど」
「……あんなのが人などとは、あまり信じたくはないな。あの死体には悪いが」
牢屋から離れて、再びハントマンは歩き出した。
長い丸石の廊下を進む。
地面には、黒い粘液が微かに残っていた。
あの怪物がここを通ったのは間違いない。
この先に、いる。
廊下の先に佇む闇を睨みつけるハルトマン。
その時だった。
悲鳴。
闇に閉ざされたその向こう、人間のものだ。
「っ!」
「今のは……っ!」
ハルトマンは駆け出した。
グリーゼもそれに追随する。
嫌な臭いが彼らの鼻孔をついた。
先に進むにつれ、その度合いが増していく。
何かに踏み込んだ。
びしゃりと液体状の何かが跳ねたような気がした。
丸石の廊下を抜けると、淀んだ空気が二人を迎え入れた。
そこは、広い部屋だった。
地下墳墓のように広いその空間は、石のタイルで組み立てられた装飾がいくつも並び、審判するかのように彼らを見下ろしている。
それらを、淡い光を放つ水晶がいくつも並び、暗闇の中で薄ぼんやりと照らし出していた。
そして、床。
臭気を放つ黒いぬらぬらとした粘液が、まるで泉を作るかのように一面に広がっていた。
靴底を指一本分ほど飲み込む黒い泉を進みながら、ハルトマンとグリーゼは辺りを見回す。
出口はない。悲鳴は、ここから聞こえたに違いない。
臭いに顔を顰め、よく見えない視界に視線を巡らせる。
何もない筈がない。
どこだ、どこだ――。
「く、くるなぁ……」
その時だった。
震える声が、闇の向こうから聞こえた。
ハルトマンとグリーゼは顔を見合わせ、そちらへ向かう。
「く、くるなって、言ってるだろぉ!」
武器を構える金属音が聞こえる。
そして、向こうから現れたのは。
「ジェフ……!」
「ひぃっ!? ……ハ、ハルトマン様!?」
白いローブの中年男だった。
顔を真っ青にして、武器を構えながらガタガタと震えている。
その後ろには、怪我をした同じ白いローブの若い男女が蹲 っている。
「ど、どうして!? お逃げになられたはずじゃ!?」
「何を言っている。アレをここで逃す訳にはいかない。でなければ、この計画の意味はないだろう」
そういうと、少しだけ息を吐いて、ハルトマンは男をその鋭い目で改めて射抜く。
「あの怪物はどこだ」
「そ、それは……」
男が口を開くと、そのまま固まった。
不自然な間が空き、ハルトマンは怪訝げに眉をひそめる。
「おい、どうなんだ」
「あ…………あっ……」
やがて、ワナワナと目を見開いて小刻みに震えだす中年男。
ハルトマンが詰め寄ろうとした、その時。
「避けて!!」
グリーゼの怒声。
同時に、風切り音。
反射的に剣を抜き放ち、振り返る。
その瞬間、視界が黒い爪で覆い尽くされた。
「させないっ!」
金属を叩いたような音。
ハルトマンの顔の前、グリーゼの籠手が、その攻撃を防いだ。
ハルトマンが見上げる。
そこには、怪物がいた。
黒く光る殻を背負い、ナメクジのような尾に、そこから伸びる鋭い節足。
その一本が、彼に向かって伸ばされていた。
抜き放った金色の剣が閃く。
節足を払うように横文字に剣を振るが――その柄から返ってきた感触はとても硬いものだった。
「っ!」
ハルトマンが目を見開く。
金色の刃が、節足の鋼のような硬さに阻まれていた。
剣を引き、グリーゼと後ろに飛んで距離をとる。
中年男ら三人を背後に、彼は屋敷で修行で明け暮れた日々を思い返していた。
それなりに努力をした。鎧すら断ち切るこの剣は、勿論誰からも認められた。
しかし。
目の前の怪物を睨む。
『常識が通用しない常識』くらいはあったつもりだった。
それでも、斬れないなんて、そんなものはあり得ないと思っていた。
この怪物は、二度もこの剣を防いだ。
一度めは、殻で。二度めは、その脚で。
……いや、違う。改めて、理解した。
『常識が通用しない常識』なんかない。
ここは「ベルガーデン」。
幼い頃より聞かされた、人の手の及ばぬ幻想の大自然。
常識なんて、そもそも、そんなものはない。
「なんの、為に……」
右手の甲の古傷が、ジクジク痛む。
思考が麻痺したように回らない。
なんだ、なんなんだ、一体。
「ハ、ハルトマン様!!」
大声で呼びかけられ、ハッと気がつく。
中年男が、ハルトマンの肩を掴んで揺さぶっていた。
「お、お気を確かに! 今は……ひぃっ!」
気がつけば、怪物がその殻の上体を大きく起こしてこちらを見下ろしていた。
ハルトマンを向いていた視線は、気がつけばその中年男に注がれている。
まずい。
まずいまずいまずい!
「逃げろ!」
黒い塊が、落ちてくる。
剣を構えるも――焼け石に水。
この質量は、受けきれない!!
「ハルトマンさん!!」
「――――――っ!!」
体を強張らせて、来るべき時を待っていた、その時だった。
闇を切り裂くような、叫声。
硝子を引っ掻くような、何かの鳴き声。
突如、部屋が明るくなる。
周りに生える水晶が、その鳴き声に呼応するように明るく輝く。
それに反応した怪物は、その体を落とさずに四対の節足で支え、ハルトマンたちに背を向けた。
そして、その叫びを威嚇するように、殻の奥底から深い呻き声を上げる。
部屋の中に響いて入り混じる二つの叫び。
やがて、先の声の主が、天井に開いた空気孔から、それは姿を現した。
身体中に生えた金色の鱗。
トカゲのような体は、大人三人分と信じられないほど大きく、首や、背中から断ち切られた尾にかけて、薄く虹色に輝く透明な水晶が生えている、
トカゲにはない鋭い牙をその口内に覗かせ、怪物は叫んだ。
それに対して黒く爛れた怪物も、呻き声で返すように叫ぶ。
その隙に剣を急いで仕舞い、ハルトマンは三人を出口の方まで急いで連れて行った。
出口へ着くと、彼は三人を廊下に押し出した。
「お前たちは早くここから逃げるんだ」
「で、でも!」
「二人を近くの村まで連れて行け。チェットが交渉しているはずだ」
そういうと、中年男は暫く何かを言いたそうにしていたが、やがて意を決したように踵を返し、傷ついた男女の白ローブを庇うように、牢屋の廊下を歩いて行った。
それを見届けたハルトマンとグリーゼは、後ろを振り返った。
そこには、二体の怪物が、一触即発といった様子で睨み合っていた。
「あんなこと言ってましたけど、私たちの勝算はそれなりに低そうですよ?」
「やるしかないんだ。……貴方は帰っていい。どちらにせよ、僕はやる」
ハルトマンは、鞘に収めた剣を、再び引き抜く。
それを見たグリーゼは、何も言わずに、続いて前を睨み、構えた。
広間のようなその空間に、混沌が渦巻き始めていた。
少女と、片方の少年の服装は身なりが良く、仕立てられた服を身にまとい、その動作の一つをとっても、気品が漂っていた。
対して、もう一人の少年は、とてもみずぼらしかった。
泥で薄汚れたズボンには穴が空き、少し大きめのブラウスの裾は擦り切れていた。
そう、彼一人が、平民――第三階級であった。
しかし、彼はよく笑う少年だった。
何をしても、とにかく嬉しそうに笑った。
少女と、もう一人の少年は、その笑顔につられていつも笑っていた。
彼らは、いつもその三人で遊んでいた。
追いかけっこ。お花摘み。冒険ごっこ。
毎日会う約束をしては、決まって平民の少年を中心に遊んでいた。
もう一人の――貴族の少年は、彼が大好きだった。
大人たちからは、いつも口酸っぱく言われていた。
「彼とはもう関わるな」「それよりもお勉強や、習い事に努めなさい」と。
でも。
それでも少年は、毎日抜け出して、彼に会いに行った。
身分の壁なんて、そこにはなかった。
貴族の少年も、平民の少年も、その間の溝なんて微塵も感じたことはなかった。
彼ら三人は毎日欠かさず会っていた。
平民の少年に率いられて遊んだ日々は、貴族の少年にとって、とても新鮮な毎日だった。
彼の見たことのない、規則や常識に囚われない、まごう事のない自由がそこにはあった。
ある日は川へ釣りに行き、
ある日はパンを盗んで貧民街に配り歩き、
ある日は平民の夜中の集会に侵入し、
そんな日々を送っていた、ある日。
彼は、部屋に軟禁されてしまった。
少年との密会を快く思っていなかった少年の親代わりが、そんな不純な行為を止めようとしたのだ。
彼と共に訪れていた少女も、これでは平民の少年と会うことができなかった。
翌日、平民の少年が夜まで待とうとも、彼らを見ることはなかった。
あの心地よい時間は、訪れなかった。
そして、それからも。
幾度も雲が流れ、太陽が沈み。
劣化する石柱と共に待ち続け。
来る日も、来る日も。
――来る日も、来る日も。
黒い具足と皮のブーツが、暗闇の中で足音を鳴らしていた。
深度がより深まったその場所は、もうほぼ光の存在しない薄暗い世界だった。
閉じ込められた闇が視界を遮る中、僅かな光る結晶が与えてくれる情報は、虫やコウモリ、光を知らず色の抜けた植物の巣窟であるということだけだった。
グリーゼとハルトマンが踏み入ってからしばらく経つも、彼らの目は未だにはっきりと周りを視認できてない。
目が慣れた今でも、この程度が限界だった。
「悲鳴、止みましたね」
「……ああ」
暗闇と無音の中で、彼ら二人の声はよく響く。
呟くようなその声も、「闇の無」に慣れた彼らの耳は過大に聞き取る。
「もしかしかたら、手遅れかもしれない」
「そんなことは……」
「……あの怪物に、情なんてものはないだろう」
その言葉に、グリーゼは口を噤んだ。
そう、ここはベルガーデン。
星の数ほどの危険を孕んだ、未開の地。
「手遅れならそれまでだ。あいつらは置いていく。
僕の標的は唯一つ、あの怪物だ」
そう呟いて、歩幅を大きくした、その時だった。
暗闇の中から、呻き声のようなものが聞こえてきた。
「っ!」
ハルトマンが剣の柄に手を添え、グリーゼも構えて、前を見据える。
暗闇の向こう、白い何かが見える。
「……ロベルト?」
それは、赤い目をした白い鳥の刺繍が入った、白いローブだった。
血溜まりの中、床に倒れ伏している。
それが、一つ……二つ、三つ。
「ハルトマン……様っ、ごほっ」
そう、苦しげにうめきながら声を出したのは、満身創痍の大男だった。
体中の深い刺し傷から、血の泡を吹いていた。
「すみま、せん……取り逃がしました……」
「いい。それより、ミカとステインは無事なのか」
他に倒れる二人の男女、血で染まる白いローブを指して、ハルトマンが問う。
男は咳き込みながら、うつろな目でハルトマンを見る。
「多分、既にもう……それに、私も」
「……そう、か」
悔しそうにハルトマンが男の顔を覗き込む。
男の顔からは既に血の気が引いて、真っ青になっていた。
この世を去るのも時間の問題、その事実を物語っていた。
「……まだ、何人か生き残っています。
あの怪物、俺たちが物音を立てたら……すぐ飛んできやがりました。
気を、つけて……もしか、したら……もう……」
そういうと、その表情のまま、男は黙り込んでしまった。
男の中の時は止まってしまった。
グリーゼは悲しげに、彼とハルトマンから視線を逸らした。
すると、改めてその場所の様子が目に飛び込んできた。
凄惨に飛び散った赤い飛沫。
床に作られた血の湖。
むせ返るような鉄の匂いに、グリーゼは意識を引き締めた。
しかし、とグリーゼは思う。
彼らは、殺されただけ。
――そう、捕食されたわけではない。
いくら怪物といえど、その中身は生物にほかならない。
つまり、他の生命を奪うという行為には、必ず食事の概念がついて回るはずである。
にもかかわらず、彼らの死体からは、血の一滴でも
これは、一体どういうことなのか。
――殺めるために、殺す。
極めて動物的ではない、その動機。
ありえない。ありえて良いはずがない。
これじゃあ、まるで――――。
まるで、狂った人間みたいじゃないか。
「行こう」
ハルトマンが、静かにそう言った。
グリーゼが「ええ」と返し、視線を戻して――。
彼の目を見て、少しだけ既視感を覚えた。
どこかで、見覚えがある。
ごく最近、すぐ近くで、その目を、見た気がする。
「……どうした」
「なにを、考えているんです」
グリーゼは、ハルトマンに問いかけた。
彼は、フンと鼻を鳴らし、「そんなの決まってる」と呟き、
「俺の目的は唯一つ、あの怪物を殺すことだ」
瞳の奥に闇を湛え、青年はそう答えた。
オーハンスは、ベッドで苦しげに眠るヨルカの側を、そわそわとせわしなく歩いていた。
その脇には、机に座り、チェットと何事かを話し合っているアメリオがいた。
「そんな事してもヨルカが落ち着かないだけよ」
アメリオが呆れて口をはさむと、
「この状況がわかってるのかよ!」と、オーハンスが言った。
「帰って来てみれば、こいつは意識不明の重体だし、
ナトとグリーゼは帰ってこないし、この医者は信用なんねーし!」
と、ヨルカの傍らに屈んでいる医者を指してそう叫んだ。
医者は指を刺されたことを気にもとめず、拡大鏡でヨルカの体を覗き込んでいる。服の上から。
「わからないわ。此処はベルガーデン、どんな医者がいても不思議じゃなもの」
「いやな、宗教とか伝統の
そう言うと、オーハンスは頭を抱えた。
アメリオは軽くため息をつくと、片手に持ったお茶を啜った。
小さな喉仏を上下させると、木のコップを机の上において、「オルフ!」と名を呼んだ。
「なんであれ、私たちにできることはもう無いわ!
このお医者さんだって、わざわざ無駄なことをしに来たわけないじゃない」
「まあ、それはそうだけどさ……」
オーハンスがそう言うと、アメリオは無言で椅子を引いた。
少年は、大人しくその席にすわり、俯いた。
そして始まった貧乏ゆすりに、アメリオは再びため息をついた。
「っ!」
その時。
そんな二人のやりとりを見ていたチェットが、突然立ち上がった。
「うわっ、ど、どうしたんだよ」
オーハンスが恐る恐るそう問うと、今まで表情を崩さなかったチェットが、顔を険しくして、「まずい」と答えた。
「ハルトが、危ない……!」
すると、一目散にドアの外へと飛び出て、目にも留まらぬ速さでどこかへと走り去っていった。
唖然としていた二人だったが、ふと我に返り、オーハンスが立ち上がった。
「追うぞ!」
「え? なんでよ」
「いいから!」
オーハンスがそう言うと、アメリオの手をひっつかみ、外へと連れ出そうとドアの方へとズイズイ引っ張っていく。
アメリオは、未だに拡大鏡を覗いている医者に、「頼んだわ!」と声をかけた。
外に出ると、「マイク」を繋いでいたロープを外し、アメリオと二人でそれに跨った。
そして、一気に加速して走り出す。か
目標は少し距離の離れた場所を走るチェット。
それを追うように、「マイク」を全速力で走らせる。
あいつから目を離しちゃいけない――!
険しい顔で馬を操るオーハンス。
アメリオは、訳もわからずただ彼のことを伺っていた。
「なあ」
知り合って、半年経ったある日。
貴族の少年は、平民の友人に問いかけた。
「もし、もしもだ」
「なんだよ、急に」
貴族の少年は、目を逸らしながら彼に言った。
「僕が君を裏切ったとしたら、どうする?」
笑い声。
平民の少年は、腹を抱えて笑っていた。
「し、真剣な話なんだ!」
「あはははっ、いや、ごめん。いつになく真剣だったから……くふっ」
「それで……どうなんだよ、僕なことを嫌うか?」
腹を抱える平民の少年を見ながら、貴族の少年は言った。
それに対して、ひいひい言いながら、
「そんな訳ないじゃんか。俺たち、親友だろ。
いきなりそんな事聞くなんて、なんかあったか?」
「ああ……まあ」
貴族の少年は口ごもる。
平民の少年は不思議そうな顔をして彼を見る。
「最近、ほら、貴族とか協会の圧政が強まってきてるって、だから、第三身分の人たちから恨まれてないかって……」
貴族の少年がそう言うと、キョトンとした顔をする平民の少年。
そして、彼は突然ニッと笑った。
「俺は政治なんかよくわかんねーから大丈夫だ!」
「そういう問題じゃ……」
「いや」
平民の少年はそ言葉を遮る。
「大人たちのいうことなんて、俺たちには関係ないだろ。
俺は俺、お前はお前、俺達は俺達だ!」
貴族の少年は暫く考えるように俯く。
そして、ボソリと呟く。
「それ今考えただけだろ」
「あっはははは」
平民の少年はそう言うと、貴族の少年から離れた。
そして、踵を返して帰路に着いた。
「もう帰るのかよ」
「ああ。ねーちゃんが今日は早く帰ってこいって」
そういうと、貴族の少年の方を振り返り平民の少年は手を振った。
「じゃあな! また明日、ハルト!」
そこは、巨大な地下牢だった。
今までの宮殿のような作りから一変し、まるで凶悪な何かを捉えるべく作られたかのような、
丸石の廊下の左右に用意された、丸太のように太い格子の牢屋。
ハルトマンが中を覗くと、そこには腐った木のベンチと――なんらかの死骸しか残ってなかった。
だが。
「……人を収容していたんじゃないのか?」
その姿は既に朽ちかけていたが、黒く爛れた広く伸びた肌に、そこから見える骨格は人間の構造とは思えない形をしていた。
人間どころか、猿や他の動物にだって当てはまらない。
「どこか人の面影はありますけど」
「……あんなのが人などとは、あまり信じたくはないな。あの死体には悪いが」
牢屋から離れて、再びハントマンは歩き出した。
長い丸石の廊下を進む。
地面には、黒い粘液が微かに残っていた。
あの怪物がここを通ったのは間違いない。
この先に、いる。
廊下の先に佇む闇を睨みつけるハルトマン。
その時だった。
悲鳴。
闇に閉ざされたその向こう、人間のものだ。
「っ!」
「今のは……っ!」
ハルトマンは駆け出した。
グリーゼもそれに追随する。
嫌な臭いが彼らの鼻孔をついた。
先に進むにつれ、その度合いが増していく。
何かに踏み込んだ。
びしゃりと液体状の何かが跳ねたような気がした。
丸石の廊下を抜けると、淀んだ空気が二人を迎え入れた。
そこは、広い部屋だった。
地下墳墓のように広いその空間は、石のタイルで組み立てられた装飾がいくつも並び、審判するかのように彼らを見下ろしている。
それらを、淡い光を放つ水晶がいくつも並び、暗闇の中で薄ぼんやりと照らし出していた。
そして、床。
臭気を放つ黒いぬらぬらとした粘液が、まるで泉を作るかのように一面に広がっていた。
靴底を指一本分ほど飲み込む黒い泉を進みながら、ハルトマンとグリーゼは辺りを見回す。
出口はない。悲鳴は、ここから聞こえたに違いない。
臭いに顔を顰め、よく見えない視界に視線を巡らせる。
何もない筈がない。
どこだ、どこだ――。
「く、くるなぁ……」
その時だった。
震える声が、闇の向こうから聞こえた。
ハルトマンとグリーゼは顔を見合わせ、そちらへ向かう。
「く、くるなって、言ってるだろぉ!」
武器を構える金属音が聞こえる。
そして、向こうから現れたのは。
「ジェフ……!」
「ひぃっ!? ……ハ、ハルトマン様!?」
白いローブの中年男だった。
顔を真っ青にして、武器を構えながらガタガタと震えている。
その後ろには、怪我をした同じ白いローブの若い男女が
「ど、どうして!? お逃げになられたはずじゃ!?」
「何を言っている。アレをここで逃す訳にはいかない。でなければ、この計画の意味はないだろう」
そういうと、少しだけ息を吐いて、ハルトマンは男をその鋭い目で改めて射抜く。
「あの怪物はどこだ」
「そ、それは……」
男が口を開くと、そのまま固まった。
不自然な間が空き、ハルトマンは怪訝げに眉をひそめる。
「おい、どうなんだ」
「あ…………あっ……」
やがて、ワナワナと目を見開いて小刻みに震えだす中年男。
ハルトマンが詰め寄ろうとした、その時。
「避けて!!」
グリーゼの怒声。
同時に、風切り音。
反射的に剣を抜き放ち、振り返る。
その瞬間、視界が黒い爪で覆い尽くされた。
「させないっ!」
金属を叩いたような音。
ハルトマンの顔の前、グリーゼの籠手が、その攻撃を防いだ。
ハルトマンが見上げる。
そこには、怪物がいた。
黒く光る殻を背負い、ナメクジのような尾に、そこから伸びる鋭い節足。
その一本が、彼に向かって伸ばされていた。
抜き放った金色の剣が閃く。
節足を払うように横文字に剣を振るが――その柄から返ってきた感触はとても硬いものだった。
「っ!」
ハルトマンが目を見開く。
金色の刃が、節足の鋼のような硬さに阻まれていた。
剣を引き、グリーゼと後ろに飛んで距離をとる。
中年男ら三人を背後に、彼は屋敷で修行で明け暮れた日々を思い返していた。
それなりに努力をした。鎧すら断ち切るこの剣は、勿論誰からも認められた。
しかし。
目の前の怪物を睨む。
『常識が通用しない常識』くらいはあったつもりだった。
それでも、斬れないなんて、そんなものはあり得ないと思っていた。
この怪物は、二度もこの剣を防いだ。
一度めは、殻で。二度めは、その脚で。
……いや、違う。改めて、理解した。
『常識が通用しない常識』なんかない。
ここは「ベルガーデン」。
幼い頃より聞かされた、人の手の及ばぬ幻想の大自然。
常識なんて、そもそも、そんなものはない。
「なんの、為に……」
右手の甲の古傷が、ジクジク痛む。
思考が麻痺したように回らない。
なんだ、なんなんだ、一体。
「ハ、ハルトマン様!!」
大声で呼びかけられ、ハッと気がつく。
中年男が、ハルトマンの肩を掴んで揺さぶっていた。
「お、お気を確かに! 今は……ひぃっ!」
気がつけば、怪物がその殻の上体を大きく起こしてこちらを見下ろしていた。
ハルトマンを向いていた視線は、気がつけばその中年男に注がれている。
まずい。
まずいまずいまずい!
「逃げろ!」
黒い塊が、落ちてくる。
剣を構えるも――焼け石に水。
この質量は、受けきれない!!
「ハルトマンさん!!」
「――――――っ!!」
体を強張らせて、来るべき時を待っていた、その時だった。
闇を切り裂くような、叫声。
硝子を引っ掻くような、何かの鳴き声。
突如、部屋が明るくなる。
周りに生える水晶が、その鳴き声に呼応するように明るく輝く。
それに反応した怪物は、その体を落とさずに四対の節足で支え、ハルトマンたちに背を向けた。
そして、その叫びを威嚇するように、殻の奥底から深い呻き声を上げる。
部屋の中に響いて入り混じる二つの叫び。
やがて、先の声の主が、天井に開いた空気孔から、それは姿を現した。
身体中に生えた金色の鱗。
トカゲのような体は、大人三人分と信じられないほど大きく、首や、背中から断ち切られた尾にかけて、薄く虹色に輝く透明な水晶が生えている、
トカゲにはない鋭い牙をその口内に覗かせ、怪物は叫んだ。
それに対して黒く爛れた怪物も、呻き声で返すように叫ぶ。
その隙に剣を急いで仕舞い、ハルトマンは三人を出口の方まで急いで連れて行った。
出口へ着くと、彼は三人を廊下に押し出した。
「お前たちは早くここから逃げるんだ」
「で、でも!」
「二人を近くの村まで連れて行け。チェットが交渉しているはずだ」
そういうと、中年男は暫く何かを言いたそうにしていたが、やがて意を決したように踵を返し、傷ついた男女の白ローブを庇うように、牢屋の廊下を歩いて行った。
それを見届けたハルトマンとグリーゼは、後ろを振り返った。
そこには、二体の怪物が、一触即発といった様子で睨み合っていた。
「あんなこと言ってましたけど、私たちの勝算はそれなりに低そうですよ?」
「やるしかないんだ。……貴方は帰っていい。どちらにせよ、僕はやる」
ハルトマンは、鞘に収めた剣を、再び引き抜く。
それを見たグリーゼは、何も言わずに、続いて前を睨み、構えた。
広間のようなその空間に、混沌が渦巻き始めていた。