第46話 「炉の心」

文字数 3,317文字

「後は、君たちだね」

 大男の視線が、ヨルカたちに向いた。
 ヨルカにとって、それは得体の知れない恐怖だった。
 抵抗できない――抗う術のない恐ろしさ。

 しかし、背後に怯えの気配を感じた。
 男たちに酷い仕打ちを受けたオーハンスが、何かを思い出すように震えていた。
 それを見て、何か決心をするヨルカ。

「ぁ……くぅっ……」

 ナトは喉から声を絞り出そうとするも、そもそも言葉を完成させることができなかった。
 思考能力が明らかに低下していた。
 その上、口や舌が思うように動かない。

「うご……け、ぇ……」

 圧倒的な危機的状況。
 霞みはじめる視界に、限界まで目を見開いて現実にしがみついていると、

「私が、いますから」

 ヨルカの声がした。

「オーハンスさん、逃げてください」
「お、お前……何言って」
「グリーゼさんに、この事を、早く!」

 強い意志を伴ったその言葉を受けると、オーハンスは逡巡の後に走り出した。

「馬鹿っ……お前も、ナトも!」

 倒れた倒木の間をすり抜けて、その小さな体が木々の隙間に滑り込もうとしたところで、

「そう焦らず……ゆっくりしていきなよ」

 男が右腕を振るう。
 唸りながらオーハンスに襲いかかる斧。

「いっ!?」

 オーハンスの短い悲鳴と共に、彼の足元から土煙が上がる。

「オーハンスさん!?」

 どうやら左足をやられたようだった。
 骨には至らない程度の切り傷だが、顔を痛みに歪めて抑える太ももからは、赤い液体が溢れ出している。
 だが、オーハンスは強く目を見開くと、半ば這うように茂みの中へと逃げ込んで、それから姿を消した。

「……逃げられたかぁ」

 大男が向き直る。

「君、足止めをするつもりなの?」
「……そうだって、言わなかった?」

 ヨルカが、いつになく強い口調でそう返す。
 その桜色の唇は、少し震えていた。

「君が? どうやって?」

 細い足と体を下から上に舐めるように見て、男は怪訝げに太い首を傾げる。
 唇だけじゃない。足も、その澄んだ瞳も、怯えを伴って震えていた。
 虚勢――とても哀れな子犬のようだと、男は思った。

「『下水道を漁る鶏』の方が、よっぽど賢いよ」
「……っ」
「ああ……やっぱり君達もあそこから来たんだねぇ」

 それは、ヨルカたちの故郷のことわざだった。
 のそり、のそりと丸太のような足がヨルカに向かって進んでいく。
 正面に立たれ、自分の身長の二倍以上もあるその姿を()め付ける。

「君の身なりからして……『馬車』の人たちとはぐれたのかい? もしそうだとしても、送ってあげる事はできないよ。君はここで頂くからねぇ……」
「手、を……出す、なぁ……!」

 掠れた声が届く。
 血の海の中に倒れるナトの物だった。
 不思議なことにもう血は止まったのか、切り取られた肩の一片には、凝固しつつある赤い液体が絡み付いている。

「へぇ……」

 ――まだ意識があった!
 男の期待を伴った視線がナトを捉える。
 が、その瞬間。

 大男は、自分の脛に違和感を感じて、おもむろに視線を下ろした。
 見れば、小さな少女が自分の脛に鋭い枝を突き立てていた。

「手出し、させないっ……!」

 言葉とは裏腹に、男の糸のほつれた古着に染み出す血液に狼狽えて、手を離して数歩下がり、青い顔をする少女。
 彼女は、血が苦手だった。何せ箱入り娘だ、このような不純な液体を目にする機会は少なかった。
 しかし、再び別の枝を拾うと、その端を持って強く握りしめ、先端を男に向けながら睨みつけた。
 ――向けられた枝の先端は震えていた。

「はははっ」

 男は、思わず笑ってしまった。
 それは、埋めて蒸し焼きにした肉が思いの外良い具合だったり、
 山の中腹でたまたま手に取った石ころが、なかなか手頃な軽石だったりした時と、全く同じ笑いだった。

「鶏よりかは、美味しそうだぁ」

 不揃いな口元から垂れたよだれが、茶色の地面にシミを作った。





 朽ちた水路を泳いでいる様な、ボンヤリとした意識の中。
 ナトは、支配を拒む体に必死で鞭を打ち、まとわりつく泥に溺れない様にもがいていた。

 彼女が何かしている。
 駄目だ、その男を刺激してはいけない。

 守らなければ。
 彼女に何かあってはいけない。
 それだけは、絶対にいけない。

 動け、動け、動け――!!

 自分の意識を引っ叩いた。
 すると、靄でも晴れるように、視界が鮮明になっていく。
 体が、反動から立ち直り始めた。

 半ば無理やりだった。
 本来は有り得ない事ではあるが、その時、ナトの頭の中では警報が鳴り響いていた。

 今、彼は失うことを何より恐れていた。
 それが、散っていく意識を無理やり一つの流れへと押し込んで、覚醒させた。
 血の流れが早いのを感じながら、彼は目に再び(ともしび)を宿し、状況把握に努めた。

「……っ! ヨル、カっ!!」

 天幕の上がった視界にその光景が映る。
 彼女を前にした男が、その丸太のように太い腕を振り上げていた。
 そして、次の瞬間。

「ひぅ――」

 一瞬だった。
 その小さな体はくの字に曲がり、いとも容易く弾き飛ばされた。

 彼女にとってそれは致命的だった。
 体の感覚が一瞬なくなり、視界が回る。
 そして回復した時には、地面を這う太い木の根の上で仰向けに倒れていた。

 そして、遅れて襲いかかる激痛。
 泣き叫びたいが――喉が詰まったかのように、色々なものを吐き出すために開けられた口からは何も出てこない。
 泣く余裕も無い筈が、見開いた目からは、体の条件反射で大粒の涙が押し通っていった。

 これが、痛み。
 ナトが自分たちを守るために体を張ってきた、そのほんの一部。

 (うずく)まり、痛みが消えるのを待った。
 だがその巨漢は、そんな事を待ってはくれない。

「何を休んでいるんだい」

 光のない目が、不躾に自分を眺める。
 腹の底から湧き上がる恐怖が、口を突いて出そうになった。
 だが、それでも彼女は、それをもっと奥の方へと押し込んだ。

 覚悟はしてあると、そう言った。
 もう後戻りはできないという彼の言葉に頷いた。
 こんな、ところで――!

 目尻に涙を溜めながら、ヨルカは再び男を睨み返した。
 心臓が縮み上がる。
 体も強張っている。
 しかし、その柔らかく脆い体に宿る意思は――燃え盛る炉の如き熱を放っていた。

 大男は目を見開いた。
 少女が、自分の事を睨んでいる。

 例えば、路地裏のネズミが犬を威嚇するように。
 例えば、痩せこけた貧民が王に杖を向けるように。

 ――いや、違う。

 それは、決して「無謀」や「蛮勇」などではない。
 彼女の中には、崩れ難い鉄のような魂が居座っている。
 それらと比べる事自体が失礼なほど、高潔な物だ。

 咎人、もしくは蛮族となって久しい身だが、心の片隅に残った小さなそれが、そういった白く正しい行為を思い出す程には、眩しかった。
 だが、水を得て光を浴びたとしても、枯れた花弁は黒ずんだままなのだ。

「せめて、丁寧に摘み取ってあげるよ……」

 大男の汚れた手が伸びる。
 その影が、少女の純粋な瞳に覆い被さり、
 そして――、

「――ァッ!!」

 男の腕から、銅色の剣が生えていた。
 見れば、伸ばした腕に剣を持つ、餓狼のように瞳を光らせた一人の少年の姿。

 ――血が(たぎ)っていた。
 彼女が殴られたその瞬間に、どうしようもないほど鼓動が早くなり、世界が遅くなった。
 体の痛みは消え去り、動きの鈍いからだも潤滑油を流し込んだかのように軽快だ。

 青い剣を使うことはできなかった。
 しかし、体さえ動けば。

「守、れる……」

 口からこぼれたその声は、何時になく複雑な、強い感情を孕んでいた。
 男は剣を受けた腕を見て、次にその狂気に(まみ)れた少年を確認して――笑った。
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