第2話 「陽だまりの森」

文字数 6,896文字

 互いに、隣と自分の足音を聞きながら、霧の中を進んでいく。
 果ての見えないその中を、ゆっくりと。

 突然。
 光が強くなっていく。
 黒に思えたそれが、真っ白に染まっていく。

 視界が晴れる。
 そこは。

 高く蒼い空。
 大地の上を緑色の木々や草むらが生い茂り、緩やかな川が走る大地。
 そこを崖が区域分けするように切り立っており、
 それらの上に崩れた遺跡や廃墟が点々としている。

 霧を抜けた丘の上で見下ろす。
 その光景に息を飲めば、異なる空気感が軽い混乱をもたらした。

「ここが……お父さんの来た場所」

 ヨルカが震える声でそうつぶやく。

「行こう」

 立ち止まるオーハンスとヨルカを尻目に、ナトが歩き出す。
 その後ろを、オーハンスは我に返ったように、ヨルカは戸惑いながらついていく。

「あ、あの……どこに行くんですか?」
「ヨルカはお父さんを探しにいくって言ってなかったっけ」
「私じゃなくて、その、ナトさんは」

 そう問われ、当たり前だとでも言うように、

「『魔王』のところ」

 そう答えた。
 
「まっ、まおっ!?」

 驚いた様子のヨルカを無視して進み続けるナト。
 少女は彼の裾を引っ張って、必死に引き止める。

「魔王って、あのおじさんの冗談って……」
「あの人の言うことは本当だし、俺の目的は魔王に会いに行くことなんだ」

 そう言って、ナトは裾を掴む手を優しく解いて、
 湧き水のように透き通った瞳を見つめる。

「別に脅しているわけじゃないけど、ヨルカももう引き返せないよ。
 この霧は、本当に俺たちを帰してくれない」

 ナトは続ける。

「俺やオルフはともかく、それに今更だけど……ヨルカ、君はどうなんだ。
 君には帰る場所があるんじゃないの?
 死んだお父さんも、君まで死ぬことを望んでいたの?」

 ヨルカは黙る。
 ナトも、それを見ていたオーハンスも何も言わない。

「わ、私は……家族が危険な目にあっているのに、部屋の中でのうのうとパンを齧っていろだなんて、そんなことできません。
 それに……父は、死んでいません」

 その答えに、無言で踵(きびす)を返して歩き始めるナト。
 そんな彼についていくオーハンスの後を、ようやく歩き出したヨルカが続く。

「……と、ところで、なぜナトさんはそんなにここの事を詳しいんですか?」
「来たことがあるから」

 驚いた様子のヨルカ。
 しかし、その答えに、彼女は首を傾げる。

「えっと、仮にそうだとして……霧から外へは出られないって言ってませんでした?
 父も実際に戻ってきましたし」
「確かにさっきはそう言ったけど、実際のところ、わからないんだ。
 君のお父さん以外にも、実は、たくさんの人達がこの場所に足を踏み入れているらしい。
 確かに、ほとんど誰も生還できていない。
 でも、聞く限りじゃあここの『財宝』を国に届けた君の父さんも、そして俺も、例外的に出られたんだと思う。関係あるかはわからないけど……俺が出ようとした時、実は何度も失敗してるんだ」

 顔を正面に向けたまま、どこか詰まったような声でそう答えた。
 よくわからない、という風に首をかしげるヨルカ。

「……でも、それでも私は進みたいです」

 そんなヨルカの言葉に、何か返すでもなく、ナトは森へ向けて進んだ。





 丘を下り、ナトたちは森へ入った。
 濡れた草木の匂いが鼻孔をくすぐり、
 苔やキノコが生い茂り、ジメッとした雰囲気を醸し出している。

 しかしいざ突入してみると、雰囲気だけではなく実際にかなりの湿気が森に閉じ込められていることが分かった。
 気温も軽く汗をかく程度には温かい。
 陰を落とす冠の下、ところどころに形成られたギャップから、一抹の陽光が漏れているのが唯一の救いだった。

 ナトとヨルカは来ていたフードコートやマントを脱ぎ、馬が背負う荷物に仕舞い込んだ。肌を濡らす汗が服を貼り付けるからだ。
 その中で一人、オーハンスだけがフードコートを被ったままでいた。

「気持ち悪くないんですか?」
「……別に」

 少しだけ間を開けてそう答えるオーハンス。
 しかし言葉とは裏腹に、彼の頬には汗が伝っていた。

「『陽だまりの森』……」

 ナトがポツンとそうつぶやく。

「ん? 今なんか言ったか?」
「いや……ただなんとなく、そんな名前が浮かんで」

 不思議そうに襟足あたりを擦るナト。
 しかし、あまり気にしていなさそうにすぐに表情を戻した。

「ところで、夜はどうするんですか?」

 ナトは軍馬にくくり付けられた荷物を軽く叩く。

「できれば、川の近くを仮拠点にしたい。そこまで進んで、一晩明かそう」
「と、言うと、向こう側か?」

 オーハンスが指をさす。
 その方向からは、木々のざわめきに紛れて、僅かな川のせせらぎが聞こえていた。

「そうだね。できれば早めに辿り着きたいし、ペースをあげよう」

 三人と一匹は草木に囲まれた、うねうねと曲がりくねった森のけもの道を進む。
 前に垂れ下がった蔦や背の高い草。
 それを、ナトが大きめのナイフで切り落とし、
 時々小さなぬかるみに足止めをされながらも、ほどよく順調に進んでいく。

 そして、太陽が傾きかけた頃。
 暗がりを抜け、彼らはついに川に辿り着いた。

「うわぁ」

 ヨルカが水疱が浮くような声を上げる。

 辺りは岸壁に囲まれており、そこには無数の洞窟が口を開けていた。
 ナトたちはその下の開けた草原に位置していて、
 岸壁の向かいに、彼らを挟むように川が流れていた。

 その川には無数の光る虫が飛び交っていて、さらに不思議な形をした植物がところどころに自生していた。

「ここにしよう」

 ナトがそう言って、馬から荷物を下ろし始める。
 オーハンスもそれに従事し、ヨルカは手伝おうとしたものの、重くて手が出せなかったため、「いいよ」と言うナトの言葉に甘え、傍らで見守っていた。

 ナトは荷物の中から空の瓶を取り出す。
 彼は馬の手入れを始めたオーハンスの横を通り過ぎ、川辺へと向かう。
 そして、川辺にしゃがみ込み、瓶の中に少量の水を入れると、川の周囲を飛び交う光の一つを、瓶で捕獲した。

「えっと……何をしてるんですか?」

 ヨルカがナトに問いかける。

輝蜂(ヒカリコバチ)……」
「え?」
「水を好む習性がある蜂で、水さえあれば光を放ち暗闇を照らす」

 ナトは、中で光る虫が飛び交う瓶を持ち上げた。

「夜、暗くなった時に使えるかなと思ったんだ」

 「はぁ……」と、ヨルカ。
 ナトは発光する瓶を傍らにおいて、荷物の整理を始める。
 そんな彼の背中を見ながら、少女はぽつんとつぶやいた。

「あんな虫、国にいたかな……?」

 着々と準備は進む。
 その時。
 ふと、オーハンスが顔を上げた。

「どうしたの?」
「いや……いま妙な音がしなかったか? 藻を踏んだ時みたいな……」
「……川が近いからじゃないかな」

 そう言って、ナトは作業に戻る。
 イマイチ釈然としない表情で、オルフは辺りを見回した。
 だが、辺りに不審なものは何もなかった。
 ――まだ、その時は。





 それは、空が茜色に染まり始め、森や川が燃える様に化粧を始めた頃合いだった。

 ――鐘の音が大地を震わす。

 地の底まで響くほどの重みのある、静かで壮大な音響。
 一定の調(しらべ)を紡ぐ旋律が、何度も繰り返される。

 三人は、草原に座りその音に聞き入っていた。
 やがてその鐘は鳴り止み、辺りには自然の静けさが戻ってくる。

「なんだったんでしょう……?」
「さあ。どこにも鐘なんて……ないよな?」

 オーハンスが周りを見渡す。
 その後再び鐘が鳴ることはなく、静かに夕陽は森の木々の中に沈んでいった。






「あの、これ……」

 すっかり辺りは暗くなり、瓶の中の蜂が三人を照らす。
 そんな彼らの手元には、くすんだ茶色の棒状の何かが握られていた。

「『ヒトクチ』っていう保存食。
 旅人なんかがよくお世話になるもので、ちょうどいいかなと思って持ってきたんだ」

 練り固められたようなそれを、不思議そうに眺めるヨルカ。
 一口、口に含む。

「っ!? うううっ……」

 途端、口を抑えて蹲る。

「おい、どうしたんだよ、一体」

 これだから温室育ちは、と呆れたような表情でヨルカを見つつ、自分も一口齧るオーハンス。

「むぐっ!?」

 そして、同じように口を抑えて冷や汗を流す。

「ん? どうしたの?」

 同じように齧りながら、ナトは不思議そうな顔で二人を見る。

「これ……なんですか?」
「雑穀類と豆類を練って焼き上げたものだよ。すごく美味しいけど……」

 首をかしげながら、自分の齧ったそれを見つめるナト。
 ヨルカは信じられないといった様子で目を丸くする。

「もしかして、この荷物の中って……」
「大体これだけど」

 さらに青くなっていく少女の顔。
 ナトはボソボソと食みながら首を傾げる。

「少し食べただけでこの衝撃……まさに一口」

 オーハンスはそう言い残して、川辺へと走り去っていった。





 その夜は、ヨルカが刈り取ってきた大きな葉と、粗い(わら)で作った(むしろ)を地面に敷いて、マントを被りながら三人はそれぞれ眠りについた。

 寝床について(しばら)く経った頃。
 ヨルカがなかなか寝付けないでいると、その隣から物音が聞こえてきた。

 光る小瓶の明かりを頼りにそちらを見やると、
 少女のような小さな背中が離れていくのが見える。
 しばらくぼうっとしていたヨルカだが、自身もそっと身を起こし、音を忍ばせてそれについていく。

 着いた先は川辺だった。
 耳を澄ますと、水面を跳ねる水の音が、闇の中から響いている。

 そんな中に小さなシルエットが見える。
 近寄ると、川辺を飛ぶ光る蜂がその影を照らし出した。

「……っ!?」

 色白の肌が露出していた。
 何があっても脱ぐことのなかったフードコートをはだけて、川の中で水浴びをしていたその背中は、まるで酷く焦げ付いたシルクの布の様に、数え切れないほどの傷が、小さなそれを塗り潰していた。

「オーハンス、さん?」
「っ!!」

 勢いよくコートを纏い、少年は振り返る。
 バツが悪そうに顔を合わせる二人。

「あ、あの……」
「寝付けなかったんだ」

 そういうと、「少し向こうを向いててくれ」と言って、
 慌てて背を向けるヨルカを尻目に、闇夜に衣擦れの音を生む。

 「いいぞ」というオーハンスの言葉に、安堵して向き直ったヨルカは、
 水を拭き取った布を絞る彼に、語りかけた。

「あの、さっきの……」
「傷か?」

 なんでもないようにオーハンスはそう言った。

「……俺、こんな見た目だから親父に嫌われててさ。いつも鞭で叩かれてたんだ。馬用の」
「お、お父さんに……? で、でもそれって、まるで奴隷みたいな……」

 そこまで言って、ヨルカは口を押さえた。
 対して、オーハンスは動じた様子はない。

「まあ、扱い的にはそんなところだ。血はつながってるんだけどな」

 そうつぶやくと、沈黙が訪れる。
 次に口を開いたのは、気まずそうにしているヨルカだ。

「ずっと、その……コートを着てたのって、もしかして」
「……色んな所に傷があるんだ。そんなもの、わざわざ見せようとも思わねーだろ」

 服の裾を軽く握るオーハンス。

「あいつは、初めてだったんだ」
「え?」
「ナトはさ、こんな俺と、普通に話してくれたんだ。
 毎日増える傷跡を心配してくれて、話も聞いてくれて……そんなの、初めてだったんだ」

 オーハンスは、胸のあたりに手を当て、じっと何かを考え込む。
 そして、ぐっとその手を握り込んだ。

「……だから、嫌わないでやってくれ」
「嫌うって……」
「ナトは、本当に優しいんだ。お人好しで、それで……。今はただ、周りが見えてないだけなんだ」

 「それって……」というヨルカの言葉を待たずに、オーハンスは立ち上がる。

「戻ろう、ナトが一人で寂しがってるぞ」

 荷物をまとめ、歩き出そうとした、その時。

 それは、突然だった。

「っ……!?」
「ひゃっ……な、なんですか!?」

 耳に響く甲高い鳴き声。
 森の草花が小刻みに震える。

 それは、人ならざるものの存在の表明。
 二人の身体を畏怖が蝕む。

 汗が止まらない。
 暑いわけではない。
 ただ、それが恐ろしいのだ。

「……ナト!」

 落ち着きを多少取り戻したところで、一人にしていた仲間を思い出す。
 全速力で走り出した少年の後を、ヨルカは追いかける。





 そこには、馬が一匹と、真新しい生活の跡、それに光る虫を閉じ込めた瓶しか残っていなかった。
 背の高い少年の姿は、そこには無い。

「ナト! おいナト!!」

 オーハンスは必死に彼の名前を呼ぶ。
 しかし、それに対する返事はなく、代わりに木々が嫌なざわめきを立てる。

 血の気が引いていく。
 そうだ。ここは未開の地。
 踏み入れることの許されない禁断の領域。

 常に危険と隣合わせ。
 死すらもありえるのだ。
 ずっと考えて、覚悟してきたことなのに、どうして。

「きゃぁぁっ!? 前、前っ!!」

 少女の叫びに、我に返る。
 顔を上げれば、そこには、大きな影が、

「あっ……」

 迫る危機感に目を瞑る。
 嫌だ。
 死にたく――。

 死にたく、ない。

 ――まだか。
 まだなのか。

 まるで、体が固まっているようだ。
 もしかして、自分はもう。

 恐る恐る、目を開ける。
 ぼやける視界に映るのは、暗闇を落とす森林。
 死んでない。生きている。

「オルフ、大丈夫?」

 顔を上げれば、そこには見知った親友の姿があった。
 髪は汗で貼り付き、どこかの茂みに隠れていたのか葉を身体中にくっついて、息が少し乱れている。

 その手には、手頃な石。
 どす黒い血が滴っている。

 悲鳴のような人外の声に、川の方で跳ねる水しぶきの音。
 その方向に目を向けようとすると、「オルフ、早く!」とナトに呼ばれる。

 差し出されている手を握り、震えるそれを踏ん張り立ち上がると、
 ナトはオーハンスとヨルカの手を引き、走り出した。

「あ、あのっ、どうしたんですか?」
「いいから、とにかく走って! あの洞窟まで!」

 カイロスを呼び、走りながら飛び乗るオーハンス。
 淡く光る瓶を掴み、ナトはヨルカを引きながら走る。

 馬を走らせたオーハンスが振り返る。
 そこには。

 赤く染まった川の中から、象のように巨大な影が顔を出す。
 一部に傷がついた、闇に滑る艶のある身体。
 大地を踏みしめる二足は筋肉質で、魚のような尾を持ち、反対に伸びる首は長い。

 その先にある目は大きくギョロリとしていて、
 開閉する魚のような薄い口は、泡のはじけるような音を出している。

「……おい、なんだよあれ」

 嫌な汗がオーハンスの頬を伝う。
 前に向き直り、鼓動が速まるのを感じながら馬を走らせる。

 前方に見えてきたのは、崖に空いた無数の洞窟の内の一つ。
 そこに、滑るように入り込む。

 洞窟をしばらく進み、多少開けた場所まで辿り着く。
 そこでオーハンスは下馬し、三人は湿った地面に腰を下ろした。
 それぞれ息は荒れていて、特にオーハンスやヨルカは顔を青くしていた。

 ナトは洞窟の中を照らした。

「ひっ!?」

 ヨルカが悲鳴を漏らす。
 そこには、多くの薄汚れた白骨が散らばっていた。
 それらは例外なく、ところどころが悲惨に砕けていたり、不自然な折れ方をいている。
 ナトが警戒して辺りを探っていると、

「あ、あれは……一体何なんですか?」

 静かな洞窟の中に、荒い息遣いと、少女の問いが響く。

「栓穴紐(フクロナガラ)……」
「え?」

 ナトがポツンとつぶやく。
 その言葉に、ヨルカの声が岩壁を反響する。

「……そこに誰かいるの?」

 それに返すように、別の声が三人のもとに届く。
 洞窟の奥、暗闇の向こうから。

 闇の中から現れたその影を、ナトが持ち上げた瓶が放つ、虫の淡い光が照らす。
 宝石のように深く紅い、腰まで伸びた髪、
 同じように飲み込まれそうな朱色を持つ瞳は、不思議な魔力でも宿っているかのように力強く輝いている。

「……あなた達、誰?」

 三人が目を向けた先には、麻の服とケープを羽織った、ヨルカと同じくらいの年頃の少女がいた。
 
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