第37話 「霧の中で 上」

文字数 4,576文字

「オルフ達と離れちゃったわね」
「どうしようか」

 霧が渦巻く中、二人の影が肩を揺らす。
 朝はあんなに輝いて見えた緑色の木々も、今は影となって二人を見下ろしている。
 いつかの暗い森を歩く薄気味悪さを感じながら、慎重に辺りを探る。

「来た道を戻るのはいいけど、霧が濃くて迷いそうになるね」
「大丈夫よ、どうにかなるわ!」

 本当に、そうならいいんだけど。
 ナトは枝を潜りながら、そんなふうに思った。

「ん? あれ?」

 霧を掻き分けること寸刻、未だに晴れぬ視界の中、
 背後で驚いたような声を上げたアメリオに、ナトが振り向いた。

「どうしたの?」
「おかしいわ、砂時計が……」

 アメリオが手に持った砂時計を持ち上げて見せた。
 それは、淡い光を放っていた。
 霧の中を照らすように、綿毛のような光を発している砂時計は、よく見ると落ちたはずの中の砂が戻り始めている。

「壊したの?」
「もしかしたらそうかも」

 認めるのか。
 ナトは不思議そうに眺めるも、何事もなく発光を止めた砂時計を見て、また歩きだした。

「ナト、待って!」
「マリー、悲しいけど、壊れたものは元には戻らないんだ」
「そうじゃないのよ、砂が……」

 アメリオがそう言って、あちこちに振り回しながら砂の入ったガラス瓶を覗く。

「おかしいのよ、今までの方角じゃあ砂が落ちなくなったわ」
「どういうこと?」
「どこか、別の方向を指し始めたのかも……」

 そう言って、アメリオは突然体の向きを変えると、そのまま枝に引っ掻かれる事も厭わずに歩き始めた。

「ちょっと、待ってマリー」
「こっちに何かある気がするの、ついて来て!」

 訳も分からず、ナトは彼女の背中を追う。
 眼の前の霧の粒子が渦巻く。
 まるで、風雲が急を告げているように。






「ここは……」

 緩やかな渓流だった。
 苔生した岩が辺りに競り合うように転がっており、透明な水が当たり、飛沫を上げながらうねっている。
 ナトが辺りを見回している中で、アメリオが水の中へと踏み出した。

「ここを渡るの?」
「そうみたいだわ」

 仕方がない、と、ナトが後ろに続いて川へ入ろうとしたその時。
 ふと、見上げた先、対岸の岩の上。
 立ち込める霧の中に、うっすらと何かが見える。

 一段と高い水飛沫が上がる。
 急に押し倒されたアメリオは目を白黒させるが、その犯人であるナトの顔を見て、緊張に顔を強張らせた。
 水飛沫が上がった場所から、黒い何かが水に混じって流れていく。

「マリー、下がって!」

 アメリオの手を引いて、慌ててナトは元いた岸辺へと戻る。
 そして振り返り、霧を纏うその影を睨みつける。

 霧が一部晴れる。
 黒い液体が滴る、芋虫のような体が垣間見えた。

「『濁水藻(ヒメモドシ)』!? なんでこんなところに――」

 ナトが言い終わるその前に、その怪物は動いた。
 鋭い牙の生えた口から、黒い液体が気泡を伴い溢れ出す。
 そして、その奥から人の腕程度の太さの触手が、何本も伸びていく。

「伏せて!」

 ナトがアメリオを後ろに引く。
 本体の鈍重な動きとは裏腹に素早く動き回る触手が、二人目掛けて伸びていく。
 少年は銅色の剣を引き抜くと、触手の一本へ向けて刃を叩きつけた。

 破裂したかのようにその触手の先端は形状を失い溶けていく。
 しかし、枝垂れて地面に落ちると、まるで樹木が根を張るように先端を分岐させて地面に広げ、
 細くなった幾つもの粘性の糸が、飛びかかるようにナトへと伸びる。

「どこまでっ……!」

 迫りくる幾つもの黒い糸を避け、切りつけ、対処していく。
 しかし、いくら防いでも、いくらでも迫ってくるそれに、ナトの息も次第に上がり始める。

「……私が」

 そう言ってアメリオは躊躇しつつも右手を構えようとすると、
 その瞬間、「駄目だ!」と少年が叫んだ。

「大丈夫だから、下がって!」
「で、でも――」

 アメリオが食い下がると、ナトは剣を振るいながら、それでも微かに笑みを作った。

「マリー、君に魔法は使わせない」

 薄虹色がかかった銅色の切っ先が、迫りくる触手を叩く。

「俺が、守るよ」

 そう言って、ナトは笑った。
 しかし――現状、防戦一方で何も有効打が無いのも事実。
 徐々に追い詰められ、ついに川の方へと押し返されてしまう。

 正面には触手、川を挟んだ背後には怪物。
 どうする――!

 考えている合間にも、目の前の触手たちは待ってはくれない。
 暇を与えまいと、再び伸びてくる。

「くっ!」

 もはや、分裂を繰り返し数えきれない程の細長い髭が、躱したナトの跡を穿っていく。
 そのうちの幾本かが、川の中に突っ込んだ。
 その瞬間。

 痙攣するように、触手が跳ねる。
 そして、水に触れた部分から溶け出して、明らかに動きが鈍くなった。

「な、何が――」

 そして、気がつく。
 弱点は――。

 足元を見る。
 すり抜けていく透明なそれを、剣の腹で掬い上げた。
 飛沫となり、触手に覆いかぶさる川の水。
 するとそれらは一瞬で溶け出し、多くの触手が自由を失ったようにフラフラと虚空を泳ぐ。

「なるほどねっ!」

 ナトは怪物の方を見た。
 そして、腰を使って剣を水平に振り、思いっきり川の中から大量の水を持ち上げて、投げた。
 鈍重な怪物は避けることも出来ず、正面から飛沫を被った。

 奇妙な悲鳴が上がる。怪物のものだ。
 芋虫のような身をよじり、苦痛を表すその怪物を見て、ナトは息を呑んだ。

 ――効いている!

 初の有効打。
 しかし。

「流石に足りないか……」

 そう、まだ。
 苦悶の悲鳴を上げていた怪物は、既に回復したかのようにこちらを見下ろしていた。

 再び怪物の触手が暴れ出す。
 ひげ根のように分かれたそれは、二人の元へ真っ直ぐと向かっていく。
 ナトの剣が触手を切って辛うじて防ぐも、討ち漏らしが後ろのアメリオを狙う。

「っ!」

 アメリオが喉を詰まらせたような声を上げた。
 そして、右腕を上げようとして、

 視界を、何かが横切った。
 旅立ちからいつの間にか細かな傷跡を作っていた、それはナトの腕だった。

 触手がこれ幸いと巻きつき、根を張るように腕を絡めていく。
 肉の焼けるような音、腕の皮の表面から煙が上がり、焦げた匂いと共にナトが苦悶の表情を作る。
 しかし、すぐに剣で切り落とし、腕に絡んだ残骸――黒い糸を水に漬けた。

 再び持ち上げた腕から黒い液体の触手は消えており、代わりにその形に焼けた跡だけが残った。
 それを見て、思わずアメリオがは叫ぶ。

「私がっ! やるわ……できるわ!」
「駄目だ!!」

 ナトが叫んだ。
 回復した触手が、再びナトを目掛けて伸びてくる、
 銅色の軌跡を残して、その一振りが薙ぎ払う。

「絶対に、君に魔法は使わせない。だから――」

 顔の横から突き出された切っ先が、墨色の細長いそれを二つに裂いた。

「だから、信じて」

 信じて。
 赤い髪の少女は、固く目を瞑った。
 そして、持ち上げかけた右手を、胸の前で固く握った。

「――わかった、信じるわ」

 少女が、そういった瞬間。
 少年の剣が、虚空から生まれた青い輝きに包まれた。

「……っ!」

 海原のようにうねる淡い青の光。
 剣から(ほとばし)り、その光の残滓を残して揺れる。
 そして、踊る光に合わせて、金属楽器のような美しい旋律が辺りに響いている。

「これって、あの時の――」

 黒く爛れた怪物と遺構で戦った時。
 怪物の硬い殻を切り裂いた、あの時と同じ輝き。

 ナトが青く優しい光に包まれる剣身を見ていると、再び幾つもの触手がナトを襲った。
 剣の柄を強く握り、横に薙ぐ。
 黒く伸びた髭は、その一閃に散っていった。

「ナト、それ……」

 アメリオが目を丸くしてナトと光輝く剣を見る。
 その少年は、考えていた。

 いくらこの青い剣でも、あの怪物を切れるだろうか。
 剣を刺した時、全く手応えがなかった。
 ということは――切っても意味がない以上、恐らく無理だろう。

 なら。
 少年は怪物を睨んだ。
 そして、腰の辺りを弄り、生活用の丈夫なナイフを引抜く。

 すると直後、ナイフの周りにも同様の青い粒子が集まり始める。
 どうやら、何を持とうが関係ないらしい。
 これが何かはよくわからない。
 だけど――現状突破に役立つものであることは、わかる。

 左手にナイフを持ち、右手で粘土の剣「響」を構える。
 少年は走り出した。
 その行く先を阻むように、触手が伸びる。

「ふっ!!」

 素早く取り回された左手のナイフが、纏わりつかんと近寄る触手達を切り伏せる。
 川の中に深く踏み込み、水飛沫と共に飛び出した。
 一瞬で流れる景色を目で追いながら、目の前――怪物が見下ろす大きな岩に迫る。

 その岩肌を前に、ナトは粘土の剣を振りかぶった。

「はぁぁぁっ!!」

 袈裟斬り。
 少年の握る銅色の剣が、岩肌を滑る。

 その直径に対して、あまりにも足りていない剣の幅。
 それに加えて、岩を切るというあまりにも無謀な試み。
 怪物が再び触手を操り、その先端でナトを捉える。
 だが。

 それと同時、青い光が優しく閃く。
 怪物の乗る岩が、剣の軌跡に沿って、斜めに崩れた。

「うそ……」

 アメリオの呟きが、盛大な音と立ち上がった水飛沫にかき消される。
 その中から、奇妙な鳴き声が聞こえてき
 岩と共に川に落ちた怪物が、暴れながら悲鳴を上げていた。

 その黒いヘドロのような体が、水に溶け出して透明なその中を黒く汚していく。
 その源にある黒い塊が、呻き声を上げて苦しんでいた。
 水に溺れて、抵抗することができないらしい。

 次第に飛沫が収まり、黒の混じった白い泡が透明な水の上を滑っていく。
 芋虫のような形をしていたその怪物は、いつの間にか黒い球体のような形をしていた。

「終わったの……?」
「……さあ」

 岸辺から、おずおずと様子を伺うアメリオ。
 ナトは、動きがないのを見て剣を収めようとし――、

「っ! いやまだだ!!」

 その時。
 黒い塊となったそれから、
 爆発するように、大量の触手が飛び出した。

 それらは、岸辺をまっすぐに目指し、その先端を付着させていく。
 まるでテントの骨組みのように、次々と怪物と岸辺とを触手が繋いでいく。

 ナトは岸辺へと迫る触手を避けながら、アメリオをちらりと見た。
 アメリオは、ナトと同様に、触手を避けようと懸命に動いていた。
 しかし突然、

「あっ……」

 そんな声が漏れた。
 アメリオは、自分から出た声を最初は不思議に思い、
 そして次に、足を踏み出そうとしても動かないことに違和感を感じた。

 ふと、腹部を何かに抑えられているような感覚。
 下を見下ろすと、そこには黒い触手の一本が、自分の腹に突き立っていた。
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