第36話 「厄災の魔法 下」

文字数 3,591文字

一行は旅支度を終えると、再び歩き出した。
 休養を取り、足取りは到着した時より軽い。
 そうして、森の中をいくらか進んだところで、

「なあ、あれなんだ?」

 それに最初に気がついたのは、オーハンスだった。
 未だに続く森の中、そこにあったのは黒い水たまりだった。
 ヘドロのような物が泡の玉を浮かばせており、それが奇妙に表面を揺らしている。

「さあ、何もわからないけど……」

 ナトの頭の中には、何も浮かばない。
 ということは、何か特別な物ではなさそうだが。

「いくつもあるな」

 目を凝らせば、辺りに大小幾つもの黒い水たまりが存在していた。

「なんだろう、これ……うわっ」

 ベタリと、ナトの頬に何か液体のようなものが付いた。
 火で炙られた鍋の底を押し当てられたような痛みが走り、咄嗟に手の甲で拭うと、
 それを見て、ハッと上を見上げた。
 すると、筆から滴り落ちる墨のように、黒い液体が上から幾つも滴ってきた。

「今いる場所からはなれるんだっ!!」

 ナトが叫ぶ。
 その瞬間。

 ――地面が揺れたような、そんな錯覚。

 巨大な質量が上から落ちてきて、黒い液体が辺りに撒き散らされる。
 顔を腕で覆い飛沫を避けると、防いだ腕から焼ける痛みを感じながら、ナトは目の前のそれを捉えた。

 黒い液状の体は、いつかの爛れた怪物を彷彿とさせるものだ。
 しかし、その容姿は奇妙で、丸太のように太くて長い胴体には、吸盤状の足が四対付いていた。
 発達した口元は巨大で、芋虫のようなその顔には犬のような牙が生えている。

濁水藻(ヒメモドシ)っ……!」
「逃げろぉぉ!!」

 その号令を放ったオーハンスは焦った表情でマイクに乗り込み、「さあ」とグリーゼは状況を把握しきれないでいるヨルカを担いだ。
 ナトは咄嗟に腰の剣を抜き放ち、その傍らでアメリオが右手を突き出す――が、

「……っ」

 一瞬、ためらうようにアメリオの腕が下がった。
 その隙を捉えた怪物は、彼女に向かって黒い粘液のような物を吐きかけた。

「マリー!」

 咄嗟にかばうようにアメリオに覆いかぶさるナト。
 その背中に、その怪物の体液が降り注ぐ。

「がああっ!?」

 背中が焼けるように熱い。
 まるで赤く焼けた岩石でも乗せているかのような痛みが走る。
 黒い液体を服の布を引っ張って拭うと、そこには粘液の他に、新鮮な赤黒い液体も付随していた。

「マリー、大丈夫?」
「な、ナト……」

 アメリオが悲しそうな顔をしている。
 それを見て、あまりの痛みに意識が飛びそうになりながら、ナトは立ち上がった。
 怪物に剣を突きつける。

「任せて」
「え」
「俺がやる」

 そう短く言った後、ナトは怪物に向かって駆け出した。

「オーハンス、待ってください! ナトがまだです!」
「ああくそ、あいつまた……っ!」

 オーハンスは悪態を付きながらも、彼の意図と正しい判断を下すだけの冷静さはあった。

「俺たちじゃどうしようもない。とりあえず安全な場所まで逃げよう。
 グリーゼはヨルカを連れて逃げた後で加勢しに行ってやってくれ」
「ええ、そうですね、それが最善だと思います」

 そういって、マイクを走らせようとした、その時。
 怪物が、首を彼らの方に(もた)げる。

「オルフ!」

 ナトのその言葉に、咄嗟に手綱を操るオーハンス。
 怪物の牙の狙いが逸れ、括り付けられた荷物を噛みちぎる。

「あっぶねぇ……」

 破れた袋から、中身が幾つも落ちていった。
 旅の道具が、彼らの走る後を転がっていく。

 再び牙を向けようとした怪物に、今度はナトが飛びかかった。
 ヘドロのようなその背中に飛び乗ると、腐ったような悪臭に見舞われると共に、はだけた上体の、体が密着した部分から肉が焼ける音が耳に届いた。

「いっ……たい……っ!」

 痛みを堪えて、その剣先を怪物の体に突き立てる。
 根本まで深く刺さる刃。しかし、手応えがない。まるで中までヘドロで出来ているみたいだ。
 咄嗟に剣を抜くと、黒い液体が飛び散り、気がつけば空いた穴が塞がっていった。

「うわっ!?」

 暴れだす怪物によって振落とされてしまう。
 地面を転がると、跳ね上がり、辺りを覆う黒い影に飛び退いた。
 池に巨木でも倒れたかのような音は、倒れた怪物の物だった。

「マリー、無理だ! 俺たちも逃げよう!」
「え、ええ、そうね!」

 いつもの調子を取り戻し、アメリオがそう返事をした、その時だった。
 怪物が、ナトとオーハンスたちを隔てるように、森の道を塞いだ。

「これじゃあ……」
「……っ」

 アメリオが、右腕を持ち上げる。
 震えるその腕を、左腕で支えながら。

「マリー」

 彼女の腕を、優しくナトが掴む。
 そして、少しだけ強引に引っ張った。

「あっ……」
「マリー、逃げよう」

 オーハンスたちとは別の方向に逃げ出す二人。
 木々の枝や低木を掻き分けながら、無理やり進んでいく。

 不思議と、怪物は追ってこなかった。
 しかし、庭園の守り人たちの遠慮のない殺意の視線は、まだ外れない。
 少年少女は、森に導かれるまま、奥へ、奥へと進んでいく。





 そこは、何らかの遺跡の跡地だった。
 倒れた石の柱やレンガが積み重なり、大きな洞穴のようになっている。
 木々に囲まれたその中で、二人は身を縮こまらせてその隙間に潜り込んでいた。

 隣で膝を抱えるアメリオを盗み見る。
 低木を掻き分けて来たと言うのに、粘液を吐きかけられた服を脱ぎ捨てたとはいえ、そのナトですらいくらか肌を裂けさせているところ、彼女の柔肌には傷一つ付いていなかった。
 そう言えば、その宝石のような赤い髪が汚れているところも、見たことがない。

 何か対策があるのか。
 いや、それにしても。

 ふと湧いた疑問を口には出さず、

「また、霧が濃くなってきたね」
「そうね」

 その言葉に、彼女らしからぬ元気のない短い返事が返ってきた。

 白くぼやける視界。
 急に増した湿気が肌にさわる。

 怪物はの追跡はなかった。
 その気配が消えたとはいえ、どこに身を潜めているのかわからない以上、迂闊に動き回ることはできない。
 オーハンスたちとも合流しなければならない。
 すべき事の多さに頭を抱えていると、不意に掴まれた袖に気がついて頭を上げた。

「ナト」

 そう呼ぶ彼女の顔には、影が落ちていた。
 ナトは、黙ってその姿を見つめた。

「できなかった。魔法を、使えなかったわ……」

 喉の奥から絞り出されたような声だった。

「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないわ。あなた達に、迷惑が……」
「大丈夫なんだよ」

 少女の赤く輝く髪の上に、少年の掌が沈んだ。
 ひどい湿気だと言うのに、髪を梳く指は滑らかに流れていく。
 もう見慣れた色ではあるが、一体どの地域を探せばこのような髪の人間がいるのだろうと、ナトは心の中でつぶやいた。

「……こんな事されたの、私の執事以外初めてよ」
「俺みたいな第三身分じゃ、役不足かな?」

 そう言って手を離すと、少し上目遣いにアメリオが見上げてきた。
 彼の掌を追う視線が途切れると、彼女は軽く首を横に降った。
 それは、子供がお菓子を取り上げられたような雰囲気と似ていた。

「そんなことないわ。此処じゃ身分なんて関係ないじゃない。……それに、あなたがそう言ってくれるだけでも、とても嬉しいもの」

 アメリオはそう言うと、そっと目を閉じた。
 ナトは思う。
 彼女は、いつでも明るく振る舞ってきた。
 それは、彼女自身の弱いところを縛り付ける縄であり、彼女を「アメリオ・クレンツ」として成り立たせるための木組みでもあったのではないか。

 今の彼女は、彼女であって、そうじゃない。
 もしくは、これが本当の彼女なのかも知れないが、それはナトも、彼女自身も望む物ではないだろう。

 これは傲慢だろうか。
 ――いや、違う。

 ナトはもう一度、髪に掌を乗せた。
 すると、遠慮がちに、温かい小さな頭が寄りかかってきた。

 漂ってきた花のような香りに鼻孔をくすぐられながら、ナトは心の中の何かを固めた。
 ――俺は、彼女が自身を組み立てる手伝いをしなきゃならない。
 そうして、結果的に残った「アメリオ・クレンツ」が、本当の彼女だ。

「マリー、大丈夫なんだよ」
「……本当?」
「うん」

 少年は頷く。

「君に『魔法』は使わせない」

 その言葉に、瞑っていた瞳を見開いて、少女が目を丸くした。
 少年は、少女の小さな肩を抱きしめた。

「俺が、守る」
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