第24話 「木漏れ日 上」
文字数 4,782文字
周りが騒がしい。
わかっている。自分のせいだ。
暗い瞼の向こうに感じる、仲間の気配。
……もしかしたら、仲間と呼ぶのもおこがましいのかもしれない。
だって。私は。
落ち着いた潮騒の暗い海原に、父の顔が浮かんだ。
手を伸ばそうとして、引っ込めてしまった。
無意識に、なぜか後ろめたくなってしまって。
揺蕩う。
一人、星空のない暗闇の下で。
誰も居ない、海原の上で。
「ヨルカ!」
ベッドの上に横たわる少女が目を覚ます。
その瞬間、ナトが上げた声に、すっかり静かになった部屋で、机を囲んでいた三人が反応した。
「私……」
まだはっきりとしないようで、未だ焦点の定まらない瞳を揺らして、ナトを見る。
ナトはいつの間にか着替えていたが、袖口から汚れや細かい傷が見えた。きっと、自分のために無茶をしたのだ。
そして、視線を上げて――彼の安心したような表情を見た瞬間。
「あ、れ……?」
シーツに、小さなシミができていた。
それが、幾つも増えていく。
生暖かい何かが、その白い頬を伝う。
「お、おいどうしたんだよ」
「大丈夫ですか?」
席を立って寄ってきたオーハンスとグリーゼの問いに、ふるふると首を振って答える。
黙って頭を撫でて来るアメリオに、どう話したら良いのかわからないように、口を何度も開閉する。
そして、最後にナトを見上げ――心配したように覗き込む、その表情を見て。
胸が痛くなった。
なぜだろう。わからない。
何かがささくれに触れたように、ズキズキと痛む。
「ヨルカ……」
ナトの呟いた言葉が、耳を通って体を駆け抜けていく。
無性に、情けなくなって。
どうしようもなく、悲しくなって。
シーツを胸に掻き抱いて、顔をそこに埋めた。
声を押し殺した嗚咽が漏れる。
グリーゼとナトは困ったように顔を見合わせた。
すると、黙ってヨルカを撫でていたアメリオが、顔を上げて「そうだわ!」と、突然顔を上げた。
「ナト、私いい店を知ってるのよ!」
「え?」
「とっても美味しい料理を出してくれるのよ。ドタバタしててお腹が空いたでしょ? 一緒に行きましょ!」
「いつの間に……?」
「ついさっきよ!」
まさか、手持ち無沙汰でつい先程散歩してくると言った、あの短い時間の間にか。
すっくと立ち上がって、ナトの手を引くアメリオ。
困惑したように彼女を見るナト。
そして、次に何かを察したように、「うん、そうだね」と言って、引かれるがままに家を出ていく。
「……グリーゼ、頼んだぞ」
「ええ」
快くうなずいた彼女を見て、「待てよ!」とオーハンスもそれに付いていく。
残った家には、彼女のか細い嗚咽だけが残っていた。
それは、徐々に大きくなり、
「ぐすっ、う、うぁ」
ボロボロと、大粒の涙が溢れる。
金髪の少女が、黒い鎧に縋り付く。
「うあ、うあぁぁぁぁぁっ!」
何かが解けたように。
とめどなく流れ出した涙はシーツを濡らした。
「あれでよかったのかよ」
「わからないけど……多分、今はそっとしておいたほうが良いかな、って思ったんだ」
開放的な店の中、席の一つに三人は座っていた。
机を囲んで顔を合わせている。
「それにしても、これ、おいしいね」
「ほんと、とんでもないわね!」
「ああ……お前らの味覚がとんでもねぇよ」
二人が美味しいと主張する石炭のようなそれを、三又の道具で器用に口に運ぶのを見て、
オーハンスは皿に乗る蒸かし芋を前に、食欲を無くしていた。
コップに入った何らかの液体についても同様である。白く濁ったこれはなんだろう。
「あら、あなた方も来ていたのですね」
突然、声をかけられる三人。
「うげっ」
オーハンスが苦々しい顔をする。
そこには、微笑む黒髪の女性――チェットと、そっぽを向く橙色の青年――ハルトマンがいた。
彼が着ていた白いローブは、血やヘドロで汚れていたはずだが、今は着替えたのか真新しい物となっている。
「お隣、失礼してもいいかしら」
「大丈夫よ」
「お、おいマリー……」
オーハンスが止めに入ろうとするも、「では、お言葉に甘えて」と、チェットがすかさず三人の隣の席に着く。
それにならい、ハルトマンがその向かいに座ると、オーハンスは嫌悪を含んだ視線をチェットに送った。
対して、チェットは含み笑いをオーハンスに返す。
「えっと、ナトさん、でしたか」
「あ、はい」
チェットがナトに視線を向ける。
それに対して彼は、キョトンと返事を返す。
オーハンスは、その光景をヒヤヒヤしながら見ていた。
「ハルトから聞き及んでいます。どうも、私の幼馴染がお世話になったようで」
「幼馴染……?」
「お、おいチェット!」
慌ててハルトマンが彼女の肩を掴んで揺する。
「ということは、あなたがハルトマン? 聞いてるわ! ナトを助けてくれた人ね!」
「い、いや……」
アメリオの問いに、視線を逸らして口籠るハルトマン。
ナトたちと合流した時の光景を思い出して、納得した様子のオーハンス。
「悪いな。その節は助かったよ。こいつ、一人で突っ走りすぎるところがあるから」
「……僕は、何もしていない」
オーハンスにそう言われ、少しだけ顔を赤らめて再びそっぽを向く。
そんな彼に、「どうしたの、ハルト」とニヤニヤしながらその顔を覗き込むチェット。
「でも、本当に助かったよ。ハルトマンが居なかったら、戻ってこれなかった」
ナトが彼を見つめてそう言った。
「……やめてくれ。助けてもらったのはこっちだ。
元々、貴様の目的とは違うんだろう――ナト、と言ったか。余計に世話をかけてしまったのはこちらだ」
「じゃあ、これでチャラだね」
満足げなナト。
ハルトマンは不満げに顔を逸らした。
「それより、チェット。夕食を食べに来たんだろう。何か頼まないのか」
「あら、そうだったわ。何を食べようかしら」
彼女が木の板に描かれたメニューのようなものに目を通そうとすると、
「なあ、おすすめの料理があるんだけど」
オーハンスが席を立ってチェットの隣に寄った。
「……君は」
「ああ、俺はオーハンス。ナトの仲間だ。
それで、チェット。これなんか美味しいぞ」
赤髪の少女の目の前にある皿を取り上げ、「あっ、ちょっと」という声を無視して、その上に鎮座した物体をチェットに見せる。
「……あの、焦げた石ころみたいなこれは?」
「この村で大人気の料理さ。ほら、ナトも頼んでるだろ?
ここに来たなら食べないなんてありえないって! なあお前ら!」
「ええ!」
「うん、間違いないね」
じっと皿に乗る黒い物体を覗く。
そして、ナトとアメリオを見て、「そ、そうなんでしょうか」と呟く。
裏の顔があれど、幼馴染が世話になった人に勧められては断れまい。
ざまあみろ、せいぜい困ることだ。
「なら、僕も……」
「あー、ハルトマン、だっけ? ちょっと話したいことがあるんだ。来てくれないか」
「僕に、か?」
注文を入れようとしたところを突然呼び止められ、キョトンとした顔でハルトマンがその少女のような顔を見る。
「お前らはその石た……料理の美味しい食べ方でも紹介しててくれ。
じゃあ、ちょっと向こうで話そう」
「ああ」
そう言って、二人は席を立った。
店を出てすぐ、自分のうなじが疼くのを感じた。
同時に、チェットの鋭いあの視線も。
命の手綱は、きちんと握られているらしい。
「そういや」
木々に取り付けられた足場を渡りながら、オーハンスが話す。
「チェットって、お前とどういう関係なんだ」
探るように目を向ける彼の言葉に、訝しげに眉をひそめるハルトマン。
「似たような家系で育ってきた、ただの幼馴染だ。
それがどうかしたのか」
いや、という風に首を振る童顔の少年。
それにしたって、彼女が自分に向けてきたあの振る舞いを知らないように思える。
アメリオに関しても、この青年は特別な反応は見受けられなかった。
チェットは彼に隠し事をしているという事に間違いはないらしい。
「いいや、特に他意があった訳でもないんだ。ただ気になっただけで」
「そうか。……しかし実際、疑う気持ちも、わからないわけではない。
所詮他人同士だ。このような異国の地であれば、探る行為はいたって正当――僕だってそうだ」
まあ、確かに。
政府の手が絶対に届かないこんな異世界で、他人を信じろという方がむしろおかしいのかも知れない。
逆にどちらも素性が知れない分、ある意味安心できる部分がはっきりしているかも知れないけど。
しばらく歩いて、この辺りでいいか、とオーハンスは振り返る。
店から出て、木々に支えられた足場を降りた場所。
聳え立つ巨木の一本、その根元にいた。
足場の影に入るように佇むオーハンスに、「それで」とハルトマンは口を開く。
「何の話だ」
「ナトについて。聞きたいことがあってな」
「……遺跡の中でのことか?」
「と言っても、あいつがどんな様子だったか、とか、そんな話なんだが」
「……てっきり、あの青い光についての事かと思っていたが」
「知っているなら教えて欲しい所だけど」
「知らないんだろ?」というオーハンスの言葉に、軽く顎を引いて肯定の意を示す。
まあ、当然か、と気を落とすような素振りを見せず、少年は頷いた。
「どうだったか、か……」
ハルトマンは顎に手を当て、口を結ぶ。
どうだっただろうか。
やたらお節介で、あとは、善意……だろうか、そのような物を人並みより強く感じたような気がする。
それをオーハンスに伝えると、ああ、まあ、といった反応をした。求めている回答は違うのだろうか。後は……。
「そういえば」
思い出す。
あの男は、ナトは、
「まるで何かが抜け落ちたみたいに、恐れなかった」
トカゲの怪物が眠る部屋に足を踏み入れた時。
爛れた黒い怪物を目の前にした時。
そこに、怯えの表情はなかった。
柄を握る掌は固まり、地面を噛む両足は大木が根を張るようにしっかりとしていた。
なにより、その瞳は、真っ直ぐ目の前の異形を受け止めていた。
真っ向から、遮るものもないあの状況で。
修行を積んだ自分ですら、どうしようもなく恐怖が湧き上がったというのに。
それをオーハンスに伝えた。
黙ってそれを聞いていた彼は、その後に、「……やっぱり」と少しだけ顔を伏せた。
「『やっぱり』?」
それに対して、ハルトマンが聞き返す。
「どういう意味だ」
「……いや」
頭 を振る。
「なんでもない」
「……そうか」
それ以上、ハルトマンは詮索をしてこなかった。
いかに異国の地といえど、人に踏み込むことの良し悪しの無い領域なんてない。
「ただ」とオーハンスはその後に続ける。
「あいつは、一人で突っ走りすぎるところが、あるんだよ」
顔を伏せながら、オーハンスはそう言った。
やはり、ハルトマンは何も言わなかった。
良し悪しではない。
少しだけ心当たりがあった。共感の余地があった。
その後、店に戻るとチェットは居なくなっていた。
どうしたのか聞くと、どうやらお手洗いに行ったきり戻ってこないらしい。
勝ち誇ったようなオーハンスの顔を見て、アメリオは不思議そうに首を傾げた。
わかっている。自分のせいだ。
暗い瞼の向こうに感じる、仲間の気配。
……もしかしたら、仲間と呼ぶのもおこがましいのかもしれない。
だって。私は。
落ち着いた潮騒の暗い海原に、父の顔が浮かんだ。
手を伸ばそうとして、引っ込めてしまった。
無意識に、なぜか後ろめたくなってしまって。
揺蕩う。
一人、星空のない暗闇の下で。
誰も居ない、海原の上で。
「ヨルカ!」
ベッドの上に横たわる少女が目を覚ます。
その瞬間、ナトが上げた声に、すっかり静かになった部屋で、机を囲んでいた三人が反応した。
「私……」
まだはっきりとしないようで、未だ焦点の定まらない瞳を揺らして、ナトを見る。
ナトはいつの間にか着替えていたが、袖口から汚れや細かい傷が見えた。きっと、自分のために無茶をしたのだ。
そして、視線を上げて――彼の安心したような表情を見た瞬間。
「あ、れ……?」
シーツに、小さなシミができていた。
それが、幾つも増えていく。
生暖かい何かが、その白い頬を伝う。
「お、おいどうしたんだよ」
「大丈夫ですか?」
席を立って寄ってきたオーハンスとグリーゼの問いに、ふるふると首を振って答える。
黙って頭を撫でて来るアメリオに、どう話したら良いのかわからないように、口を何度も開閉する。
そして、最後にナトを見上げ――心配したように覗き込む、その表情を見て。
胸が痛くなった。
なぜだろう。わからない。
何かがささくれに触れたように、ズキズキと痛む。
「ヨルカ……」
ナトの呟いた言葉が、耳を通って体を駆け抜けていく。
無性に、情けなくなって。
どうしようもなく、悲しくなって。
シーツを胸に掻き抱いて、顔をそこに埋めた。
声を押し殺した嗚咽が漏れる。
グリーゼとナトは困ったように顔を見合わせた。
すると、黙ってヨルカを撫でていたアメリオが、顔を上げて「そうだわ!」と、突然顔を上げた。
「ナト、私いい店を知ってるのよ!」
「え?」
「とっても美味しい料理を出してくれるのよ。ドタバタしててお腹が空いたでしょ? 一緒に行きましょ!」
「いつの間に……?」
「ついさっきよ!」
まさか、手持ち無沙汰でつい先程散歩してくると言った、あの短い時間の間にか。
すっくと立ち上がって、ナトの手を引くアメリオ。
困惑したように彼女を見るナト。
そして、次に何かを察したように、「うん、そうだね」と言って、引かれるがままに家を出ていく。
「……グリーゼ、頼んだぞ」
「ええ」
快くうなずいた彼女を見て、「待てよ!」とオーハンスもそれに付いていく。
残った家には、彼女のか細い嗚咽だけが残っていた。
それは、徐々に大きくなり、
「ぐすっ、う、うぁ」
ボロボロと、大粒の涙が溢れる。
金髪の少女が、黒い鎧に縋り付く。
「うあ、うあぁぁぁぁぁっ!」
何かが解けたように。
とめどなく流れ出した涙はシーツを濡らした。
「あれでよかったのかよ」
「わからないけど……多分、今はそっとしておいたほうが良いかな、って思ったんだ」
開放的な店の中、席の一つに三人は座っていた。
机を囲んで顔を合わせている。
「それにしても、これ、おいしいね」
「ほんと、とんでもないわね!」
「ああ……お前らの味覚がとんでもねぇよ」
二人が美味しいと主張する石炭のようなそれを、三又の道具で器用に口に運ぶのを見て、
オーハンスは皿に乗る蒸かし芋を前に、食欲を無くしていた。
コップに入った何らかの液体についても同様である。白く濁ったこれはなんだろう。
「あら、あなた方も来ていたのですね」
突然、声をかけられる三人。
「うげっ」
オーハンスが苦々しい顔をする。
そこには、微笑む黒髪の女性――チェットと、そっぽを向く橙色の青年――ハルトマンがいた。
彼が着ていた白いローブは、血やヘドロで汚れていたはずだが、今は着替えたのか真新しい物となっている。
「お隣、失礼してもいいかしら」
「大丈夫よ」
「お、おいマリー……」
オーハンスが止めに入ろうとするも、「では、お言葉に甘えて」と、チェットがすかさず三人の隣の席に着く。
それにならい、ハルトマンがその向かいに座ると、オーハンスは嫌悪を含んだ視線をチェットに送った。
対して、チェットは含み笑いをオーハンスに返す。
「えっと、ナトさん、でしたか」
「あ、はい」
チェットがナトに視線を向ける。
それに対して彼は、キョトンと返事を返す。
オーハンスは、その光景をヒヤヒヤしながら見ていた。
「ハルトから聞き及んでいます。どうも、私の幼馴染がお世話になったようで」
「幼馴染……?」
「お、おいチェット!」
慌ててハルトマンが彼女の肩を掴んで揺する。
「ということは、あなたがハルトマン? 聞いてるわ! ナトを助けてくれた人ね!」
「い、いや……」
アメリオの問いに、視線を逸らして口籠るハルトマン。
ナトたちと合流した時の光景を思い出して、納得した様子のオーハンス。
「悪いな。その節は助かったよ。こいつ、一人で突っ走りすぎるところがあるから」
「……僕は、何もしていない」
オーハンスにそう言われ、少しだけ顔を赤らめて再びそっぽを向く。
そんな彼に、「どうしたの、ハルト」とニヤニヤしながらその顔を覗き込むチェット。
「でも、本当に助かったよ。ハルトマンが居なかったら、戻ってこれなかった」
ナトが彼を見つめてそう言った。
「……やめてくれ。助けてもらったのはこっちだ。
元々、貴様の目的とは違うんだろう――ナト、と言ったか。余計に世話をかけてしまったのはこちらだ」
「じゃあ、これでチャラだね」
満足げなナト。
ハルトマンは不満げに顔を逸らした。
「それより、チェット。夕食を食べに来たんだろう。何か頼まないのか」
「あら、そうだったわ。何を食べようかしら」
彼女が木の板に描かれたメニューのようなものに目を通そうとすると、
「なあ、おすすめの料理があるんだけど」
オーハンスが席を立ってチェットの隣に寄った。
「……君は」
「ああ、俺はオーハンス。ナトの仲間だ。
それで、チェット。これなんか美味しいぞ」
赤髪の少女の目の前にある皿を取り上げ、「あっ、ちょっと」という声を無視して、その上に鎮座した物体をチェットに見せる。
「……あの、焦げた石ころみたいなこれは?」
「この村で大人気の料理さ。ほら、ナトも頼んでるだろ?
ここに来たなら食べないなんてありえないって! なあお前ら!」
「ええ!」
「うん、間違いないね」
じっと皿に乗る黒い物体を覗く。
そして、ナトとアメリオを見て、「そ、そうなんでしょうか」と呟く。
裏の顔があれど、幼馴染が世話になった人に勧められては断れまい。
ざまあみろ、せいぜい困ることだ。
「なら、僕も……」
「あー、ハルトマン、だっけ? ちょっと話したいことがあるんだ。来てくれないか」
「僕に、か?」
注文を入れようとしたところを突然呼び止められ、キョトンとした顔でハルトマンがその少女のような顔を見る。
「お前らはその石た……料理の美味しい食べ方でも紹介しててくれ。
じゃあ、ちょっと向こうで話そう」
「ああ」
そう言って、二人は席を立った。
店を出てすぐ、自分のうなじが疼くのを感じた。
同時に、チェットの鋭いあの視線も。
命の手綱は、きちんと握られているらしい。
「そういや」
木々に取り付けられた足場を渡りながら、オーハンスが話す。
「チェットって、お前とどういう関係なんだ」
探るように目を向ける彼の言葉に、訝しげに眉をひそめるハルトマン。
「似たような家系で育ってきた、ただの幼馴染だ。
それがどうかしたのか」
いや、という風に首を振る童顔の少年。
それにしたって、彼女が自分に向けてきたあの振る舞いを知らないように思える。
アメリオに関しても、この青年は特別な反応は見受けられなかった。
チェットは彼に隠し事をしているという事に間違いはないらしい。
「いいや、特に他意があった訳でもないんだ。ただ気になっただけで」
「そうか。……しかし実際、疑う気持ちも、わからないわけではない。
所詮他人同士だ。このような異国の地であれば、探る行為はいたって正当――僕だってそうだ」
まあ、確かに。
政府の手が絶対に届かないこんな異世界で、他人を信じろという方がむしろおかしいのかも知れない。
逆にどちらも素性が知れない分、ある意味安心できる部分がはっきりしているかも知れないけど。
しばらく歩いて、この辺りでいいか、とオーハンスは振り返る。
店から出て、木々に支えられた足場を降りた場所。
聳え立つ巨木の一本、その根元にいた。
足場の影に入るように佇むオーハンスに、「それで」とハルトマンは口を開く。
「何の話だ」
「ナトについて。聞きたいことがあってな」
「……遺跡の中でのことか?」
「と言っても、あいつがどんな様子だったか、とか、そんな話なんだが」
「……てっきり、あの青い光についての事かと思っていたが」
「知っているなら教えて欲しい所だけど」
「知らないんだろ?」というオーハンスの言葉に、軽く顎を引いて肯定の意を示す。
まあ、当然か、と気を落とすような素振りを見せず、少年は頷いた。
「どうだったか、か……」
ハルトマンは顎に手を当て、口を結ぶ。
どうだっただろうか。
やたらお節介で、あとは、善意……だろうか、そのような物を人並みより強く感じたような気がする。
それをオーハンスに伝えると、ああ、まあ、といった反応をした。求めている回答は違うのだろうか。後は……。
「そういえば」
思い出す。
あの男は、ナトは、
「まるで何かが抜け落ちたみたいに、恐れなかった」
トカゲの怪物が眠る部屋に足を踏み入れた時。
爛れた黒い怪物を目の前にした時。
そこに、怯えの表情はなかった。
柄を握る掌は固まり、地面を噛む両足は大木が根を張るようにしっかりとしていた。
なにより、その瞳は、真っ直ぐ目の前の異形を受け止めていた。
真っ向から、遮るものもないあの状況で。
修行を積んだ自分ですら、どうしようもなく恐怖が湧き上がったというのに。
それをオーハンスに伝えた。
黙ってそれを聞いていた彼は、その後に、「……やっぱり」と少しだけ顔を伏せた。
「『やっぱり』?」
それに対して、ハルトマンが聞き返す。
「どういう意味だ」
「……いや」
「なんでもない」
「……そうか」
それ以上、ハルトマンは詮索をしてこなかった。
いかに異国の地といえど、人に踏み込むことの良し悪しの無い領域なんてない。
「ただ」とオーハンスはその後に続ける。
「あいつは、一人で突っ走りすぎるところが、あるんだよ」
顔を伏せながら、オーハンスはそう言った。
やはり、ハルトマンは何も言わなかった。
良し悪しではない。
少しだけ心当たりがあった。共感の余地があった。
その後、店に戻るとチェットは居なくなっていた。
どうしたのか聞くと、どうやらお手洗いに行ったきり戻ってこないらしい。
勝ち誇ったようなオーハンスの顔を見て、アメリオは不思議そうに首を傾げた。