第5話 「遠吠えの沼」

文字数 6,661文字

 四人が暗闇の中から足を揃えて飛び出した。
 そして、同時に歩みを止めた。

 ――視界が広がる。

 薄く靄がかかっている。
 温度の高さは森を越え、その湿気が頬を撫でれば、ベタついた汗が肌を濡らした。

 空は夕暮れのように暗く、暗い青に照らされた大地は、ぬらりとした泥で覆われており、
 ところどころにできた湖のように大きな水溜りには、
 浮いた根っこを支えに聳(そび)える樹木や、多くの大小様々な水生植物が生態系を形作っている。

「『遠吠えの沼』……」

 ナトが、ポツンとそう呟いた。
 オーハンスが反応し、聞き返そうと顔を上げた、その時。

 沼中に響くような重低音が、水面や四人を震わせた。
 それは、庭園に鳴る鐘の音とは異なる、亡者の叫びのような音。
 街の中の、開発途上の地下水路から上がる、萎びた人々うめき声のようなそれは、静かで、とても重い。

「い、今の……なな、なんでしょうか……」
「さあ……それより」

 ナトは空を見上げた。

「こんな時間になるまで歩いたっけ?」
「そんなにかかってないと思うわ。朝食べて、少しお腹が空いたくらいだもの」

 確かに、とナトも胃の辺りを摩り、うなずく。
 ヨルカが同じように仕草を真似て、不思議そうに首を捻る。

「もしかしたら、日時すらも捻じ曲がるのかもしれない。この庭園の中では」
「魔法ですらあるような場所だもんな」
「私はれっきとした国出身よ」

 さて、とナトは歩みを進める。
 アメリオがそれに続くが、「お、おいっ」と言って、オーハンスが引き止める。

「ここを進むのかよ、明らかに危なさそうじゃないか?」
「わ、私もそう思います!」

 その抗議の声に、ヨルカも首を振って同意する。

「確かにそうだけど……進まなきゃ何もわからないと思うんだ。それに、危なさそうな場所は避けるさ」

 ナトの主張に、オーハンスは細い眉をひそめ、じっと何かを観察するように、彼の瞳を見つめた。
 「オルフ?」と、首をかしげて友人の様子を伺う。

「……私は良いと思うわ」

 そんな中、アメリオが声を上げる。

「ここで迂回したとしても、そこに安全があるって保証されてるわけじゃないわ。
 だったら、見えてる範囲で安全に動いた方が、効率的じゃない?」
「た、確かに……そう、ですね」

 ヨルカが恐る恐る了承すると、童顔の少年は「……そうだな」とポツリと呟き、ナトの後に続いた。
 二人の様子を身を縮こませながら伺っていた少女も、その金髪を振って後に続いた。

 湿った土を踏む度に、滑らないように慎重に足を運ぶ。
 足の裏に、森の中とはまた異質な柔らかい土の感触が伝わる。

 しかし、陸地ばかりの移動にも限界が来る。
 しばらく進み、四人は大きな泥沼に直面した。
 対岸につながる陸地は、無い。ここを渡り切る他、進む道は無かった。

 ナトが一歩踏み出す。
 柔らかく、それでいて滑るほどの水分を含んだ泥が、彼の靴を迎え入れる。
 一瞬眉を寄せるが、すぐ何事もないように慎重に歩きだすナト。
 アメリオは興味深そうに辺りを見渡しながらそれに追随するも、後の二人は表情に疲労の色を見せていた。

「大丈夫?」

 皮袋の中の水で喉を潤しながらナトがそう問いかけると、コクコクと、二人分の小さな頷きだけ返ってきた。
 これはどこかで休んだほうが良さそうだと、ナトは内心で思った。





 緑色の壁は、泥の色と、光を吸う濃い色の葉ばかりを見てきた彼らにとって、心が洗われるような気分をもたらした。
 もっとも、安心して心身を休ませられるかどうかというのは、別の問題だが。

「……な、なあ、本当に大丈夫なのかよ」

 心配そうに辺りを見渡すオーハンス。
 そこは、壺状となった植物の内部だった。
 大きさは家二軒は入りそうなほど巨大で、
 内側の底部に多少水が溜まっていて、いくらかの沈殿物と小さな魚が生息している。

蛙筒腹(スイトウハラミ)。泥に浮かぶ捕食習性を持つ植物。……底に溜まってるのは消化液らしい」
「駄目じゃんか!」
「この大きさだと雨水で薄まってることが多くて、大抵触れても消化されることは無いらしいよ。その場合、水の中に住んでる小さな生き物が分解した物や、その死骸を吸収して栄養源にするんだとか」

 「飲んでも平気みたい」と言って、その溜まった水を手で掬って飲み始めるナト。それとアメリオ。
 残りの二人はそれを見て顔を青くしていた。

 それぞれ、泥を洗い流したり、恐る恐る水面を覗いては、小魚が跳ね飛ばす水に驚いたり。
 四人は休憩と称して、思い思いの時間を過ごしていた。
 その時、沼に響く重低音を打ち消すように、荘厳な鐘の音が鳴り響く。
 どうやら、不思議な大地の力で固定された時間の中での「昼」が訪れたようだった。

「……ところでさ、ナト」
「ん?」
「今のそれも――さっきの『遠吠えの沼』、だっけか。前の森でもそうだ。そんなに詳しく知っているのは、一体何なんだよ」

 指摘され、一瞬水を飲む手が止まるナト。
 口元を拭い、一言「わからない」と答える。

「……前の光る蜂も、この変な巨大植物も、そんなに詳しいことまでわかるのか?」
「うん、わからない時もあるけど。
 でも、輝蜂(ヒカリコバチ)蛙筒腹(スイトウハラミ)は、頭の中にそう言うのが浮かんできたんだ。今まで見たこともないのに」
「お前の頭に浮かんできたそれって、本当に正しい情報なのか?」

 靴に付いた泥を洗い流しながら、オーハンスはそう聞いた。

「……妙な自信があるんだ。それが真実だって、それ以外考えられない程には。
 だけど、さっきも言ったけど、わからないこともある。
 洞窟で襲われた栓穴紐(フクロナガラ)は、名前以外何もわからなかった。
 どこまでわかるのか、何がその条件なのかも、全くわからない」

 突然、水の跳ねる音がした。
 その方向へナトが顔を向けると、顔から勢いよく水をかぶった。
 目を丸くして驚いているヨルカの横で、アメリオが魚を素手で掴んでいた。

「やったわ! 昼食は魚ね!」
「ひゃっ、み、水がかかってますっ!」

 元気の良い魚を両手で掴んで高く持ち上げる。
 跳ねる尾ひれが、辺りを水浸しにする。

「折角のところ悪いけど、この湿気じゃ火は起こすのは難しいよ。燃料も無いし、保存しておく場所もない」
「あっ。……それも、そうね」

 悲しそうに魚を水の中に離すアメリオ。
 尾びれをバタつかせて急いで逃げ出す様を、名残惜しそうにいつまでも見つめている。
 ナトが荷物から携帯食料を放り投げると、たちまちその表情に花が咲く。

「残りの食料、どれくらいあるんだ?」
「実は、そこまで多くない。だから本当は、何もないこの場所を抜けるのが一番良いんだけどね」

 無邪気に『ヒトクチ』を貪るアメリオを見ながら、ナトはそう言った。





 泥の中にぽっかりと口を開けたその植物の中から、四人の少年少女が這い登ってきた。
 そして、再び泥の中に足を着け、進む。
 それぞれ、楽しげだったり、疲労を見せていたりと、様々な表情を見せながら。

 時々足を止めながらも、順調に進んでいた、そんな時。

「ねえ……あそこ、何か見えない?」

 それが現れたのは、突然だった。
 靄の中、うっすらと現れる巨大な影。
 その姿は生物と言われる方が不自然なほどで、神の建造物と言われた方がよっぽど信憑性があるほど、巨大だ。

 雲まで届きそうな程の長さに対して、少し細めの四本脚が、円形で巨大な胴体を支えている。
 それが、ゆっくりと、ゆっくりと動いていた。

「な、なんだよ、あれ……っ!?」

 驚いたように前を見つめるアメリオの横で、オーハンスがそう叫んだ瞬間、その怪物は行動を止めた。
 そして、ゆっくりと胴体を下に下げた。

「――みんな、静かに、ゆっくりとしゃがむんだ」

 緊張した面持ちで、あるいは震えながら、泥の中しゃがみ込む四人。
 じっとしていると、どうやら怪物は少年少女たちに気を取られたのではないことが判明する。

 足の長い巨大な怪物は、地面から不自然に伸びる角のような泥の突起物に狙いを定め、その円形の身体を下ろした。
 ゴリゴリと削るような音が響く。
 しばらくその音が続き、やがて身体を持ち上げて移動を再開した。
 そこにあった突起物は、どこへ行ったのか姿を消していた。

 四本の足が、沼の中を進む。
 やがてその影は、霧の中に溶けて消えていくと、誰ともなくため息が漏れる。

「な、なんだったんだ……」
「わからない。距離のせいもあるかも知れないけど、名前や詳細は、浮かんで来なかった。でも、明らかに危なさそうだ」
「ふ、ふぇ……」

 腰が抜けたようにその場にへたり込むヨルカの背中を、アメリオが擦る。
 相も変わらず沼中に響く重低音。
 見渡す限りの殺風景な景色。
 そして――『ベルガーデン』に潜む、未知数の危険。
 様々な要素が相まって、確実に恐怖が堆積されていく。

「……音が聞こえる」

 ナトがそう呟く。
 一泊おいて、泥の沼に異常が起こる。
 地底から低い、泡が上がるような音が響いてくる。

「おい、近くないか、結構――」

 言葉の途中、オーハンスの顔が驚愕と畏怖に染まる。
 盛り上がる泥沼。
 それは一本の角のようになり、高くまで伸びた。
 そして、その先端からは白い、半液状の生物が顔を出して、蠢いていた。

白濁菌(カガミナギダラ)……!」

 その一本を口切に、後から十本近く、彼らの近くに姿を現す。
 そしてそれらも同様に、先端から半液状の生物が産声を上げるように身を(よじ)っている。

「とんでもないわね……!」
「さっきの怪物に怯えて身を隠していたんだ! 早く、ここから逃げ――」

 その時、ナトの隣を、何かがうなりながら通り過ぎていった。
 恐る恐る隣を振り向く。
 そこには、見知った友人の姿は、無かった。

「くそっ! 離せ、離せ!!」

 見上げると、そこには長く伸びた白濁色の生物が、オーハンスに巻き付いて高く持ち上げていた。
 その瞬間、ナトの足が動いた。
 腰に右手を回し、短い柄を掴み、引き抜く。
 携帯していたナイフの刃が、鈍い光を反射する。

 オーハンスを持ち上げる個体の、その根本へと入り込もうと体位を低くする。
 その時、数匹の別個体がナトを目掛けて鞭のようにしなり襲いかかる。
 その動きは――以前の彼の動きとは一線を画していた。

 ナトは手に握るナイフで一番目の個体を斬りつける。
 半液状のその身体はやはり柔らかく、刃は深く食い込み、そしてその身体を引き裂いた。
 すると、その怪物はブクブクと傷口から泡を吹いて縮こまり、根本の泥の角のようなそれに引っ込んでいった。

「ナトさん!」
「ヨルカとマリーは逃げてっ! ここは俺がどうにか……っ!」

 続いて襲いかかる、二本目の触手。
 先程のように切り落とそうとするも、手応えはなく、刃は空を切る。
 変則的な動きで、ナイフを握る逆側の手首に絡みつかれる。

「っ!?」

 意外な程強い怪力で引っ張られ、どうにか泥の中で踏ん張る。
 左手首の軋むような痛みを無視して、張った半液状の身体を、ナイフの尖った先端で突き刺す。

 一度、更に、もう一度。
 腕に絡みついた個体は損傷した部分から切り捨て、
 一体目と同様に、泡を吹きながら泥の角の中へと負傷した身体を引っ込めた。
 ナトの腕に絡みついた残骸はしばらく強く締め付けていたが、次第に(しな)びて、ポトリと泥の中に落ちた。

 そうして、顔を上げれば、今にも襲いかからんと、未だいくつもの怪物が身体を(よじ)らせている
 それらの中を、ナトは駆け抜けていく。

 迫る触手を潜り抜け、遂にオーハンスを捕食しようとしている個体の元へと辿り着く。
 ナイフを捨てて、錆びた鉄剣を抜くと、

「はああああっ!!」

 その泥の塔へと突き立てる。
 剣先を跳ね返す、硬い感触。
 何度も繰り返し突き刺す。崩れていくような感触が、錆びついた柄から伝わる。

 何度めか。
 落とし穴を踏み抜いたように、突然、奥深くまで突き刺さった。
 柔らかい感触が伝わる、確かな手応え。
 その個体は何度か身体を痙攣させると、締め上げていたオーハンスを放して、萎びたように泥沼の中に倒れ伏した。
 同時に落下してくるオーハンスの華奢な身体を抱きとめるナト。
 彼に抱きとめられると、苦痛に歪んでいた小さな口から、何度か咳が溢れる。

「はぁっ、はぁっ」

 荒い息のまま、急いで持っていた荷物を捨てると、小さな身体を抱えてナトは走り出す。
 迫りくる触手を背に、前を走る少女二人を追うように駆け出した。

「こ、ここまでくれば――」

 額についた汗を無造作に拭うアメリオに対し、ヨルカは呼吸を荒くしていた。
 一拍おいて、後ろから聞こえてきた足音に、安心したように二人は振り向いた――その時。
 どしゃりと、ナトがオーハンスを投げ出して泥の中に倒れた。

「ご、ごめん、ちょっと休憩……」

 そう言って、泥だらけになりながら、沼の中に寝そべる。
 対してオーハンスはよろよろと立ち上がり、身体を抱えて座り込む。
 アメリオとヨルカも、それにならって泥の中に座って休憩を取る。

「げほっ……悪い、ナト」
「ふぅ……いや、仕方がないさ。それより……身体は、大丈夫?」

 「ああ」と首を縦に振り、改めてオーハンスは後ろを振り返った。
 靄の中に、高く伸びるいくつもの触手のような影。
 ――何が起こるか、わからない。
 そんな『庭園の常識』を、改めて実感していた。

 汚れることも(いと)わず沼に座り込むヨルカ。

「もう、クタクタです……」

 彼女の覇気のない言葉に返す気力が残っている者はいなかった。

「見事に危ない方を引いたな……」
「返す言葉もないよ……」

 オーハンスの冗談も、あまり気迫がない。
 そんな彼らの鼓膜が、突然微かに揺れた。

「お、おいまた何か……」

 それぞれ立ち上がり、辺りを見回す四人。
 その異音は、地下からせり上がってくるように――。

 爆発音。
 四人の背後に、高く水柱が上がる。
 ナトの顔に飛沫がかかる。
 僅かな熱を残して、すぐに冷める水滴。

「間欠泉……?」

 それは、一つで留まることはなかった。
 次々と沼の底から噴き出す、大量の熱湯と湯気。
 四人の周りを、白いカーテンで包んでいく。

「おい、これやばくないか……?」

 次々とその数を増やしていくその現象は、四人を中心とした広範囲に渡って起こっていた。
 恐怖に背中を突き飛ばされ、一目散に走り出す。
 その彼らの背を、沼が吐き出した熱湯が追いかける。

「駄目……ですっ……」

 覇気のない様子で足を遅くするヨルカ。
 ナトが尻目にそれに気がつくと、彼女の脇に手を回し、一息に担ぎ上げる。

「あっ……」
「がんばるんだ、もうすぐだから!」

 そうしてそのまま走り出す。
 一秒後に、その場所から熱湯が吹き出した。

 グッタリとしながら、ちらりとナトの横顔を見やる。
 緊張した顔からは、大量の汗が流れ落ちていた。
 肌に触れている、大人のように筋肉質な身体も熱い。

 そこで、ヨルカは先程もオーハンスを運んできたばかりだということに気がつく。
 ――きっと、相当無理をしている。

「な、ナトさん、大丈夫です、ここからは走れます!」
「……わかった」

 よほど余裕が無いのか、彼女を半ば落とすように沼へと降ろしたナト。
 多少よろけながらも着地して、再び走り出す。
 しかし、すぐに息は上がってくる。

 駄目だ。
 それが許される場所じゃないんだ。
 走れ、食いつけ!

 溜まる疲れを必死で無視して、ヨルカは三人の後を追う。
 少し前まで貴族家のお嬢様だったとは思えない成長ぶりだった。
 それを見て少し目を見開いたナトは、すぐに前を向いて、進む先で一時の安らぎが得られる事を願った。
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