第13話 「荒れた草陰」
文字数 11,279文字
「なんだか、薄気味悪くなってきたな」
「は、肌寒くありませんか?」
荷物を載せた馬のような生物を引いて、風化した石畳を歩く小柄な少年、オーハンスがそう呟いた。
フードに隠れたその少女のような風貌から、僅かに怯えが見える。
その後ろに、若干震えながら辺りを見回す、金髪の少女、ヨルカが続く。
「進まないことには抜けられないわ。今はとにかく進みましょ」
その前を、二人の人物が歩く。
その少女は、赤い髪を靡 かせて後ろを歩く二人にそう言った。
「……そろそろ、休憩する場所があるといいんだけど」
先頭を歩く、一人剣や軽装を纏った長身の少年、ナトはそう呟いた。
あたりは薄暗く、時折冷たい風が吹いては、四人を焦らせるように吹き抜けていく。
空は暗く、ナトたちがこの地域に入ってから、一度もその色を変えることは無かった。
あたりは元は舗装されていたであろう、蜘蛛の巣のように広がる幅が広いボロボロの石畳が、
雑草による濃い緑色の絨毯の上を、点在する木々や、光の灯らない照明の間を縫って、暗いカーテンの向こうのどこかへと続いている。
その道の内の一つを、四人は進んでいた。
「『荒れた草陰』、か」
頭の中に浮かんだ単語を、ナトは口に出した。
明かりは空に浮かぶ月の青白い光だけ。
崩れた足場に躓くことも多く、移動は思っている以上に難航していた。
星の数より多くの危険を孕む世界『ベルガーデン』。
そんな魔王の箱庭を歩いている限り、いつ災難に襲われてもおかしくはないため、
結果的に、安易に立ち止まるわけにはいかない状況を強いられる。
「……ん?」
突然、先頭を歩くナトが足を止める。
「おい、ナト。なんかあったか?」
オーハンスの問いかけに、ナトは暫く辺りを見回したあと、頭(かぶり)を振った。
「視線を感じたような気がして……気のせいみたいだね」
「視線? こんな場所に人なんていないだろ」
オーハンスの言葉に、少しぎこちなく、頷いて返す。
その直後、
「あの、あそこに、何か見えませんか?」
ヨルカがふと、そんなことを口に出す。
その視線の先を三人が追うと、道の外れに、そこには石造りの廃墟があった。
小屋のようで、大きさも一人暮らしの物とすれば多少贅沢な程度だ。
そして、なにより。
朽ちかけた小屋を囲むように、その周りに蛍火のようなものが空中を漂っている。
――それは紛れもなく、この世界で唯一安全を約束する、光る灰だった。
「誰か居るのかしら。生活感はないけれど」
「さあ……行ってみようか」
小屋の周りはやはり手入れの跡は見られず、伸びっぱなしの雑草が踏み石を侵食している。
立てつけられている木製のドアは所々かびていて、それでいてそれなりに強固な素材なのか、廃的ではなくきちんとその役割を果たしていた。
ナトはそのドアの取っ手に手をかけた。
「……開くよ」
三人が固唾をのんで見守る中、ゆっくりとドアを引くナト。
すると、中から閉じ込められていた空気が吐き出されるように解き放たれた。
カビ臭いその匂いに鼻を押さえ、目を細める。
そこには小さな椅子と机があった。さらに、それを取り囲むように本棚が並んでいる。
それ以外には何もない。
「何のための建物だか全くわからないな」
「書斎、のようなものでしょうか……」
中に足を踏み入れる。
ナトは本棚にある本を一冊手にとった。
朽ちかけた革表紙の本。試しに開いてみると、そこには見覚えのない文字がびっしりと詰まっていた。
「……読めないな」
もっとも、都市国家アタラシアや本国においても下層市民にまで書物が普及していたわけではない。
ナトが知っている文字というのも、国王が少しばかり啓蒙思想に傾倒した、そのおこぼれから学んだもので、大した知識はないのだが。
それにしても、この辺境の建物に、この本の量。
もしかして、廃墟などを見るに一度滅びた様子のこの世界は、都市国家アタラシアよりもよほど進んだ文明を持っていたのではないか。
アメリオが適当に散策し始め、それに付いていくヨルカ。
それとは別に部屋の中を見回しているオーハンス。
彼らを尻目に、ナトはページに目を落とす。
捲っていくと、何やら文字とともに絵が出てきた。
そこには何やら、魔女のような怪物が辺りを壊し尽くしていたり、巨人たちが儀式のようなものをしていたりと、
かつての文化思想が垣間見えるものだった。
「なにかしら、これ」
適当に紙を捲っていると、アメリオが声を上げた。
その手には、なにやら砂時計のようなものが乗っていた。
その砂は落ちることは無く、ガラスの上部で留まっている。
ナトがそちらに目を向けると、
「『旅路の砂時計』」
そんな言葉が頭に浮かんできた。
「『旅路と時を司る大いなる砂に身を任せよ』とも」
「今のも例の『アレ』か? 随分抽象的だな」
オーハンスが嘆息をつく。
ナトも、思わず頭を捻る。
彼の頭に浮かぶ単語や説明は、大体が抽象的だった。
すると、
「これも魔導具……なんでしょうか」
と、ヨルカが声を上げた。
そちらを見ると、彼女は砂時計を持ち上げてその底部を見上げていた。
そこには炎と剣のシルエットが彫られている。
「なんでまた、こんなところに魔導具なんか……」
「庭園 って、どういう場所なんでしょうね」
結局、家の中で他にめぼしい何かが見つかるわけでもなく、
砂時計と適当な本を回収して、四人は家を出た。
光る灰が降る中、朽ちかけた家の手前で各々マントを広げて地面に座り、休憩を取り始めた。
ヨルカとアメリオが食事の準備を始め、オーハンスは荷物の整理を始める。
その中でナトは、一人横たわって寝息を立てていた。
というのも、これは三人の提言によるものだった。
この大地に安全の保証が無いとはいえ、彼らは人間であり、つまり永遠に進み続けることなんてできない。
何が起こるかわからない、そんな勝手のわからない旅の中で休憩を取れていたのは、ひとえにナトが見張りを買って出ていたからだった。
自分よりも、体力のない三人の休憩を優先していたナト。
今の彼の状況は、その功績に加え、旅の舵取りもこなしていた彼を、三人が気遣った結果だった。
しかし、いくら体力が三人より多いからと言って、疲労が無いわけではなかったようで、
ヨルカは彼が横になってすぐ寝息を立て始めたのを聞いて、そっと胸をなでおろした。
混濁する意識の中で、銀色の髪は舞う。
失ったはずの、一番失いたくないもの。
それは儚げに目の前に咲いていた。
――私のせい。
霧に包まれて、彼女は悲しげにそう言った。
――わかってた。こうなるかもしれないって。
白く華奢な指先が、霧の中を彷徨う。
それを掴もうと手を伸ばす。でも届かず。
届きそうでも、愛おしいそれは霧散していく。
――私じゃあ、この『糸』を千切ることは、できなかった。
とても悲しげに、彼女は俯く。
抱きしめたくても、できない。
もどかしくて死にそうだ。
――ごめんね。
彼女はそう呟いて、
その声と共に、霧に溶けていく。
手を伸ばす。
掴んだ指の隙間から、白い霧が抜けていく。
――信じてる。
その言葉を最後に、自分の体が粒子のの中に埋まっていく。
やがて、意識すらも、水面のようにうねる白い海に沈んでいく。
深く、深く、深く――――。
「あ、あの……ナトさん」
ヨルカが、そっとナトの肩をゆすった。
うっすらと、ナトは目を開ける。
上半身を起こすと、しばらく虚空を見つめて、次に少しだけまぶたが大きく開いて、我に帰る。
「あの、ご飯ができました……」
おずおずと、ヨルカがそう語りかけると、
ナトはゆっくりと彼女の方を向いて、少しだけ、微笑んだ。
そして、
「ありがとう、ヨルカ」
どこか寂しげに、そう言った。
弾ける焚き火の周りに、串刺しにした芋が並んで焼かれている。
特有の香りが立ち上り、そして炎が辺りに暖を与える。
「それじゃあ、頂こうか」
ナトがそう言って、火傷をしないように布で手元を保護しながら、一本の串を取った。
芋は皮ごとパリっと焼けており、それをひとまずよく確認した後、
土色の表面を一口齧ると、そこから溢れんばかりに白い湯気が生まれる。
多少硬い咀嚼感。
鼻を抜ける素朴な香り。
多少の土臭さや皮の苦味も、むしろ柔らかい中身の味を引き立てるスパイスだった。
続いてアメリオも串を一本手にとって、一口齧る。
幸せそうに目を細める彼女を見て、オーハンスは我慢しきれなく鳴ったように、「お、おい」と声を掛けた。
「オルフ、食べないの?」
ナトが芋を食 みながら心配そうにオーハンスに尋ねるも、ゆっくりと頭 を振る。
「いや……あのさ、流石にもう、飽きたんだ」
オーハンスがそう言うと、キョトンとした顔で見合わせるナトとアメリオ。
何を言っているんだ、とでも言いたげな顔の二人を見て、オーハンスはため息を漏らした。
「いや、贅沢を言うつもりはないんだ。
だけど、これは、その……」
気まずそうに、目の前を見る。
そこには、オレンジ色の炎に照らされる芋しかなかった。
「……あの、用意をしたのは私ですけど」
ヨルカも、声を上げる。
そんな彼女も、芋に手をつけようとはしなかった。
「食べますよ? 食べますけど……あれから、朝も昼も夜も、その次もさらにその次も……。
ずっと、ずっとお芋さんじゃないですか!」
ナトとアメリオは再び顔を見合わせる。
それがどうした、とでも言いたげな顔の二人を見て、ヨルカはがっくりと肩を落とした。
「……他になにもない中でこれなら、まだ『ヒトクチ』のほうがマシだな」
オーハンスがそう零した。
そして、渋々串を手に取ろうと手を伸ばし――。
「あるよ」
ナトがそう言った。
「……え?」
弾かれたように、オーハンスの顔が上がる。
――焦った表情を伴って。
「あ、ああ、いやいや冗談だって。芋美味しいな、うん。
謎植物の体液に比べたら、最高の逸品だぜ! なあ!?」
「そ、そうですよ! お、お芋さんおいしいなぁ」
馬のような生物にくくりつけた荷物を漁るナトを見て、慌てて弁解する二人。
過言だった。意地でも食べたくなかった。
しかし、ついにナトの手が荷物の中から抜かれる。
「ひゅっ!?」
「ああ、俺はここまでらしい。カイロス、俺もそっちに……」
過呼吸で倒れるヨルカ。
虚空を見つめてこの世の未練を呟き続けるオーハンス。
二人の前に、麻の小袋が置かれる。
「はい」
「……ナト」
「すごく美味しいよ」
「それはお前が味覚魔神だからだろ」
笑顔のナトを見て、唾を飲み込むオーハンス。
ゆっくりと、口を締める紐を緩め――。
そして、その中身を見て、呆けるようにナトを見る。
「これは……なんだ?」
そこには、粉末状の、緑色の何かだった。
そして、見た目に反して香ばしい。
「道の途中で見つけて、取っておいたんだ。
霜霊草 って言うらしいね。それを、適当に千切って炒っただけだよ」
ナトはその袋の中におもむろに手と入れると、それを一摘み取り出した。
そして、串に刺さった芋に振りかけると、オーハンスにそれを手渡した。
焼けた芋の皮に緑色の粉末が乗る。
「俺、ここまでお前を信用しないの初めてかもしれない」
「心外だよ」
オーハンスは少女のような口を少しだけ開けて、恐る恐る、それに齧りついた。
目を見開く。
口の中に、いつもの芋の素朴さに加えて、それとは異なる衝撃が襲う。
頭が閃くような、そんな錯覚すら覚えるほどに。
今度は、自分で芋に振りかける。
そして、齧る。
――しょっぱい。
味を忘れかけてすらいた彼にとって、それは革命的といってもいいほどの衝撃だった。
少女のような白い肌の頬に、透明な涙が一筋流れる。
「なあ、ナト……俺さ、この旅でまともな飯にありつくことなんて、もう諦めようとしてたんだ」
「ああ」
もう一度、齧り付く。
口の中に染み渡る、塩の味。
極めて単調、だが、それがいい。
そして、ホクホクと温かい、皮に包まれた宝石のように輝くそれが、舌を掴んで離さない。
ホロリとした芋の感触に、突然宿った彩り。
まるで小躍りするかのように、頰が歓喜に疼く。
「でもさ、諦めきれなくてさ……。ナト、ごめんな。味覚魔神とか言って。後、雑食ナメクジとか、主食雑草野郎とか――」
「……あ、ああ」
アメリオも「私も貰うわ!」と勝手に袋を掻っ攫い、中身をふりかけて芋を食み、うっとりと目を細める。
余韻に浸っていたオーハンスは、自分の手元にその袋が無いことに気が付くと、「お、おい」とアメリオの方へと手を伸ばす。
両手で芋と袋を持ち、身を引いてそれを避けるアメリオ。
「……この食欲悪魔! 独占するんじゃねぇ!」
「とんでもなく美味しいわね! ナト、これ見かけたらもっと採るわよ!」
騒がしい二人を尻目に、ナトはヨルカの方へ向く。
「ヨルカ」
「う、ううん……」
そう声を掛けると、気を失っていたヨルカは、頭を抑えて起き上がった。
「……あ、ナ、ナトさん!? ……い、いや私はいいです、あの、本当に、オーハンスさんだけで十分……」
そんな彼女に、ナトはバッグの中から違う何かを取り出すと、それを手渡した。
ヨルカは、手の中に収まったそれを覗く。
それは、ブローチだった。
白い筋の走る赤い石がはめ込まれている。
「え? あ、あの、ナトさん、これは……」
「お詫び……かな」
首を傾げるヨルカに、ナトは少しだけ視線を外す。
「……ここに来た初日に、随分意地悪な事を言っちゃったから。ごめん」
そう話したナトに、少し思い返すような素振りを見せて、そしてヨルカは慌てて首を振る。
「そ、そんなに気にしてないですし……ナトさんがおっしゃった事も、わかります。で、ですから……」
「ありがとう。でも、いいんだ。それは受け取ってほしい。俺からの気持ちとして。
あ、一つしか無いから、二人には秘密にしといてね」
「……そう、ですか。じゃ、じゃあ、頂きます」
そう言って、少しだけ顔を赤くして、ケープの端にこっそりと付けた。
それから、ナトは持ち出した本を眺め、アメリオは砂時計を眺め、オーハンスは馬のような生物の手入れをして、ヨルカはナトの隣で眠り、
各々の時間を過ごした後、誰から共なく立ち上がり、荷物をまとめ、
そして、旅を再開した。
ふと、先頭を歩くナトがハッとしたように振り返る。
「おい、ナト。どうしたんだよ、一体」
「……いや」
ざわつく。
言い表しようのない、この感覚。
「誰か、いる……?」
森の影の中を睨む。
しかし、その言葉に答えるものはいない。
オーハンスは、不安そうに「お、おい……」とナトの様子を伺う。
「砂が落ちてるわ」
その時、二人の緊張を遮るように声を上げたのは、アメリオだった。
キョトンとしてナトとオーハンスがアメリオを見ると、彼女は歩きながら砂時計を見ていた。
ガラス瓶の中で、数粒ずつ、チラチラと月光を反射させて砂が落ちている。
オーハンスが観察しようと近づいた為、アメリオが足を止めると、
「……止まったわ」
砂は落ちることをやめて、また沈黙した。
「えっと……移動すると砂が落ちるのか?」
「何に使うんでしょう」
アメリオが前に進むと、再び砂は瓶の下部へと流れ始めた。
しかし、左右に進むと砂は落ちることをやめて、後ろに下がると砂が上部へと逆流していく。
「ある方向へ進むと、砂が落ちる仕組みになっているのか」
オーハンスは不思議そうに砂時計を眺める。
すると、アメリオが「決めた!」と言って、砂時計を高らかに持ち上げた。
「この砂時計が進む方向に向かってみない? どうせ、行く宛もないんだし」
「別にいいけど……うん。そっちのほうが、彷徨い歩くより気が楽そうだ」
ナトが二人をチラリと見ると、それでいい、と、それぞれ頷きを帰ってきた。
そうして進路を調節して、再び道なりに歩き出す。
会話は無く、辺りを軽く見回しながらの移動。
何時も通り。
いつの間にか、彼らの中で、そんな言葉が定着していた。
歩く度に景色が変わるこの世界で言うのもどうだ、と側から見ればそう感じられるだろうが、
彼らにとっては、むしろこの危険を孕んでいるかも知れない、口の閉じた麻袋のような雰囲気だからこそ、安心して足を進める事ができていた。
それが長く続いて。
不意に、その日の二度目――昼時の鐘が鳴った、その時。
「待って」
ナトが三人を止めた。
道を外れた崖、その下にナトは視線を向ける。
「……な、なんですか? どうしたんです?」
「誰か来た。それも、たくさん」
そうして少しの時間が経ち、現れたのは数十人規模の集団だった。
全員白いマントを装備して、そこには赤い目を持つ白い鳥が刺繍されている。
「あれ……どこかで見たことあるな」
「リ・エディナ教の制服にそっくりです……」
三人は、霧に入る以前に、門の前でみた光景を思い出す。
アメリオは、不思議そうにその行列を眺めていた。
「どこに向かっているんでしょう……」
その時だった。
ちらりと、先頭に立つマントの青年が、後ろの隊列の行進を止め、辺りを見回した。
橙色の髪の、鋭い目つきの青年だ。
その視線が、こちらに向く。
「っ!?」
慌てて出していた顔を引っ込める。
四人で固まって、息を潜めた。
互いの鼓動が早まるのを感じながら、じっとその時を待つ。
ナトがそっと顔を出すと、相変わらず彼らは立ち止まったままだった。
鐘の音が鳴る中、静かに両手に握りこぶしを作り、胸の前で交差させている。
「……なんかの儀式か、ありゃ」
オーハンスの呟きは、庭園に響く大きな鐘の音にかき消された。
やがて、鐘の音が止み、足音が再開した。
ちらりと様子を伺うと、徐々にこちらから遠ざかっていく隊列が見える。
その集団が闇に消えていった頃、四人は盛大に息を吐いて、ぐったりとしながら改めて移動を開始した。
休憩したばかりだというのに、何時も通りだというのに、彼らは既に疲労をため込んでいた。
彼らにとっての「日常」は、実に厄介な特性を帯びていた。
それから数日が経った。
それなりに歩いた。が、未だにその場所を抜けることはできていなかった。
それぞれ、疲労の色が顔に出ている。
いくら休みを挟んでいるとはいえ、これだけの移動の中で、四人の中には確実に蓄積するものがあった。
ただ、敵対する原生生物が現れてこない事だけが、彼らにとって不幸中の幸いだった。
「それにしても墓だらけだな」
「うう……さっきからこんな場所ばかりです……」
そうしてやってきたのは、木々に囲まれて石の墓が乱立する墓地だった。
腰の高さほどの墓の隙間を縫って進む。
墓には名前が掘ってあるが、やはり異国の文字で書かれていて、読むことができなかった。
「……壊されてるね」
ナトが、あたりの墓を見ながら言った。
視線の先の墓は何かが勢いよくぶつかったかのように破壊されていて、
その近くには、ナトの身長ほどもある巨大な木の枝が何本も突き立っていた。
「そういう風習でもあったんでしょうか」
「昔の人が考えることはわからないわね」
アメリオが、砂時計の落ちる砂を見ながらそう言った。
ふと顔を上げると、遠くに大きな暗い木の陰が見える。
背の高さが周りの木の二、三倍はあり、明らかな生態系の違いがわかる。
さらに、目を凝らせば、夜の帳の中で、光る何かが木々の内側を明るく照らしていた。
四人の顔に、はっきりと希望の光が灯る。
「此処を超えれば次の場所に着くさ。後少しだ、頑張ろう」
ナトの声も、心なしか少し弾んでいた。
黙々と墓の畑を進んでいく。
心なしか、肌で感じる温度も下がっている気がする。
薄暗いカーテンに包まれながら、柔らかい地面を踏みしめる。
辺りの木々が騒めき、吹き抜ける冷たい風が追い抜いていった。
「あっ……」
ヨルカがそんな小さな声と共に、草の上に転んだような音がした。
「大丈夫?」
ナトが後ろを振り向く。
ヨルカは地面に膝を付いていた。
ナトが振り返り、手を差し伸べようとして、気がつく。
顔が悪く、小刻みに震えている。
彼女の肩からは――血が、服にシミを作っていた。
そして、ふと顔を上げて、それが視界に入る。
彼女の背後。
人ならざる、何かが居た。
白くて薄い布が揺蕩っている。
その上部についた、人の頭ほどの木の実をくり抜いたような顔が、感情を感じさせない雰囲気で、何も言わずにこちらを見つめていた。
「い、や…………ナト、さん」
血が溢れる肩を押さえて、呼吸が荒くなる。
そして、そのまま地面に倒れ込んでしまう。
混乱したナトの頭の中に、一つの言葉が浮かび上がった。
「化頭影 ……!」
この世界に巣食う、箱庭の魔物。
全身の毛が、逆立つ。
「おいナト、逃げろっ!!」
ゆらゆらと浮かぶ薄布と木の実の怪物。
その前に、一本の尖った人の身長ほどある木の枝が浮かび上がる。
そして、血液のついた先端が、ナトの方へと突き出された。
「っ!?」
体を捻ってそれを躱す。
体を穿たれることはなく、遅れて翻ったマント、そして地面に突き刺さる。
「オルフ、ヨルカを――っ!?」
体勢を崩したところへ、追撃が繰り出される。
鋭く尖った無骨な木の枝が、ナトの体を貫こうと何度も突き出される。
なんとか無理やり避けていたその時、大きな質量の塊が怪物を襲う。
突風と共に墓場を突き抜けていく。
しかし、薄い布が激しく揺れただけで、肝心の怪物は傷ついた様子は無かった。
「と、とんでもないわ……」
怪物の彫られた目がアメリオを捉える。
再び木の枝が持ち上がり、彼女へと迫る。
次の瞬間――甲高い音と共にそれは上へと飛んでいった。
クルクルと回って、落ちて地面に刺さった。
銅色の剣を抜いて薙ぎ払った格好のナトは、続けて怪物の頭部――木の実を狙って、鋭い突きを繰り出した。
「なっ……!?」
鈍い音。
確かな手応え。
しかし、ほとんど貫くには至らなかった。
剣先が少しだけ好みの表面に食い込み、代わりにナトの手に硬い感触が伝わる。
――硬いっ。
剣を引いて後ずさるナト。
一拍の間を置いて、怪物の周りから幾つもの木の枝が浮き上がる。
それらは全て先端をナトへと定め――射出される。
「そんなっ……!?」
転がり、手頃な墓の裏に屈んで隠れる。
いくつもの風切り音が聞こえ、墓石に付けた背中から、鈍い衝撃が何度も伝わる。
衝撃が止む。
動き出そうとした、その時。
背中に、一段と重い衝撃。
「っ……!」
背後から溢れるいくつかの小石に、息を飲む。
振り向けば、分厚い墓石が破壊されていた。
壊れた石の塊――その側でこちらを見下ろすように怪物が佇んでいる。
休む暇もなく、再び木の枝が持ち上げられる。
「ナト!!」
迫りくる枝の槍。
左手を突き出す。
ナトの目が、高速で射出されたその枝を捉えた。
左から棒を握るように動き、そのまま軌道をずらした。
枝の突き出す動きにより、掴んだ掌が摩擦で熱くなる。
枝は地面に深く突き刺さり、ナトの掌の表面を削り取った幹の部分が紅く染まった。
「くっ……」
左手を絞るように握りしめて、歯を食いしばる。
血が何滴か落ちて、地面の土がそれらを吸い込んだ。
そして直ぐに、何かを確信したように、改めて怪物を睨みつけた。
――反応速度が、前とは違う。
焼けるような左の掌の痛みを押さえ込み、怪物を見上げる。
木の実に空いた空洞が、こちらを観察し続けている。
このままでは不味い。
どうにかしなければ、さもなくば――。
「もう、誰も、失いたくないんだっ……!」
体が熱くなる。
大丈夫。まだ戦える。
皆を、守るんだ。
その時だった。
木槌で、石の床を叩いたような大きな音。
突然、木の実でできた怪物の頭が、爆散した。
「っ!?」
粉々になった頭の残骸が、上から降り注ぐ、その向こう。
黒く巨大な人影が見えた。
黒くてしなやかな、身長の高い全身鎧。
宮廷騎士の鎧よりも細やかな装飾は、むやみに着飾る華美なものではなく、むしろ恐ろしさを駆り立てられる。
なにより、鎧のはずが、本物の生物の鱗のような物が所々に見える。
その鎧は、じっと怪物の死体が動かないのを確認すると、後に残った薄い布のような物を手に取った。
びり、びりりと布を細切れに破いていく。
跳ね上がったナトは、顔をしかめて両手で剣を握り構えた。
正面の黒い全身鎧を見据え、腰を落とす。
対して鎧は作業を終えると、ゆっくりとナトを見つめ返した。
その仮面の奥に素顔は見えず、塗りつぶされたように暗い。
アメリオも右手を突き出して正面に構える。
ヨルカを回収して馬のような生物に乗せたオーハンスは、緊張した面持ちでその光景を見守っていた。
「……怪我はありませんか」
野太い声が響いた。
一拍置いて、ナトが目を丸くする。
話せる。しかも、こちらの言葉を。
敵意は……わからなかった。その仮面から表情を読み取ることができない。
「……僕たちは争いを望んでいません」
「私もそのつもりです」
鎧のその言葉に、ナトはゆっくりと剣を、アメリオは右手を下ろした。
「……ところで、その子」
鎧の視線が、息の荒いヨルカに向く。
「これは不味い。あの怪物の呪いです」
「……呪い?」
「ええ。呪いです。
この先に私がお世話になっている村があります。そこで見てもらいましょう。それに……」
チラリと、後ろを振り返る黒鎧。
そこには、靡く白い布がいくつか浮かび上がり、こちらの様子を伺っている。
「また目をつけられると厄介です」
さあ、と言って、足早に進む鎧。
怪しい。そう感じて、立ち往生する三人。
しかし。
ナトは視線を向けてくる二人と魘 される少女を見て、
後ろの二人に頷いて見せ、彼らと共にその後に続く。
「……すみません、お世話になります」
ついてきていることを尻目に確認すると、再び前を向いて歩き出した。
「ああ、申し遅れました」
と、鎧が兜だけ振り向いた。
「私はグリーゼ。この先の村で警備をしています。よろしくおねがいします」
「は、肌寒くありませんか?」
荷物を載せた馬のような生物を引いて、風化した石畳を歩く小柄な少年、オーハンスがそう呟いた。
フードに隠れたその少女のような風貌から、僅かに怯えが見える。
その後ろに、若干震えながら辺りを見回す、金髪の少女、ヨルカが続く。
「進まないことには抜けられないわ。今はとにかく進みましょ」
その前を、二人の人物が歩く。
その少女は、赤い髪を
「……そろそろ、休憩する場所があるといいんだけど」
先頭を歩く、一人剣や軽装を纏った長身の少年、ナトはそう呟いた。
あたりは薄暗く、時折冷たい風が吹いては、四人を焦らせるように吹き抜けていく。
空は暗く、ナトたちがこの地域に入ってから、一度もその色を変えることは無かった。
あたりは元は舗装されていたであろう、蜘蛛の巣のように広がる幅が広いボロボロの石畳が、
雑草による濃い緑色の絨毯の上を、点在する木々や、光の灯らない照明の間を縫って、暗いカーテンの向こうのどこかへと続いている。
その道の内の一つを、四人は進んでいた。
「『荒れた草陰』、か」
頭の中に浮かんだ単語を、ナトは口に出した。
明かりは空に浮かぶ月の青白い光だけ。
崩れた足場に躓くことも多く、移動は思っている以上に難航していた。
星の数より多くの危険を孕む世界『ベルガーデン』。
そんな魔王の箱庭を歩いている限り、いつ災難に襲われてもおかしくはないため、
結果的に、安易に立ち止まるわけにはいかない状況を強いられる。
「……ん?」
突然、先頭を歩くナトが足を止める。
「おい、ナト。なんかあったか?」
オーハンスの問いかけに、ナトは暫く辺りを見回したあと、頭(かぶり)を振った。
「視線を感じたような気がして……気のせいみたいだね」
「視線? こんな場所に人なんていないだろ」
オーハンスの言葉に、少しぎこちなく、頷いて返す。
その直後、
「あの、あそこに、何か見えませんか?」
ヨルカがふと、そんなことを口に出す。
その視線の先を三人が追うと、道の外れに、そこには石造りの廃墟があった。
小屋のようで、大きさも一人暮らしの物とすれば多少贅沢な程度だ。
そして、なにより。
朽ちかけた小屋を囲むように、その周りに蛍火のようなものが空中を漂っている。
――それは紛れもなく、この世界で唯一安全を約束する、光る灰だった。
「誰か居るのかしら。生活感はないけれど」
「さあ……行ってみようか」
小屋の周りはやはり手入れの跡は見られず、伸びっぱなしの雑草が踏み石を侵食している。
立てつけられている木製のドアは所々かびていて、それでいてそれなりに強固な素材なのか、廃的ではなくきちんとその役割を果たしていた。
ナトはそのドアの取っ手に手をかけた。
「……開くよ」
三人が固唾をのんで見守る中、ゆっくりとドアを引くナト。
すると、中から閉じ込められていた空気が吐き出されるように解き放たれた。
カビ臭いその匂いに鼻を押さえ、目を細める。
そこには小さな椅子と机があった。さらに、それを取り囲むように本棚が並んでいる。
それ以外には何もない。
「何のための建物だか全くわからないな」
「書斎、のようなものでしょうか……」
中に足を踏み入れる。
ナトは本棚にある本を一冊手にとった。
朽ちかけた革表紙の本。試しに開いてみると、そこには見覚えのない文字がびっしりと詰まっていた。
「……読めないな」
もっとも、都市国家アタラシアや本国においても下層市民にまで書物が普及していたわけではない。
ナトが知っている文字というのも、国王が少しばかり啓蒙思想に傾倒した、そのおこぼれから学んだもので、大した知識はないのだが。
それにしても、この辺境の建物に、この本の量。
もしかして、廃墟などを見るに一度滅びた様子のこの世界は、都市国家アタラシアよりもよほど進んだ文明を持っていたのではないか。
アメリオが適当に散策し始め、それに付いていくヨルカ。
それとは別に部屋の中を見回しているオーハンス。
彼らを尻目に、ナトはページに目を落とす。
捲っていくと、何やら文字とともに絵が出てきた。
そこには何やら、魔女のような怪物が辺りを壊し尽くしていたり、巨人たちが儀式のようなものをしていたりと、
かつての文化思想が垣間見えるものだった。
「なにかしら、これ」
適当に紙を捲っていると、アメリオが声を上げた。
その手には、なにやら砂時計のようなものが乗っていた。
その砂は落ちることは無く、ガラスの上部で留まっている。
ナトがそちらに目を向けると、
「『旅路の砂時計』」
そんな言葉が頭に浮かんできた。
「『旅路と時を司る大いなる砂に身を任せよ』とも」
「今のも例の『アレ』か? 随分抽象的だな」
オーハンスが嘆息をつく。
ナトも、思わず頭を捻る。
彼の頭に浮かぶ単語や説明は、大体が抽象的だった。
すると、
「これも魔導具……なんでしょうか」
と、ヨルカが声を上げた。
そちらを見ると、彼女は砂時計を持ち上げてその底部を見上げていた。
そこには炎と剣のシルエットが彫られている。
「なんでまた、こんなところに魔導具なんか……」
「
結局、家の中で他にめぼしい何かが見つかるわけでもなく、
砂時計と適当な本を回収して、四人は家を出た。
光る灰が降る中、朽ちかけた家の手前で各々マントを広げて地面に座り、休憩を取り始めた。
ヨルカとアメリオが食事の準備を始め、オーハンスは荷物の整理を始める。
その中でナトは、一人横たわって寝息を立てていた。
というのも、これは三人の提言によるものだった。
この大地に安全の保証が無いとはいえ、彼らは人間であり、つまり永遠に進み続けることなんてできない。
何が起こるかわからない、そんな勝手のわからない旅の中で休憩を取れていたのは、ひとえにナトが見張りを買って出ていたからだった。
自分よりも、体力のない三人の休憩を優先していたナト。
今の彼の状況は、その功績に加え、旅の舵取りもこなしていた彼を、三人が気遣った結果だった。
しかし、いくら体力が三人より多いからと言って、疲労が無いわけではなかったようで、
ヨルカは彼が横になってすぐ寝息を立て始めたのを聞いて、そっと胸をなでおろした。
混濁する意識の中で、銀色の髪は舞う。
失ったはずの、一番失いたくないもの。
それは儚げに目の前に咲いていた。
――私のせい。
霧に包まれて、彼女は悲しげにそう言った。
――わかってた。こうなるかもしれないって。
白く華奢な指先が、霧の中を彷徨う。
それを掴もうと手を伸ばす。でも届かず。
届きそうでも、愛おしいそれは霧散していく。
――私じゃあ、この『糸』を千切ることは、できなかった。
とても悲しげに、彼女は俯く。
抱きしめたくても、できない。
もどかしくて死にそうだ。
――ごめんね。
彼女はそう呟いて、
その声と共に、霧に溶けていく。
手を伸ばす。
掴んだ指の隙間から、白い霧が抜けていく。
――信じてる。
その言葉を最後に、自分の体が粒子のの中に埋まっていく。
やがて、意識すらも、水面のようにうねる白い海に沈んでいく。
深く、深く、深く――――。
「あ、あの……ナトさん」
ヨルカが、そっとナトの肩をゆすった。
うっすらと、ナトは目を開ける。
上半身を起こすと、しばらく虚空を見つめて、次に少しだけまぶたが大きく開いて、我に帰る。
「あの、ご飯ができました……」
おずおずと、ヨルカがそう語りかけると、
ナトはゆっくりと彼女の方を向いて、少しだけ、微笑んだ。
そして、
「ありがとう、ヨルカ」
どこか寂しげに、そう言った。
弾ける焚き火の周りに、串刺しにした芋が並んで焼かれている。
特有の香りが立ち上り、そして炎が辺りに暖を与える。
「それじゃあ、頂こうか」
ナトがそう言って、火傷をしないように布で手元を保護しながら、一本の串を取った。
芋は皮ごとパリっと焼けており、それをひとまずよく確認した後、
土色の表面を一口齧ると、そこから溢れんばかりに白い湯気が生まれる。
多少硬い咀嚼感。
鼻を抜ける素朴な香り。
多少の土臭さや皮の苦味も、むしろ柔らかい中身の味を引き立てるスパイスだった。
続いてアメリオも串を一本手にとって、一口齧る。
幸せそうに目を細める彼女を見て、オーハンスは我慢しきれなく鳴ったように、「お、おい」と声を掛けた。
「オルフ、食べないの?」
ナトが芋を
「いや……あのさ、流石にもう、飽きたんだ」
オーハンスがそう言うと、キョトンとした顔で見合わせるナトとアメリオ。
何を言っているんだ、とでも言いたげな顔の二人を見て、オーハンスはため息を漏らした。
「いや、贅沢を言うつもりはないんだ。
だけど、これは、その……」
気まずそうに、目の前を見る。
そこには、オレンジ色の炎に照らされる芋しかなかった。
「……あの、用意をしたのは私ですけど」
ヨルカも、声を上げる。
そんな彼女も、芋に手をつけようとはしなかった。
「食べますよ? 食べますけど……あれから、朝も昼も夜も、その次もさらにその次も……。
ずっと、ずっとお芋さんじゃないですか!」
ナトとアメリオは再び顔を見合わせる。
それがどうした、とでも言いたげな顔の二人を見て、ヨルカはがっくりと肩を落とした。
「……他になにもない中でこれなら、まだ『ヒトクチ』のほうがマシだな」
オーハンスがそう零した。
そして、渋々串を手に取ろうと手を伸ばし――。
「あるよ」
ナトがそう言った。
「……え?」
弾かれたように、オーハンスの顔が上がる。
――焦った表情を伴って。
「あ、ああ、いやいや冗談だって。芋美味しいな、うん。
謎植物の体液に比べたら、最高の逸品だぜ! なあ!?」
「そ、そうですよ! お、お芋さんおいしいなぁ」
馬のような生物にくくりつけた荷物を漁るナトを見て、慌てて弁解する二人。
過言だった。意地でも食べたくなかった。
しかし、ついにナトの手が荷物の中から抜かれる。
「ひゅっ!?」
「ああ、俺はここまでらしい。カイロス、俺もそっちに……」
過呼吸で倒れるヨルカ。
虚空を見つめてこの世の未練を呟き続けるオーハンス。
二人の前に、麻の小袋が置かれる。
「はい」
「……ナト」
「すごく美味しいよ」
「それはお前が味覚魔神だからだろ」
笑顔のナトを見て、唾を飲み込むオーハンス。
ゆっくりと、口を締める紐を緩め――。
そして、その中身を見て、呆けるようにナトを見る。
「これは……なんだ?」
そこには、粉末状の、緑色の何かだった。
そして、見た目に反して香ばしい。
「道の途中で見つけて、取っておいたんだ。
ナトはその袋の中におもむろに手と入れると、それを一摘み取り出した。
そして、串に刺さった芋に振りかけると、オーハンスにそれを手渡した。
焼けた芋の皮に緑色の粉末が乗る。
「俺、ここまでお前を信用しないの初めてかもしれない」
「心外だよ」
オーハンスは少女のような口を少しだけ開けて、恐る恐る、それに齧りついた。
目を見開く。
口の中に、いつもの芋の素朴さに加えて、それとは異なる衝撃が襲う。
頭が閃くような、そんな錯覚すら覚えるほどに。
今度は、自分で芋に振りかける。
そして、齧る。
――しょっぱい。
味を忘れかけてすらいた彼にとって、それは革命的といってもいいほどの衝撃だった。
少女のような白い肌の頬に、透明な涙が一筋流れる。
「なあ、ナト……俺さ、この旅でまともな飯にありつくことなんて、もう諦めようとしてたんだ」
「ああ」
もう一度、齧り付く。
口の中に染み渡る、塩の味。
極めて単調、だが、それがいい。
そして、ホクホクと温かい、皮に包まれた宝石のように輝くそれが、舌を掴んで離さない。
ホロリとした芋の感触に、突然宿った彩り。
まるで小躍りするかのように、頰が歓喜に疼く。
「でもさ、諦めきれなくてさ……。ナト、ごめんな。味覚魔神とか言って。後、雑食ナメクジとか、主食雑草野郎とか――」
「……あ、ああ」
アメリオも「私も貰うわ!」と勝手に袋を掻っ攫い、中身をふりかけて芋を食み、うっとりと目を細める。
余韻に浸っていたオーハンスは、自分の手元にその袋が無いことに気が付くと、「お、おい」とアメリオの方へと手を伸ばす。
両手で芋と袋を持ち、身を引いてそれを避けるアメリオ。
「……この食欲悪魔! 独占するんじゃねぇ!」
「とんでもなく美味しいわね! ナト、これ見かけたらもっと採るわよ!」
騒がしい二人を尻目に、ナトはヨルカの方へ向く。
「ヨルカ」
「う、ううん……」
そう声を掛けると、気を失っていたヨルカは、頭を抑えて起き上がった。
「……あ、ナ、ナトさん!? ……い、いや私はいいです、あの、本当に、オーハンスさんだけで十分……」
そんな彼女に、ナトはバッグの中から違う何かを取り出すと、それを手渡した。
ヨルカは、手の中に収まったそれを覗く。
それは、ブローチだった。
白い筋の走る赤い石がはめ込まれている。
「え? あ、あの、ナトさん、これは……」
「お詫び……かな」
首を傾げるヨルカに、ナトは少しだけ視線を外す。
「……ここに来た初日に、随分意地悪な事を言っちゃったから。ごめん」
そう話したナトに、少し思い返すような素振りを見せて、そしてヨルカは慌てて首を振る。
「そ、そんなに気にしてないですし……ナトさんがおっしゃった事も、わかります。で、ですから……」
「ありがとう。でも、いいんだ。それは受け取ってほしい。俺からの気持ちとして。
あ、一つしか無いから、二人には秘密にしといてね」
「……そう、ですか。じゃ、じゃあ、頂きます」
そう言って、少しだけ顔を赤くして、ケープの端にこっそりと付けた。
それから、ナトは持ち出した本を眺め、アメリオは砂時計を眺め、オーハンスは馬のような生物の手入れをして、ヨルカはナトの隣で眠り、
各々の時間を過ごした後、誰から共なく立ち上がり、荷物をまとめ、
そして、旅を再開した。
ふと、先頭を歩くナトがハッとしたように振り返る。
「おい、ナト。どうしたんだよ、一体」
「……いや」
ざわつく。
言い表しようのない、この感覚。
「誰か、いる……?」
森の影の中を睨む。
しかし、その言葉に答えるものはいない。
オーハンスは、不安そうに「お、おい……」とナトの様子を伺う。
「砂が落ちてるわ」
その時、二人の緊張を遮るように声を上げたのは、アメリオだった。
キョトンとしてナトとオーハンスがアメリオを見ると、彼女は歩きながら砂時計を見ていた。
ガラス瓶の中で、数粒ずつ、チラチラと月光を反射させて砂が落ちている。
オーハンスが観察しようと近づいた為、アメリオが足を止めると、
「……止まったわ」
砂は落ちることをやめて、また沈黙した。
「えっと……移動すると砂が落ちるのか?」
「何に使うんでしょう」
アメリオが前に進むと、再び砂は瓶の下部へと流れ始めた。
しかし、左右に進むと砂は落ちることをやめて、後ろに下がると砂が上部へと逆流していく。
「ある方向へ進むと、砂が落ちる仕組みになっているのか」
オーハンスは不思議そうに砂時計を眺める。
すると、アメリオが「決めた!」と言って、砂時計を高らかに持ち上げた。
「この砂時計が進む方向に向かってみない? どうせ、行く宛もないんだし」
「別にいいけど……うん。そっちのほうが、彷徨い歩くより気が楽そうだ」
ナトが二人をチラリと見ると、それでいい、と、それぞれ頷きを帰ってきた。
そうして進路を調節して、再び道なりに歩き出す。
会話は無く、辺りを軽く見回しながらの移動。
何時も通り。
いつの間にか、彼らの中で、そんな言葉が定着していた。
歩く度に景色が変わるこの世界で言うのもどうだ、と側から見ればそう感じられるだろうが、
彼らにとっては、むしろこの危険を孕んでいるかも知れない、口の閉じた麻袋のような雰囲気だからこそ、安心して足を進める事ができていた。
それが長く続いて。
不意に、その日の二度目――昼時の鐘が鳴った、その時。
「待って」
ナトが三人を止めた。
道を外れた崖、その下にナトは視線を向ける。
「……な、なんですか? どうしたんです?」
「誰か来た。それも、たくさん」
そうして少しの時間が経ち、現れたのは数十人規模の集団だった。
全員白いマントを装備して、そこには赤い目を持つ白い鳥が刺繍されている。
「あれ……どこかで見たことあるな」
「リ・エディナ教の制服にそっくりです……」
三人は、霧に入る以前に、門の前でみた光景を思い出す。
アメリオは、不思議そうにその行列を眺めていた。
「どこに向かっているんでしょう……」
その時だった。
ちらりと、先頭に立つマントの青年が、後ろの隊列の行進を止め、辺りを見回した。
橙色の髪の、鋭い目つきの青年だ。
その視線が、こちらに向く。
「っ!?」
慌てて出していた顔を引っ込める。
四人で固まって、息を潜めた。
互いの鼓動が早まるのを感じながら、じっとその時を待つ。
ナトがそっと顔を出すと、相変わらず彼らは立ち止まったままだった。
鐘の音が鳴る中、静かに両手に握りこぶしを作り、胸の前で交差させている。
「……なんかの儀式か、ありゃ」
オーハンスの呟きは、庭園に響く大きな鐘の音にかき消された。
やがて、鐘の音が止み、足音が再開した。
ちらりと様子を伺うと、徐々にこちらから遠ざかっていく隊列が見える。
その集団が闇に消えていった頃、四人は盛大に息を吐いて、ぐったりとしながら改めて移動を開始した。
休憩したばかりだというのに、何時も通りだというのに、彼らは既に疲労をため込んでいた。
彼らにとっての「日常」は、実に厄介な特性を帯びていた。
それから数日が経った。
それなりに歩いた。が、未だにその場所を抜けることはできていなかった。
それぞれ、疲労の色が顔に出ている。
いくら休みを挟んでいるとはいえ、これだけの移動の中で、四人の中には確実に蓄積するものがあった。
ただ、敵対する原生生物が現れてこない事だけが、彼らにとって不幸中の幸いだった。
「それにしても墓だらけだな」
「うう……さっきからこんな場所ばかりです……」
そうしてやってきたのは、木々に囲まれて石の墓が乱立する墓地だった。
腰の高さほどの墓の隙間を縫って進む。
墓には名前が掘ってあるが、やはり異国の文字で書かれていて、読むことができなかった。
「……壊されてるね」
ナトが、あたりの墓を見ながら言った。
視線の先の墓は何かが勢いよくぶつかったかのように破壊されていて、
その近くには、ナトの身長ほどもある巨大な木の枝が何本も突き立っていた。
「そういう風習でもあったんでしょうか」
「昔の人が考えることはわからないわね」
アメリオが、砂時計の落ちる砂を見ながらそう言った。
ふと顔を上げると、遠くに大きな暗い木の陰が見える。
背の高さが周りの木の二、三倍はあり、明らかな生態系の違いがわかる。
さらに、目を凝らせば、夜の帳の中で、光る何かが木々の内側を明るく照らしていた。
四人の顔に、はっきりと希望の光が灯る。
「此処を超えれば次の場所に着くさ。後少しだ、頑張ろう」
ナトの声も、心なしか少し弾んでいた。
黙々と墓の畑を進んでいく。
心なしか、肌で感じる温度も下がっている気がする。
薄暗いカーテンに包まれながら、柔らかい地面を踏みしめる。
辺りの木々が騒めき、吹き抜ける冷たい風が追い抜いていった。
「あっ……」
ヨルカがそんな小さな声と共に、草の上に転んだような音がした。
「大丈夫?」
ナトが後ろを振り向く。
ヨルカは地面に膝を付いていた。
ナトが振り返り、手を差し伸べようとして、気がつく。
顔が悪く、小刻みに震えている。
彼女の肩からは――血が、服にシミを作っていた。
そして、ふと顔を上げて、それが視界に入る。
彼女の背後。
人ならざる、何かが居た。
白くて薄い布が揺蕩っている。
その上部についた、人の頭ほどの木の実をくり抜いたような顔が、感情を感じさせない雰囲気で、何も言わずにこちらを見つめていた。
「い、や…………ナト、さん」
血が溢れる肩を押さえて、呼吸が荒くなる。
そして、そのまま地面に倒れ込んでしまう。
混乱したナトの頭の中に、一つの言葉が浮かび上がった。
「
この世界に巣食う、箱庭の魔物。
全身の毛が、逆立つ。
「おいナト、逃げろっ!!」
ゆらゆらと浮かぶ薄布と木の実の怪物。
その前に、一本の尖った人の身長ほどある木の枝が浮かび上がる。
そして、血液のついた先端が、ナトの方へと突き出された。
「っ!?」
体を捻ってそれを躱す。
体を穿たれることはなく、遅れて翻ったマント、そして地面に突き刺さる。
「オルフ、ヨルカを――っ!?」
体勢を崩したところへ、追撃が繰り出される。
鋭く尖った無骨な木の枝が、ナトの体を貫こうと何度も突き出される。
なんとか無理やり避けていたその時、大きな質量の塊が怪物を襲う。
突風と共に墓場を突き抜けていく。
しかし、薄い布が激しく揺れただけで、肝心の怪物は傷ついた様子は無かった。
「と、とんでもないわ……」
怪物の彫られた目がアメリオを捉える。
再び木の枝が持ち上がり、彼女へと迫る。
次の瞬間――甲高い音と共にそれは上へと飛んでいった。
クルクルと回って、落ちて地面に刺さった。
銅色の剣を抜いて薙ぎ払った格好のナトは、続けて怪物の頭部――木の実を狙って、鋭い突きを繰り出した。
「なっ……!?」
鈍い音。
確かな手応え。
しかし、ほとんど貫くには至らなかった。
剣先が少しだけ好みの表面に食い込み、代わりにナトの手に硬い感触が伝わる。
――硬いっ。
剣を引いて後ずさるナト。
一拍の間を置いて、怪物の周りから幾つもの木の枝が浮き上がる。
それらは全て先端をナトへと定め――射出される。
「そんなっ……!?」
転がり、手頃な墓の裏に屈んで隠れる。
いくつもの風切り音が聞こえ、墓石に付けた背中から、鈍い衝撃が何度も伝わる。
衝撃が止む。
動き出そうとした、その時。
背中に、一段と重い衝撃。
「っ……!」
背後から溢れるいくつかの小石に、息を飲む。
振り向けば、分厚い墓石が破壊されていた。
壊れた石の塊――その側でこちらを見下ろすように怪物が佇んでいる。
休む暇もなく、再び木の枝が持ち上げられる。
「ナト!!」
迫りくる枝の槍。
左手を突き出す。
ナトの目が、高速で射出されたその枝を捉えた。
左から棒を握るように動き、そのまま軌道をずらした。
枝の突き出す動きにより、掴んだ掌が摩擦で熱くなる。
枝は地面に深く突き刺さり、ナトの掌の表面を削り取った幹の部分が紅く染まった。
「くっ……」
左手を絞るように握りしめて、歯を食いしばる。
血が何滴か落ちて、地面の土がそれらを吸い込んだ。
そして直ぐに、何かを確信したように、改めて怪物を睨みつけた。
――反応速度が、前とは違う。
焼けるような左の掌の痛みを押さえ込み、怪物を見上げる。
木の実に空いた空洞が、こちらを観察し続けている。
このままでは不味い。
どうにかしなければ、さもなくば――。
「もう、誰も、失いたくないんだっ……!」
体が熱くなる。
大丈夫。まだ戦える。
皆を、守るんだ。
その時だった。
木槌で、石の床を叩いたような大きな音。
突然、木の実でできた怪物の頭が、爆散した。
「っ!?」
粉々になった頭の残骸が、上から降り注ぐ、その向こう。
黒く巨大な人影が見えた。
黒くてしなやかな、身長の高い全身鎧。
宮廷騎士の鎧よりも細やかな装飾は、むやみに着飾る華美なものではなく、むしろ恐ろしさを駆り立てられる。
なにより、鎧のはずが、本物の生物の鱗のような物が所々に見える。
その鎧は、じっと怪物の死体が動かないのを確認すると、後に残った薄い布のような物を手に取った。
びり、びりりと布を細切れに破いていく。
跳ね上がったナトは、顔をしかめて両手で剣を握り構えた。
正面の黒い全身鎧を見据え、腰を落とす。
対して鎧は作業を終えると、ゆっくりとナトを見つめ返した。
その仮面の奥に素顔は見えず、塗りつぶされたように暗い。
アメリオも右手を突き出して正面に構える。
ヨルカを回収して馬のような生物に乗せたオーハンスは、緊張した面持ちでその光景を見守っていた。
「……怪我はありませんか」
野太い声が響いた。
一拍置いて、ナトが目を丸くする。
話せる。しかも、こちらの言葉を。
敵意は……わからなかった。その仮面から表情を読み取ることができない。
「……僕たちは争いを望んでいません」
「私もそのつもりです」
鎧のその言葉に、ナトはゆっくりと剣を、アメリオは右手を下ろした。
「……ところで、その子」
鎧の視線が、息の荒いヨルカに向く。
「これは不味い。あの怪物の呪いです」
「……呪い?」
「ええ。呪いです。
この先に私がお世話になっている村があります。そこで見てもらいましょう。それに……」
チラリと、後ろを振り返る黒鎧。
そこには、靡く白い布がいくつか浮かび上がり、こちらの様子を伺っている。
「また目をつけられると厄介です」
さあ、と言って、足早に進む鎧。
怪しい。そう感じて、立ち往生する三人。
しかし。
ナトは視線を向けてくる二人と
後ろの二人に頷いて見せ、彼らと共にその後に続く。
「……すみません、お世話になります」
ついてきていることを尻目に確認すると、再び前を向いて歩き出した。
「ああ、申し遅れました」
と、鎧が兜だけ振り向いた。
「私はグリーゼ。この先の村で警備をしています。よろしくおねがいします」