第9話 「アンディア」
文字数 7,154文字
どれ程の時間がたった頃だろうか。
突然、地面に放り出される。
腰を強打するも、猿轡の所為で痛いと口を動かす事もままならない。
改めて見回すと、そこが石造りの部屋だと言うことがわかる。
ローブの者たちに囲まれ、不審な動きがないように監視されている。
しばらくすると、そのうちの一人に足の拘束を慎重に外され――そしてすぐさま、右のかかとに小さな釘を打たれた。
「う――――っ!?」
猿轡の隙間から、くぐもった悲鳴が漏れる。
痛がる時間も与えないというように、ローブに無理やり立たされて歩き出す。
右足はかかとを浮かせて、踵から生えた釘から血を滴らせながら、おぼつかない足取りで歩いていく。
そうして連れて来られたのは広間だった。
赤いカーペットが引かれたその場所に、無造作に投げ出される。
やがてローブたちは去り、その場に一人きりとなる。
ゆっくりと辺りを見回す。
天井は高く、屋根が尖っている様子がわかる。
「ウル・アルヴァーナ!」
その時、扉が開け放たれる。
そこから現れたのは、豪奢な衣装に身を包んだ、腹を出した中年の男だった。
二段の顎を撫でて、やけに薄い唇で舌なめずりをする。
「……離せ」
ナトがそう言うと、少し驚いたように目を丸くした。
「おや、こちらの言葉を話すのですか」
ナトたちや老人と同じ言葉を紡ぐ男。
それを聞いてナトも驚いたように顔を上げるが、右のかかとの痛みにすぐに顔をしかめる。
しかし、と太った男は垂れたヨダレを無駄にゆとりのある豪奢な服の裾で拭う。
「良いですな、やはり子供はいいですな」
針のように逆三角となった小さな足でナトの前まで歩いてくると、その場で見下ろすように血走った眼球を向けた。
「始めまして――でもないですな。ワタクシは『アンディア』幹部、コリン・タールタールでござります」
それだけ話すと、次にカーペットに座り込んだナトを舐め回すようにじっと見つめ続ける。
口の端からよだれが垂れて、ナトの頬にかかった。
「お前が」
ナトがポツリと漏らす。
「なんでござりますかな?」
「お前が、あの子を攫ったのか……?」
その言葉を聞いて、数秒止まるコリン。
頬が高揚し、その口角が、釣り上がっていく。
「いいっ! ああ、これだから子供は良いんだぁ!!」
膨れた腕で自らの体を抱き、息を荒げてそう叫ぶ。
そして、ナトに顔を近づける。
「……昨晩は、最高でしたな」
ナトが飛び上がる。
釘の刺さったかかとが悲鳴を上げるが、厭(いと)わない。
犬歯をむき出しにしてその喉元へと襲いかかる。
しかし、次の瞬間。
大きな衝撃が背中に走り、ナトはカーペットに倒れ伏した。
「が、はっ!」
「いけませんなぁ、飼い犬は従順でなくては」
手にした鉄のメイスを手でいじりながら、嫌らしく唇を歪めてナトを見下ろすコリン。
体の奥深くまで疼(うず)く痛みに、体を震わせる。
「おっと、死なないでください。あなたに見せたいものがあるのでござりますよ」
そう言って、木の板で作られた磔台のようなものがローブたちにより運び込まれる。
そこには。
「……お前っ!!」
ナトが再び暴れだそうと体を上げるも、ローブたちに取り押さえられ、組み伏せられる。
その磔台には、手足に釘を打たれた裸の少女がぶら下がっていた。
体の各部の噛み跡と、台の上に黒く乾き固まった血液、そして虚ろな瞳意外は、比較的損傷は少ない。
「ワタクシは無駄な破壊は好まないのでござります。そのような変態では無いのでござります」
そういって、少女の近くへと歩み寄るコリン。
少女が目を覚まし、その目がこの巨体とナトを捉える。
「――――! ――――――!! ――――!!」
「ですが、ですがね」
コリンの薄く汚い唇が、少女の小さく白い小指に近づき、それを含んだ。
ビクリ、と体を震わせて、顔を青くして絶望に表情を歪ませる少女。
ナトが口を開く。
コリンの口角が上がる。
ガリ、と音がした。
「――――――――――――――――!!」
悲鳴に、地面が、空気が震える。
少女の掌から、小指が消えていた。
叫び声と共に血が吹き出す。
失ったものを見てあらん限りに叫ぶ少女の姿を見て、少年は、つっかえたように言葉を出せずにいた。
口の中でくちゃくちゃと、何かを飴玉のように舐め転がすコリンは、その表情を高揚させる。
「無駄ではない破壊は大好きなのでござりますぅぅぅぅぅ!!」
「離せぇぇっ!!」
血走った目を豚のような男へと向け、鎖を激しく鳴らしながらナトは吠える。
「ああ、子供はいいですな! 至高! 誠に至高!」
唾を撒き散らして、コリンはそう狂い叫ぶ。
そうして、
「セヴァナ・アルメール、ホセ」
コリンが異国の言葉で何事かを話す。
それを口切に、ナトの体に衝撃が走る。
ナトを組み伏せていたローブたちが、拳や足、小振りな武器をそれぞれ振り上げる。
それが、何度も、何度も。
「げほっ、がはっ!!」
蹴られ、踏まれ、殴りつけられ、
あらん限りの暴力が雨のように降り注ぐ。
「ああ、あああっ」
体を捩(よじ)り、熱く湿った息を吐くコリン。
その目がさらに充血していく。
「素晴らしいっ! 最高だァァァァ!!」
叫声が響き渡る高い天井の部屋。
そこに彼の助けとなるものは、何もなかった。
鳥小屋のように吊るされた鉄の檻。
その中で、ボロボロの姿をした少年が蹲っていた。
手は檻から外で固定され、ゆっくりと揺られながら虚空を見つめる。
――守れなかった。
その後悔の残像が、頭の中を駆け巡る。
豚男と共に部屋の奥へと消えていった、磔台の少女の姿と共に。
鉄の鎖が擦れる音が、一人しかいない広間に重く響く。
その時だった。
空気を揺らすように、部屋の扉が開く音がする。
「昨夜はよく眠れましたかな? ワタクシは快眠でござりましたよ。
柔らかい抱き枕が手に入ったのでござりましてな、至高も至高、まさに天国の――」
「黙れ。……お前はすぐ呪われて死ぬさ。そうじゃなきゃ……この世に罪人はいない」
コリンの口角が落ちる。
しかし、すぐにまた嫌らしく釣り上がり、分厚い皮膚に窪みを作る。
「ああ、お前は頑丈そうだぁ……」
ナトの入っている檻が乱暴に地面に下ろされる。
檻に対する拘束も外され、両腕を縛られたまま外に連れ出される。
弾け飛びそうなほど大きな音を立てる鎖。
庭に繋がれた番犬のように暴れ、吠える。
「――! ――――!!」
最大限の嫌悪の混じった少女の悲痛な叫び。
彼女の体を意識が遠くなるほど不快な感触が這いずり回る。
ローブの集団が小さな体を弄ぶ。透明な涙が次第に濁った液体と混ざり合い、とめどなく柔らかい頬を伝う。
体の内側に、真っ赤な炎が渦巻いている。
駆け出そうとして、つんのめる。
鎖同士がかじり合う音が痛々しく響く。
「あああっ!! これだぁ! ワタクシが求めていたのは、これなんだぁ!!」
頭を掻きむしって髪の毛を散らし、エビ反りにそう叫ぶ。
そして、肌で感じるほどの殺意を向けてくる少年へと振り向き、舌なめずりをする。
「何、今日が終わるまでは、まだまだあるのでござります。これで終わりではござりませんよ」
ナトの体の動きが止まる。その目は、僅かに震えているのがわかる。
コリンが懐から何かを取り出した。
銀色に輝くそれは、フォークと――先の鋭いナイフ。
「メインディッシュは、これからでござりますぞぉぉぉ!」
グッタリと、磔台で微かな呼吸を繰り返す少女の、柔らかな白い腹部。
そこに、鋭いナイフの先端が突き立つ。
「っ!! ――――――――!!」
今までに無い叫び声が広間を震わせる。
赤い雫が腹部と伝う。
線が、一本、また一本と増えていく。
少年の叫びは、もはや人間のそれでは無くなっていた。
洞窟の中で怪物が上げたような――そんな、絶望の声。
「ああ……子供は、最高でござりますねぇぇ!! 未成熟な物が壊れていく瞬間! 未来を奪われていくその表情! 二度と元には戻れない……ああ素晴らしい、素晴らしいいい!!」
銀の三叉が挿入される。
何かが、力任せに千切られる音。
滴る赤い水滴と共に持ち上げられたのは、赤い肉片。
薄い唇がそれを食(は)む。口角が赤い線を残して釣り上がる。
「――!! ――!! ――!! ――――――――!!」
「美味しいのでござりますぅ! 美味!! 美味!!」
黒いローブに囲まれながら、鮮血を撒き散らしてフォークが何度もそれに突き立つ。
笑う豚。次第に何かが失われていく透明な少女の瞳。
部屋に狂いたくなるような悪臭が満ちていく。
そんな中、
「イ・ルプトス……イルァ・ユル……」
そう、ポツリと。
少女の瞳がナトを捉え、
小さな唇を、微かに震わせて、
そして、色が、失われた。
鎖は少年と踊る。
彼を肴に、狂った男は血を啜る。
そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
異様な程静かな部屋の中に、ムラを生むような男の下卑た笑い声と、軽い金属音が響く。
「……おほっ」
コリンの赤黒く染まった体が震え出す。
「おほっ……おほほっ」
体を抱いて、体を捩(よじ)らせながら抑えるように悶える豚のような男。
「さあ……順番がやってきましたよ」
横に広い巨躯が、少年の前に立つ。
項垂れて、ピクリとも動かない少年を見て、コリンの吐く息の湿り気が増していく。
「あなたがワタクシの部下にした事は聞き及んでござります。……それが本当でしたら、仕方がありませぬな」
銀色の三叉が、振り上げられる。
そして、それは少年の背中に真っ直ぐと落ちていった。
「――っ!!」
根元まで、音も立てずに飲み込んだ。
少年が体を震わせるのを見て、コリンは頬を朱に染めた。
「わ、ワタクシは準備をしてくるのでござりますっ!! 少しだけ、ほんの少しだけ待つのでござりますぅぅっ!!」
「ツヴァ!」と部下に短く命令をして、鼻息荒く部屋を急いで去っていく。
ナトは猿轡をされ、手足を再度キツく拘束された。
拘束を進める中で、ローブの一人が、少年の表情を覗き込む。
そこには。その少年の瞳には。
深海よりも暗く落ちる影の中で、淀んだ光が揺れていた。
その時だった。
広間に、慌ただしい騒音が響く。
ローブたちは手を止め、一斉に顔を上げた。
それは、ナトが入ってきた入り口につながる通路。
騒音が静まり、その大扉がゆっくりと開く。
そこから現れたのは、牧場の生物に乗った少年と、二人の少女だった。
「大丈夫か、ナト!!」
三人が扉を超えて進出してくる。
それに対して、ローブの男たちは腰から鋭いナイフを抜き放つが、
その直後に全員まとめて大きな質量に突き飛ばされたように、部屋の奥まで吹き飛んで動かなくなった。
右手を突き出しているアメリオが、得意そうに鼻を鳴らした。
「ふぅ……それで、なに、この匂い」
「とても臭いです……うっ」
赤い髪の少女は少し疲れの見える顔をしかめ、もう一人の少女は顔を青くして口元を押さえた。
「……守れなかった」
ポツリと、ナトがそう零した。
瞳から、涙が一筋流れる。
「ごめん」
そう言って俯く。
オーハンスはその生物から降りて、ナトへ近づいていく。
そして、その痛々しい姿に目を伏せながら、一つ一つ拘束を外していった。
背中に突き立った食器も、痛々しく見つめながら、躊躇いつつも引き抜いく。
軽い飛沫が飛んで、床に音を立てて落ちる。
空いた三つの小さな穴は、ナトの衣服を赤く濡らしていった。
「おい、何されたんだ。一体……」
その言葉に、ナトは静かに目線を上げる。
それを追ったオーハンスは、思わず口を抑え、えずいた。
磔台に爛(ただ)れる赤黒いその肉塊は時折痙攣しながら、血を垂れ流している。
原型をとどめないそれが何であったのかなど、彼らにとって想像に難くない事だった。
ましてや、この少年の今の姿を見ては。
「う、嘘……」
「っ……」
足の力が抜けたように地面に座り込むヨルカ。
アメリオは、その瞳の輝きに鋭さを伴わせる。
そして、扉が再び開いた。
そこから出てきたのは、様々な拷問道具を抱えた、豚のような容姿の男だ。
「さあ、始めま…………な、なななななな!?」
手に持つ道具を大きな音を立てて取り落すコリン。
脂ぎった頰を抑えて小刻みに震える。
一人一人、舐めるように見渡す。
そして、その視線が横に逸れるたびに、その顔に喜色が浮かぶ。
「子供が、子供がこんなにも……素晴らしきかな! ああ、素晴らしきかな!!」
前のめりに鼻息を荒くするコリンだったが、ふと、その顔から表情が抜け落ち、次第に驚きへと変わる。
「……はて、何故あなた様がここに居るのでござりますか?」
間の抜けたような表情で、そう問いかけるコリン。
その視線の先には、首をかしげる赤い髪を持つ少女がいる。
「誰? 私、あなたに会った事無いわ」
「そうでしょうな。しかし、予定より大分お早い。そのお三方が運んでくださったのでござりますかな? しかし――神子様、お一人でないと困るのでござります」
ちらり、とヨルカとオーハンスを見て、それから涎(よだれ)を垂らす。
「……見るな」
拘束を外されたナトが、踵(かかと)の釘を抜いて、鮮血をカーペットに残して立ち上がる。
「俺の仲間を、見るな」
「わかっているのでござりますよ、先(ま)ずはあなたから、そして――」
少年の足は地面を蹴った。
風を切って、目にも留まらぬ速さで、倒れたローブの腰からナイフを抜き放つ。
餓狼のように、湧き上がる感情をその目に映し、疾走する。
気がつけば、肥満の男と少年のとの距離は、人一人分すら無かった。
腰だめに構えられた鋭い切っ先が、脂肪で包まれた左胸を捉える。
その刹那。
ゴン、と鈍い音がする。
メイスの先端が、地面を叩いていた。
ナトの目の前の景色が歪む。
僅かに風が揺れるのを、肌で感じる。
弾けるような音がした。
無色の、圧倒的質量。
コリンから外側へと向けて、透明な衝撃波が拡散していく。
凄まじい音を立てて床のタイルが衝撃で剥がれ、辺りに飛び散る。
それを正面から受け止める結果となったナトは、
ナイフを持つ腕が伸びきることは無く、勢いよく真後ろに吹き飛んだ。
「がっ、ぁっ……!」
「ナト!!」
何度か地面を跳ねて、カーペットの上に倒れ伏す。
体が、痺れるように痛い。
軋む体に鞭を打って、正面の男を睨みながら、膝を踏ん張り立ち上がる。
痛みに視線を向ければ、ナイフを握る弾かれた腕、その皮の表面が破れていた。
血が滲み出して、拳に流れ滴る。
「なんだ、あれ……何かに似てるような……」
過去の記憶を辿るオーハンス。
そして、赤い髪の少女が、洞窟の中で使っていた「魔法」を思い出す。
「マリー、い、今のも魔法か!?」
「わからないわ!」
眼の前の男は再びメイスを振るう。
鉄の塊が大きな音を立てて空気を叩き、巻き込むような衝撃波が、音を立ててナトの眼の前の床に直撃した。
床が大きく破壊され、石の破片が飛び散る。
余波の爆風を腕で防ぎながら、ナトは男を睨みつけた。
「――『狂気の鬼槌』」
ふと、ナトの口からそんな言葉が漏れた。
その後にふと正気に戻り、自分の言葉の意味に眉をひそめた。
「――あっ」
ヨルカが、何かに気が付いたように声を上げる。
「あの武器に彫られている文様……見覚えがあります!」
「文様……?」
オーハンスがその銀色のメイスを見やる。
そこには、炎と剣を象った彫刻が施されている。
「あれは確か、屋敷に飾ってあった、お父さんの魔導具に付いていたのと同じものです!」
コリンはメイスをねっとりと撫でながら、笑みを深める。
「そう、これは大司教様より頂いた、魔法のメイス……我が宝にござりますぅぅ!!」
二度、そのメイスが音を立てて空を切る。
咄嗟に、ナトは横に飛び退いた。
一つの衝撃波は、一瞬前にナトが居た地面を粉砕する。
そして、もう一つは――。
その衝撃に、ナトの体がくの字に曲がって飛んでいく。
そして、壁に強く叩きつけられ、そのまま地面に落ちた。
「な、ナトさん!!」
ヨルカの叫びが広間に響く。
それに反応するように少年は、ピクリと痙攣すると、平衡感覚を失ったように、それでもしっかりと地面に足を立てた。
「いーひっひっひっひ! おほ、おほほぉっ!!」
白目を剥いてブルブルと震えながら、絞り出すような笑い声がナトの耳に届いた。
耳の奥まで届いて、頭の中に毒を塗るような、そんな嫌な笑い声だった。
目の前が揺れる。
映る豚男の姿が、霞むように薄れていく。
突然、地面に放り出される。
腰を強打するも、猿轡の所為で痛いと口を動かす事もままならない。
改めて見回すと、そこが石造りの部屋だと言うことがわかる。
ローブの者たちに囲まれ、不審な動きがないように監視されている。
しばらくすると、そのうちの一人に足の拘束を慎重に外され――そしてすぐさま、右のかかとに小さな釘を打たれた。
「う――――っ!?」
猿轡の隙間から、くぐもった悲鳴が漏れる。
痛がる時間も与えないというように、ローブに無理やり立たされて歩き出す。
右足はかかとを浮かせて、踵から生えた釘から血を滴らせながら、おぼつかない足取りで歩いていく。
そうして連れて来られたのは広間だった。
赤いカーペットが引かれたその場所に、無造作に投げ出される。
やがてローブたちは去り、その場に一人きりとなる。
ゆっくりと辺りを見回す。
天井は高く、屋根が尖っている様子がわかる。
「ウル・アルヴァーナ!」
その時、扉が開け放たれる。
そこから現れたのは、豪奢な衣装に身を包んだ、腹を出した中年の男だった。
二段の顎を撫でて、やけに薄い唇で舌なめずりをする。
「……離せ」
ナトがそう言うと、少し驚いたように目を丸くした。
「おや、こちらの言葉を話すのですか」
ナトたちや老人と同じ言葉を紡ぐ男。
それを聞いてナトも驚いたように顔を上げるが、右のかかとの痛みにすぐに顔をしかめる。
しかし、と太った男は垂れたヨダレを無駄にゆとりのある豪奢な服の裾で拭う。
「良いですな、やはり子供はいいですな」
針のように逆三角となった小さな足でナトの前まで歩いてくると、その場で見下ろすように血走った眼球を向けた。
「始めまして――でもないですな。ワタクシは『アンディア』幹部、コリン・タールタールでござります」
それだけ話すと、次にカーペットに座り込んだナトを舐め回すようにじっと見つめ続ける。
口の端からよだれが垂れて、ナトの頬にかかった。
「お前が」
ナトがポツリと漏らす。
「なんでござりますかな?」
「お前が、あの子を攫ったのか……?」
その言葉を聞いて、数秒止まるコリン。
頬が高揚し、その口角が、釣り上がっていく。
「いいっ! ああ、これだから子供は良いんだぁ!!」
膨れた腕で自らの体を抱き、息を荒げてそう叫ぶ。
そして、ナトに顔を近づける。
「……昨晩は、最高でしたな」
ナトが飛び上がる。
釘の刺さったかかとが悲鳴を上げるが、厭(いと)わない。
犬歯をむき出しにしてその喉元へと襲いかかる。
しかし、次の瞬間。
大きな衝撃が背中に走り、ナトはカーペットに倒れ伏した。
「が、はっ!」
「いけませんなぁ、飼い犬は従順でなくては」
手にした鉄のメイスを手でいじりながら、嫌らしく唇を歪めてナトを見下ろすコリン。
体の奥深くまで疼(うず)く痛みに、体を震わせる。
「おっと、死なないでください。あなたに見せたいものがあるのでござりますよ」
そう言って、木の板で作られた磔台のようなものがローブたちにより運び込まれる。
そこには。
「……お前っ!!」
ナトが再び暴れだそうと体を上げるも、ローブたちに取り押さえられ、組み伏せられる。
その磔台には、手足に釘を打たれた裸の少女がぶら下がっていた。
体の各部の噛み跡と、台の上に黒く乾き固まった血液、そして虚ろな瞳意外は、比較的損傷は少ない。
「ワタクシは無駄な破壊は好まないのでござります。そのような変態では無いのでござります」
そういって、少女の近くへと歩み寄るコリン。
少女が目を覚まし、その目がこの巨体とナトを捉える。
「――――! ――――――!! ――――!!」
「ですが、ですがね」
コリンの薄く汚い唇が、少女の小さく白い小指に近づき、それを含んだ。
ビクリ、と体を震わせて、顔を青くして絶望に表情を歪ませる少女。
ナトが口を開く。
コリンの口角が上がる。
ガリ、と音がした。
「――――――――――――――――!!」
悲鳴に、地面が、空気が震える。
少女の掌から、小指が消えていた。
叫び声と共に血が吹き出す。
失ったものを見てあらん限りに叫ぶ少女の姿を見て、少年は、つっかえたように言葉を出せずにいた。
口の中でくちゃくちゃと、何かを飴玉のように舐め転がすコリンは、その表情を高揚させる。
「無駄ではない破壊は大好きなのでござりますぅぅぅぅぅ!!」
「離せぇぇっ!!」
血走った目を豚のような男へと向け、鎖を激しく鳴らしながらナトは吠える。
「ああ、子供はいいですな! 至高! 誠に至高!」
唾を撒き散らして、コリンはそう狂い叫ぶ。
そうして、
「セヴァナ・アルメール、ホセ」
コリンが異国の言葉で何事かを話す。
それを口切に、ナトの体に衝撃が走る。
ナトを組み伏せていたローブたちが、拳や足、小振りな武器をそれぞれ振り上げる。
それが、何度も、何度も。
「げほっ、がはっ!!」
蹴られ、踏まれ、殴りつけられ、
あらん限りの暴力が雨のように降り注ぐ。
「ああ、あああっ」
体を捩(よじ)り、熱く湿った息を吐くコリン。
その目がさらに充血していく。
「素晴らしいっ! 最高だァァァァ!!」
叫声が響き渡る高い天井の部屋。
そこに彼の助けとなるものは、何もなかった。
鳥小屋のように吊るされた鉄の檻。
その中で、ボロボロの姿をした少年が蹲っていた。
手は檻から外で固定され、ゆっくりと揺られながら虚空を見つめる。
――守れなかった。
その後悔の残像が、頭の中を駆け巡る。
豚男と共に部屋の奥へと消えていった、磔台の少女の姿と共に。
鉄の鎖が擦れる音が、一人しかいない広間に重く響く。
その時だった。
空気を揺らすように、部屋の扉が開く音がする。
「昨夜はよく眠れましたかな? ワタクシは快眠でござりましたよ。
柔らかい抱き枕が手に入ったのでござりましてな、至高も至高、まさに天国の――」
「黙れ。……お前はすぐ呪われて死ぬさ。そうじゃなきゃ……この世に罪人はいない」
コリンの口角が落ちる。
しかし、すぐにまた嫌らしく釣り上がり、分厚い皮膚に窪みを作る。
「ああ、お前は頑丈そうだぁ……」
ナトの入っている檻が乱暴に地面に下ろされる。
檻に対する拘束も外され、両腕を縛られたまま外に連れ出される。
弾け飛びそうなほど大きな音を立てる鎖。
庭に繋がれた番犬のように暴れ、吠える。
「――! ――――!!」
最大限の嫌悪の混じった少女の悲痛な叫び。
彼女の体を意識が遠くなるほど不快な感触が這いずり回る。
ローブの集団が小さな体を弄ぶ。透明な涙が次第に濁った液体と混ざり合い、とめどなく柔らかい頬を伝う。
体の内側に、真っ赤な炎が渦巻いている。
駆け出そうとして、つんのめる。
鎖同士がかじり合う音が痛々しく響く。
「あああっ!! これだぁ! ワタクシが求めていたのは、これなんだぁ!!」
頭を掻きむしって髪の毛を散らし、エビ反りにそう叫ぶ。
そして、肌で感じるほどの殺意を向けてくる少年へと振り向き、舌なめずりをする。
「何、今日が終わるまでは、まだまだあるのでござります。これで終わりではござりませんよ」
ナトの体の動きが止まる。その目は、僅かに震えているのがわかる。
コリンが懐から何かを取り出した。
銀色に輝くそれは、フォークと――先の鋭いナイフ。
「メインディッシュは、これからでござりますぞぉぉぉ!」
グッタリと、磔台で微かな呼吸を繰り返す少女の、柔らかな白い腹部。
そこに、鋭いナイフの先端が突き立つ。
「っ!! ――――――――!!」
今までに無い叫び声が広間を震わせる。
赤い雫が腹部と伝う。
線が、一本、また一本と増えていく。
少年の叫びは、もはや人間のそれでは無くなっていた。
洞窟の中で怪物が上げたような――そんな、絶望の声。
「ああ……子供は、最高でござりますねぇぇ!! 未成熟な物が壊れていく瞬間! 未来を奪われていくその表情! 二度と元には戻れない……ああ素晴らしい、素晴らしいいい!!」
銀の三叉が挿入される。
何かが、力任せに千切られる音。
滴る赤い水滴と共に持ち上げられたのは、赤い肉片。
薄い唇がそれを食(は)む。口角が赤い線を残して釣り上がる。
「――!! ――!! ――!! ――――――――!!」
「美味しいのでござりますぅ! 美味!! 美味!!」
黒いローブに囲まれながら、鮮血を撒き散らしてフォークが何度もそれに突き立つ。
笑う豚。次第に何かが失われていく透明な少女の瞳。
部屋に狂いたくなるような悪臭が満ちていく。
そんな中、
「イ・ルプトス……イルァ・ユル……」
そう、ポツリと。
少女の瞳がナトを捉え、
小さな唇を、微かに震わせて、
そして、色が、失われた。
鎖は少年と踊る。
彼を肴に、狂った男は血を啜る。
そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
異様な程静かな部屋の中に、ムラを生むような男の下卑た笑い声と、軽い金属音が響く。
「……おほっ」
コリンの赤黒く染まった体が震え出す。
「おほっ……おほほっ」
体を抱いて、体を捩(よじ)らせながら抑えるように悶える豚のような男。
「さあ……順番がやってきましたよ」
横に広い巨躯が、少年の前に立つ。
項垂れて、ピクリとも動かない少年を見て、コリンの吐く息の湿り気が増していく。
「あなたがワタクシの部下にした事は聞き及んでござります。……それが本当でしたら、仕方がありませぬな」
銀色の三叉が、振り上げられる。
そして、それは少年の背中に真っ直ぐと落ちていった。
「――っ!!」
根元まで、音も立てずに飲み込んだ。
少年が体を震わせるのを見て、コリンは頬を朱に染めた。
「わ、ワタクシは準備をしてくるのでござりますっ!! 少しだけ、ほんの少しだけ待つのでござりますぅぅっ!!」
「ツヴァ!」と部下に短く命令をして、鼻息荒く部屋を急いで去っていく。
ナトは猿轡をされ、手足を再度キツく拘束された。
拘束を進める中で、ローブの一人が、少年の表情を覗き込む。
そこには。その少年の瞳には。
深海よりも暗く落ちる影の中で、淀んだ光が揺れていた。
その時だった。
広間に、慌ただしい騒音が響く。
ローブたちは手を止め、一斉に顔を上げた。
それは、ナトが入ってきた入り口につながる通路。
騒音が静まり、その大扉がゆっくりと開く。
そこから現れたのは、牧場の生物に乗った少年と、二人の少女だった。
「大丈夫か、ナト!!」
三人が扉を超えて進出してくる。
それに対して、ローブの男たちは腰から鋭いナイフを抜き放つが、
その直後に全員まとめて大きな質量に突き飛ばされたように、部屋の奥まで吹き飛んで動かなくなった。
右手を突き出しているアメリオが、得意そうに鼻を鳴らした。
「ふぅ……それで、なに、この匂い」
「とても臭いです……うっ」
赤い髪の少女は少し疲れの見える顔をしかめ、もう一人の少女は顔を青くして口元を押さえた。
「……守れなかった」
ポツリと、ナトがそう零した。
瞳から、涙が一筋流れる。
「ごめん」
そう言って俯く。
オーハンスはその生物から降りて、ナトへ近づいていく。
そして、その痛々しい姿に目を伏せながら、一つ一つ拘束を外していった。
背中に突き立った食器も、痛々しく見つめながら、躊躇いつつも引き抜いく。
軽い飛沫が飛んで、床に音を立てて落ちる。
空いた三つの小さな穴は、ナトの衣服を赤く濡らしていった。
「おい、何されたんだ。一体……」
その言葉に、ナトは静かに目線を上げる。
それを追ったオーハンスは、思わず口を抑え、えずいた。
磔台に爛(ただ)れる赤黒いその肉塊は時折痙攣しながら、血を垂れ流している。
原型をとどめないそれが何であったのかなど、彼らにとって想像に難くない事だった。
ましてや、この少年の今の姿を見ては。
「う、嘘……」
「っ……」
足の力が抜けたように地面に座り込むヨルカ。
アメリオは、その瞳の輝きに鋭さを伴わせる。
そして、扉が再び開いた。
そこから出てきたのは、様々な拷問道具を抱えた、豚のような容姿の男だ。
「さあ、始めま…………な、なななななな!?」
手に持つ道具を大きな音を立てて取り落すコリン。
脂ぎった頰を抑えて小刻みに震える。
一人一人、舐めるように見渡す。
そして、その視線が横に逸れるたびに、その顔に喜色が浮かぶ。
「子供が、子供がこんなにも……素晴らしきかな! ああ、素晴らしきかな!!」
前のめりに鼻息を荒くするコリンだったが、ふと、その顔から表情が抜け落ち、次第に驚きへと変わる。
「……はて、何故あなた様がここに居るのでござりますか?」
間の抜けたような表情で、そう問いかけるコリン。
その視線の先には、首をかしげる赤い髪を持つ少女がいる。
「誰? 私、あなたに会った事無いわ」
「そうでしょうな。しかし、予定より大分お早い。そのお三方が運んでくださったのでござりますかな? しかし――神子様、お一人でないと困るのでござります」
ちらり、とヨルカとオーハンスを見て、それから涎(よだれ)を垂らす。
「……見るな」
拘束を外されたナトが、踵(かかと)の釘を抜いて、鮮血をカーペットに残して立ち上がる。
「俺の仲間を、見るな」
「わかっているのでござりますよ、先(ま)ずはあなたから、そして――」
少年の足は地面を蹴った。
風を切って、目にも留まらぬ速さで、倒れたローブの腰からナイフを抜き放つ。
餓狼のように、湧き上がる感情をその目に映し、疾走する。
気がつけば、肥満の男と少年のとの距離は、人一人分すら無かった。
腰だめに構えられた鋭い切っ先が、脂肪で包まれた左胸を捉える。
その刹那。
ゴン、と鈍い音がする。
メイスの先端が、地面を叩いていた。
ナトの目の前の景色が歪む。
僅かに風が揺れるのを、肌で感じる。
弾けるような音がした。
無色の、圧倒的質量。
コリンから外側へと向けて、透明な衝撃波が拡散していく。
凄まじい音を立てて床のタイルが衝撃で剥がれ、辺りに飛び散る。
それを正面から受け止める結果となったナトは、
ナイフを持つ腕が伸びきることは無く、勢いよく真後ろに吹き飛んだ。
「がっ、ぁっ……!」
「ナト!!」
何度か地面を跳ねて、カーペットの上に倒れ伏す。
体が、痺れるように痛い。
軋む体に鞭を打って、正面の男を睨みながら、膝を踏ん張り立ち上がる。
痛みに視線を向ければ、ナイフを握る弾かれた腕、その皮の表面が破れていた。
血が滲み出して、拳に流れ滴る。
「なんだ、あれ……何かに似てるような……」
過去の記憶を辿るオーハンス。
そして、赤い髪の少女が、洞窟の中で使っていた「魔法」を思い出す。
「マリー、い、今のも魔法か!?」
「わからないわ!」
眼の前の男は再びメイスを振るう。
鉄の塊が大きな音を立てて空気を叩き、巻き込むような衝撃波が、音を立ててナトの眼の前の床に直撃した。
床が大きく破壊され、石の破片が飛び散る。
余波の爆風を腕で防ぎながら、ナトは男を睨みつけた。
「――『狂気の鬼槌』」
ふと、ナトの口からそんな言葉が漏れた。
その後にふと正気に戻り、自分の言葉の意味に眉をひそめた。
「――あっ」
ヨルカが、何かに気が付いたように声を上げる。
「あの武器に彫られている文様……見覚えがあります!」
「文様……?」
オーハンスがその銀色のメイスを見やる。
そこには、炎と剣を象った彫刻が施されている。
「あれは確か、屋敷に飾ってあった、お父さんの魔導具に付いていたのと同じものです!」
コリンはメイスをねっとりと撫でながら、笑みを深める。
「そう、これは大司教様より頂いた、魔法のメイス……我が宝にござりますぅぅ!!」
二度、そのメイスが音を立てて空を切る。
咄嗟に、ナトは横に飛び退いた。
一つの衝撃波は、一瞬前にナトが居た地面を粉砕する。
そして、もう一つは――。
その衝撃に、ナトの体がくの字に曲がって飛んでいく。
そして、壁に強く叩きつけられ、そのまま地面に落ちた。
「な、ナトさん!!」
ヨルカの叫びが広間に響く。
それに反応するように少年は、ピクリと痙攣すると、平衡感覚を失ったように、それでもしっかりと地面に足を立てた。
「いーひっひっひっひ! おほ、おほほぉっ!!」
白目を剥いてブルブルと震えながら、絞り出すような笑い声がナトの耳に届いた。
耳の奥まで届いて、頭の中に毒を塗るような、そんな嫌な笑い声だった。
目の前が揺れる。
映る豚男の姿が、霞むように薄れていく。