第38話 「霧の中で 下」

文字数 3,900文字

「ぅぷっ……ゲホッ」

 口から吐き出されたのは、真っ赤な色をした液体だった。
 それが滴り、地面に薔薇を咲かせる。

「ごめん、なさい……」

 アメリオは顔色を悪くしながら、ナトに向かって、ぎこちなく微笑みかけた。
 彼女の腹を突き破る黒いそれは、徐々にその太さを増していく。

「あっ、ぐ、うぅ……」

 傷口が痛々しく広がる。
 血が溢れ、赤い泡を作った。

「離せええええっ!!」

 爆発のような水しぶき。
 一瞬でアメリオの元へ迫ったナトは、目にも留まらぬ早さで淡い青を纏う銅色の刃を振るった。
 そして、切断された触手からアメリオを引っ張り出した。

 岸辺に上がり、アメリオを寝かせる。
 穴の空いた赤く染まる服をはだけると、そこには手首ほどの大きさの穴が開いていた。

「マリー……」
「だい、じょうぶ、とんでもなく、痛いけれど、まだ……」

 そこまで言葉を綴り、込み上げてきた何かにより咳き込んでしまう。
 ナトの顔に赤い飛沫が飛ぶ。

「ごめん、なさい……汚しちゃった、わ……」

 ナトは彼女を見つめていた。
 既に目の焦点は合っていない。
 子供の体でこの傷だ、放っておいたら長くは持たない。

「守るって、言ったじゃないか……っ!」

 自分自身を責め立てあるように、歯を噛み締めて音が出るほど剣の柄を握る。
 そして、一度、大きく息を吸って、吐き出し、

「……わかったよ、マリー」

 立ち上がって、目をつぶり、そして見開いて現れた瞳に黒い炎を灯して、空気を切るように振り向いた。
 怪物が変化した黒い塊は、岸辺に突き刺した触手を支えに、その体を持ち上げていた。
 次第にそれが割れて剥がれ落ち、中身が姿を現す。

 ――それはまるで、蝶のようだった。
 黒くぬらぬらとした羽、長い触覚に丸まった口元の細長い口。
 しかし飛行能力は無いのか、身体中から生えた触手のみで体重を支ているかのように、不恰好にバタバタと黒い粘液の羽で虚空を叩いている。

 怪物の体から、黒い繊維状の物が剥がれ落ちるように分離した。
 それが、怪物が羽をもって起こした風に乗り、空から舞うように、何本も重なり合って落ちてくる。

 ――触れちゃ、だめだ!

 アメリオを背に、剣を構えて立ちはだかる。
 二人を目掛けて降ってきた黒い紐を剣で薙ぐと、ふわりと、絹よりも軽いものであるかのように、剣に纏わりつく。
 鬱陶しいと、軌跡を重ねるように、視界を塞ぐそれを対処する。

 地面に倒れるアメリオの傍らに落ちた黒い繊維が、煙を上げて地面を焼いた。
 やはり、とても触れられるような物ではないらしい。
 つまり。

「はぁっ」

 一度、短く息を吐く。
 変化した蝶の怪物も、既にこちらを獲物として捉えている。
 狩るか、狩られるか。

「どちらにしても……引くわけにはいかない」

 そう言って、一歩、川の中へと踏み込んだ――その時だった。

 浮かぶ怪物の正面、パラパラと、何かが空を舞った。
 それは、細切れになった葉や、細かい砂や小石のようなものだった。
 
 少し遅れて、大きな影が現れる。
 黒光りする細身の甲冑。
 手には、火打ち石を握っていた。

「グリーゼ……?」
「ナト、伏せろ!!」

 その声の方向を見ると、岸辺近くの丘から見下ろす、マイクの背に乗ったオーハンスと、
 袋の中を弄り、その中身を投げるヨルカが居た。
 その直後、

 グリーゼの籠手の親指と人差し指の先端が、逆の手に持つ石と擦り合う。
 赤い線が空を走り、そのうちの一つが、中を舞う細々としたそれに引火する。

 爆音。
 煙と共に爆炎が巻き起こり、怪物とグリーゼを巻き込む。
 猛烈な風がナトの体を叩き、川の水は暴れ、白い飛沫がいくつも上がった。

「これは……っ!?」

 
 やがて、煙の中から何かが落ちてきた。
 それは、手足がおかしな方向に曲がった、血まみれのグリーゼだった。

「――ッ!?」

 大きな音を立てて川に落ちていく彼女を見て、ナトは急いで駆け寄る。
 息を呑む。
 とんでもない大怪我だった。

 鋼鉄のような素材でできている鎧に守られているはずが、その継ぎ目の隙間から赤い液体が大量に川へと流れ出している。
 手と足の関節も、曲がっては行けない方向へ無茶苦茶に曲がり、痛々しいで済む程度のものでは無かった。

 だが、次の瞬間、ナトは目を疑った。
 何か硬いものが外れるような、嫌な音が響く。
 それは、グリーゼの体の中からだった。

 次に、肉が引きちぎれるような音が続き、そしてグリーゼの体の関節が元の位置へと戻っていく。
 そして、それがしばらく続いたかと思えば、既に出血も治まった、無傷のグリーゼがそこにはいた。

「申し訳ありません、ナト。びっくりさせてしまいましたね」
「い、いや……」

 手をついて立ち上がりながら、何事もなかったかのように言葉を話すグリーゼ。
 あまりの光景に言葉を失っていたナトには、それしか返すことが出来なかった。
 そういえば、と、昨日の真夜中に言っていたことを思い出す。
 『人じゃない』。
 つまり、これが、そういうことなのか?

 ……いや、今はそうじゃない。

 視線を空へ向けて睨みつける。
 爆発を受けた怪物は、多少体が崩れていたが、しかしながら未だになんともないように動いていた。
 やはり、物理的な方法では足止め程度にしかならない。

 ナトは両手の剣とナイフを川の水に浸すと、強く地面を蹴って飛び上がった。
 地面が遠くなり、すぐに人の見ることのできない景色が現れた。
 代わりに迫るのは、形を崩した怪物の腹。

「ふっ!」

 ナイフと剣が青い十字の軌跡を残す。
 水に濡れた刃は確かに怪物を少し傷つけたようで、黒い粘液でできたのようなその体に薄く十字の傷を残した。
 しかし。

 川の水を巻き上げて着地、降り注ぐ水を浴びながらナトは考える。
 ダメージが薄い。
 これでは、キリがない。

 ナトが歯噛みをしていると、後ろで動く気配がした。
 アメリオが、苦痛に脂汗をかいた顔を歪めながら、焦点の定まらない瞳でこちらを見ていた。

「だい、じょうぶ、よ」
「マリー、動いちゃ……」
「わたし、できる、わ……」

 アメリオは、体を引きずるように川の方へと這いずっていく。
 地面にはべっとりと血の跡が残り、それを見てナトが引き留めようとした、その時だった。

 赤い髪の少女は、その白く小さな手を空へと向けた。
 その先にいるのは、黒い蝶の怪物。

「……墜ちて」

 彼女の、消えそうな声の号令。
 その瞬間、川から幾つもの水の渦が立ち上がる。

「やめるんだ!!」

 ナトが叫ぶ。
 しかし、その現象は止まる様子はない。
 その渦はその頂点は、アメリオの掌へと収束していく。

 そして。

 溢れ出す濁流。
 巨大な水鉄砲が、空に向けて発射された。

 水飛沫で辺りを水浸しにしながら、それは怪物を直撃した。
 一瞬だった。水と泡の柱が怪物を穿つ。
 そして、体の中心を貫かれた怪物は、原型を留めてはいられず、すぐに溶け出して川に落ちた。

 怪物の断末魔は聞こえなかった。
 それが上がる間もなく、死んでいった。

 ナトは、喉になにか詰まったように何も言えなくなっていた。
 予想以上だった。
 予想以上に、それは恐ろしいものだと理解してしまった。

「っ!」

 しかし、すぐに気がつく。
 赤い髪を地面に広げて倒れる少女。
 アメリオの意識が、無い。

「オルフ!」
「お、おうっ!」

 友人の名を呼びながら、青い光の霧散する剣とナイフを腰に差し戻すと、ナトは腹に穴を開けた少女を見た。
 しかし、こんな時だというのに、不思議と気がついてしまった。

 違和感を覚えるほど、血による汚れが全くなかった。
 血液は地面にくっきりと跡を残しているが、彼女の肌にはそれがなかった。
 ただ、丸い穴からは貫かれた臓器と、雨の日の小川のように綺麗に流れ出る血液がよく見えた。

 ――自分が、怖い。
 彼女の言葉が反芻して、喉の辺りで渦巻いた。

 いや。
 彼女は、人だ。

 ナトはオーハンスから受け取った布を受け取って、止血を始めた。
 いくらかダメになるかもしれないが、仕方がない。
 気を利かせて革袋に水を汲んできたグリーゼと、涙で瞳を濡らすヨルカがそれを見守る。

 深い霧の中は、五人を包み込む。
 嘲るような鐘の音が、深い白の中に響き渡った。





 五人が移動して、しばらく経過した川辺。
 少女の流した血の水溜りに、小さな生物が集まっていた。
 その鼠のような獣――鐘の鳴る地に生ける原生生物たちは、細長い管を口から伸ばして、赤い体液を一心不乱にすすっている。

 そして、突然。
 暖かいに水に氷を落としたような、そんな音。

 獣たちは、一斉に顔を上げ、そして警戒して離れようとした。
 だが、意思に反して、体は動かなかった。
 いや、違う。

 管を突き刺した血溜まり。
 そこから、抜けない。

 音が連なる。
 ただの血溜まりだったそれが、次第に質量を増していく。
 それによって、管を固定されたその獣たちは引き込まれていく。

 やがて。
 その川辺には、不相応な宝石の塊が鎮座していた。
 辺りの木々の樹液のように、その内部に小動物を閉じ込めた、赤く輝く宝石が。
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