第56話 「モルキアの怒り」

文字数 4,338文字

 怪物と思しき影が、後ろから迫ってくる。
 距離はある。しかし、このままでは接近されるのも時間の問題だ。

「どうする……?」

 ナトが額に手を当て解決策を見出そうとしているその時、
 アメリオが、不安定に揺れる船の上に立ち上がった。
 右腕を構え、視線を追ってくる怪物に固定させる。

「何をしているんだ!」
「魔法よ。追い払うわ!」
「駄目だ! 魔法は使わせない!!」

 アメリオの右手を引き、座らせようと試みるナト。
 しかし、アメリオもそれに抵抗し、踏ん張り合いになったところに――一段と強い揺れが訪れる。

「危ないっ! ……二人とも、言い争いはやめなさい」

 ナトがアメリオを舟に押し倒したのを、グリーゼがまとめて抱きとめた。
 両手を押さえつけるナトは、赤い髪の少女と至近距離で見つめ合う。

「今ここで、魔法を使う以外に追い払う方法があるかしら」
「……考える」
「駄目よ。その間に追いつかれちゃうわ」

 そう言って、その強い力がこもる瞳が、ナトに語りかける。

「『魔法』は私から『人間』を奪っていくけど……あなただって、私達を守ろうとして自分を犠牲にしているわ。
 自分勝手には使わないわ。必要な時だけ……今この時がそうなのよ。
 お願い、ナト。魔法を使わせて」

 グリーゼの腕の中で見つめ合う二人。
 ナトの拘束が緩んだところで、アメリオは項垂れる彼を見ながら立ち上がった。

「私を引き換えにする、大事な一撃よ……外さないわ」

 アメリオが構えた指の隙間から怪物を捉える。
 次の瞬間、空気が歪んだ。
 それだけではない。川の水が渦を巻いて立ち上がり――それは雨水をも巻き込んで、彼女の掌の前に収束し始める。

「これが……」
「改めて見ると……すごい、ですね……」

 怪物の影が、遂に船に追いついた。
 次第に水面が膨れ上がり、それが姿を現そうとしたその時、

「いっけえええええええ!!」

 大量の水が、川を遡って怪物を襲う。
 衝撃で舟が揺れ、反動で体制の崩れたアメリオをグリーゼが支えた。
 ナトはヨルカを押さえながら船底に屈み、舟の安定を待つ。

 狙い通りしっかりと命中した『魔法』は、怪物を上流へと押し流した。
 各々(おのおの)は大量の水飛沫を浴びてびしょ濡れだが、訪れた一時(ひととき)に、誰ともなくため息が漏れる。

「……気を抜いてはいけません。いずれあの謎の怪物は私達に追いついてくるでしょう」
「ど、どうすれば……」
「大丈夫よ、まだ魔法は撃てるわ!」

 そういう問題ではない――もちろん、そんなことはアメリオ自身にも分かっていた。
 しかし、その心強い言葉は、か細いながらも皆の心の支えとなった。
 ただ一人、ナトを除いて。

「ナト、そんなに張り詰めてたらほっぺたの皮が張り裂けちゃうわ。きっとどうにかなるわよ!」
「……どうにかなるんじゃない、するんだ」

 少年は必死に知略を巡らせていた。
 彼女に語ったあの言葉に責任を持った以上、もう魔法の使用は避けなければならない。
 何かあるはずだ、何か――。

「グリーゼ、この川の速さだと、最低どれくらいで橋につく?」

 橋――モルキア川を渡航するために、先住民が残した遺物。
 グリーゼは先程広げた地図を頭の中に広げて想像し、

「一時間ほどかかります。さらに川の流れが早まれば、三十分程度で着くでしょう」
「その橋について聞きたいことが――」

 ナトの質問にグリーゼが答えると、彼は苦虫を噛み潰したような表情をした。
 そして、それを聞き終えた後、ナトの視線がアメリオに移る。

「……マリー」
「なにかしら」

 ナトは、しばらく黙り込んでいたが、やがて、意を決したように話を切り出した。

「頼みがある。……俺だけ舟から降りて、あの怪物は俺が食い止める。俺の身体能力なら死にはしない、だから」
「ナト」

 アメリオが、優しく彼の名を呼んだ。

「違うでしょ? 私、あなたから別のお願いをされると思ったわ」
「……駄目だ」
「使えば、解決できるのよね?」
「これ以上……それだけは、駄目だ!」

 少年の必死の抗議に、アメリオは優しく言葉を紡いだ。

「私、ナトに初めてあのことを話したのよ。なんでだと思う? リーダーとして、一番あなたを信頼してたからよ!」
「マリー……」
「ねえ……私、信じてるわ。どんなになっても、私から離れないでいてくれるって」

 その言葉を受けて、ナトは情けない自分を呪った。
 悔しそうに唇を噛み締め――そして、顔を上げた。





 川の勢いは想像以上に早まっていく。
 雨も容赦なし降り注ぎ、既にナトたちをつま先まで濡らしていた。
 さらに、絶え間なく入り込む水を掻き出す作業は、一段と彼らの労力を奪っていく。

 舟は物凄い勢いで川を下っていく――が、それは同時に、怪物も同じ勢いでこちらを追ってきていると言うこと。
 油断はできない。してはいけない。

「予測では、もうそろそろ――」

 雨のせいで霞がかった進行方向を見るグリーゼは、突然はっと声を上げた。

「見えました。あの橋です」

 うっすらと影が現れ、やがてその姿を四人の前に現したのは、大きな石橋だった。
 掛けるだけでも大変な作業だったであろう、巨大な橋。
 ナトたちがこの大地に訪れる際に渡った橋と若干似ている装飾が施されている。

 大きな幅の川を分断するように掛けられた橋は、二本の太い石柱により支えられ、肝心の装飾は苔や蔦まみれである。
 その荘厳さたるや、ひたすらに長い歴史を疎いナトにもそう言ったものを感じさせる程だった。

 それを確認し、次にナトが獲った行動は、ずっと並走しているオーハンスに合図を送ることだった。
 マイクと共に、勢いに乗った舟を追いかけるオーハンスは、激しい体幹と馬の操作で上がった息と足腰に貯まる乳酸に顔を歪めながら、
 ナトが出した合図――握りこぶしから親指と人差指、そして中指を立てたそれを見て、頷いて返し、再び並走を続けた。

「どういう意味の合図なんですか?」
「機会があったら教えてあげる。それより――」

 ナトが視線をグリーゼに送ると、彼女は予め用意していたそれを手に取った。
 茎が硬い植物で作った、長い縄の付いたフックだ。
 ナトが寝込んでいる間にグリーゼが手作りしたものだった。

 全て植物で作られたものではあるが――その強度は折り紙付きだ。

「頼んだ」
「任せてください」

 橋がどんどん迫ってくる。
 タイミングを見計らい、グリーゼは手に持ったフックを投げた。
 硬い茎で出来た鉤爪はうまく橋の縁に引っかかり、それを確認したグリーゼは、縄を思いっきり体に引き寄せた。

「ふんっ!」

 同時に、足で舟の側面を押さえ――腹筋を全力で行使し、橋を越えて少ししたところで、水の流れに逆らい舟をその場に留めた。

「これ、は……なかなかキツいですね」
「ここまで水圧がかかった舟を止めるなんて……!」
「とんでもないわね……」

 橋に引っ掛かったフックから伸びる縄を必死に手繰り寄せ、舟が流れるのを防ぐグリーゼ。
 その脇では、ナトが上流を睨めつけていた。

「辛いだろうけど、もう少し(こら)えてくれ」
「私は女性なのですが……この際、仕方がないですけど」

 心なしか、縄を握る両手に一層力がこもった気がした。
 すると、橋の上から蹄の音が聞こえてきた。
 ナトが見上げれば、そこには見知った親友の顔があった。

「はぁ、はぁ……おい、ナト!」
「オルフ、こっちはかなり不味い!」
「わかってる! ……言いたいことは山程あるが、さっきの合図も、把握した!」

 そう言って、オーハンスは先程と同じ合図をナトに返し、ナトも同様にそれをして見せると、蹄の音は対岸へと過ぎ去っていった。

「あ、あの……ナトさん、あれ!」
「……おでましか」

 川の上流――そこに、灰色の毛皮に包まれた異形の背中が見える。
 怪物が、遂に追いついてきたのだ。

「グリーゼ、すまない。この後も頼んだ」
「今回は仕事が山積みですね」

 グリーゼの皮肉を聞き届け――鉄の器を弾いたような音を響かせる。
 ナトが剣を抜いて、中段に構えている。
 アメリオも、右手を掲げて、狙う先は――橋の柱。

 怪物が迫り――その距離、舟一隻分。

「今だ!!」

 空気が弾かれたような爆発音、そして、青い光と美しい旋律――一本の軌跡。
 魔法と青い剣が石橋の二本の柱を、破壊し、そして斜めに断ち切った。

「グリーゼ、離せ!!」

 グリーゼが縄を離すと船は一気に加速し、転ばないようにへりに捕まりながら、四人はその光景を見守った。
 支えを失った石橋は、自重により瓦解していく。
 水面を叩いて丸石やレンガが落ちていく――その下には、灰色の毛を持つ背中があった。

 くぐもった悲鳴が微かに聞こえたような気がしたが、しかし、すぐにそれは橋が崩れ去る音に紛れて聞こえなくなった。
 何はともあれ、安心した四人は息をついてその場にへたりこんだ。

「――っ」
「ナトさんっ!」

 その瞬間、ナトは急激に視界が暗転し、舟の中に倒れ込んでいしまった。
 元々の疲労と青い剣の反動が、彼の体を襲っていた。

「後、は……」
「はい、ゆっくり休んでください」

 ヨルカがそう言うと、ナトは何かに魂でも刈り取られたかのように、すぐに瞼を落とした。
 その脇では、アメリオがぐったりした様子で腹をさすっていた。

「お腹がすいたわ……グリーゼ、何か無いかしら」
「森の中で拾った果実がありますよ。船の揺れで傷んでいるでしょうし、丁度いいので消費してしまいましょう」
「傷んでいても味は一緒よ!」

 舟の中から黄色い皮の果実を取り出し、揺れの中でも小さな果物ナイフで器用に皮を剥いて頬張るアメリオ。
 彼女を尻目に、ヨルカは瓦礫の山に進路を邪魔されて、水を溢れさせる川を見た。

 貴重な文化の遺産を壊してしまった。
 もう二度と、元には戻らないだろう。

 しかし、しょうがないことなのかもしれない。
 生き残るには、これしかなかった。
 悲しいことではあるが、今は前を向かないと――。

「あれ?」

 ヨルカはふと気がついた。

「この舟、どうなるんですか?」
「……そこまで考えてなかったわ!」

 果物を頬張るアメリオは、あっけからんとそう言い放った。
 そう、彼らは未だ川の流れの中に捕われていた。
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