第60話 「グリーゼの憂鬱」

文字数 3,954文字

 さて、与えられたその部屋の内装は、たとえ貴族上がりの少女たちであろうと、皆と同様であった。
 赤い髪の少女は何故かそれを喜んでいたが、
 彼女――ヨルカと言えば、

「ここをこうして……あ、あとこれも」

 意外にも、馴染んでいた。
 カビた木の机の上に、彼女のポーチから取り出した薬草の入った小瓶を、次々と並べていく。

 オーハンスが持つ荷物は、大半が食料関係の物だった。
 しかし、盗賊たちの遺跡から回収した物品や、
 森などで採取した物の大半はこちらで預かっていた。

「あ……そうだ」

 ふと、何かを思い出し、ヨルカは袋の中を漁った。
 取り出したのは、綺麗に剥いだ動物の皮だった。

 ナトの毒を受けて痣ができてしまった左腕に、手袋を作ると約束したことを思い出す。
 しかし、彼女は皮の扱いを知らず、革へと(なめ)す方法すら把握していない。

 もしも作れたら、どんな反応をしてくれるだろうか。
 ふと、そんな事を思った。
 すると、自然と頬が熱くなってくる。

「ぐ、グリーゼさんにやり方聞いてみよう……」

 きっと博識な彼女なら知っている。
 ヨルカが隣室を尋ねると、その部屋の主は椅子に座っていた。
 何をするでもなく、考え事をするように虚空を見つめ続けている。

 その仮面が、ゆっくりとヨルカの方を振り返った。

「……ヨルカ、どうしました?」
「あ、あの、皮の(なめ)し方……教えてほしいんですけど」

 承知したようにグリーゼは向き直ると頷き、ヨルカをベッドに座らせた。

「彼に贈るんですね」
「い、いえ、約束ですし……」

 少女は、視線をそらして照れるよに頬を染める。
 その姿を見て黒鎧は「ふふふ」と笑みを(こぼ)した。
 もっとも、剥げぬ黒面頬の上からでは、そんなこと分かりはしなかったが。

「もう気持ちは伝えたのですか?」
「そ、そんなんじゃないです!」
「初々しいですね」

 からかわれている。
 それに気がつくと、ヨルカは更に顔を赤くした。

「私は、そういった事を知らずに家を出てしまいましたから、羨ましいです」
「いつぐらいの時ですか?」
「十二歳でした」

 驚いた。
 ヨルカよりも少し年下だったからだ。

「あの、失礼ですが……グリーゼさんって、今はいくつなんですか?」
「さあ、もう数えるのをやめて暫く経ちますが……この体になってから、七十年は経ったのではないでしょうか」
「……えっ」
「引かないでください」

 決してヨルカは引いたわけではない。
 想像を絶する程の年上であったことに、驚きを隠せないだけだった。

「七十……」
「何度も言わないでください。まだ乙女の心は残っているのですから」

 戦となれば地を割り肉を裂く彼女は、まだ乙女であるらしい。

「そんなに長い間、ずっとこの大地で?」
「そうですね。暗い森にたどり着いてからは、何十年かはあそこでお世話になっていましたが」

 そういえば、彼女は憲兵として雇われていたのだった。

「今はこのような姿ですが、まだここに来る前は箱入り娘で、右も左もわからない女の子でした。懐かしいですね」

 ヨルカは想像力を働かせた。
 失敗した。小さな鎧が虫取り網を持って野原を駆け回っている。

「しかし、この老けない体で歳を取るにつれ、わかったことがあります」
「なんですか?」
「日々が流れてゆく内に……老化とは別に、自我というものが薄れてきてしまうような気がするのです。
 勿論、様々な経験や知識を得ました。しかし、あの頃持っていて、今持っていないものもとてもたくさんあります」

 その時、金髪の上に何かが乗った。
 黒い籠手が、子犬に触れるようにヨルカを撫でていた。
 見た目に反して、その手付きは柔らかい。

「ヨルカ、あなたは忘れないでください」
「忘れるって……何を?」
「この時を生きる純粋な心……『信じること』です」

 どこか、寂しそうにグリーゼは言う。

「不死の体で彷徨う内に、何も、感じなくなってしまったようです。
 痛みだけではありません。心の、傷も……」
「でも、グリーゼさんは、普通に」
「わからないのですね。しかし、それでいいのです。わからないままで、いいのですよ」

 むず痒かった。
 父や母の背中を見て思っていたのと、似た感情だった。

 彼女はこれから、世界が滅びるまでこの世を見つめ続けるのだろうか。
 百年、二百年、それが、ずっと――。

 もし、そうだとしたら。
 悠久の時を生きるというのは、どれ程辛いのだろうか。

「だから、あなたはナトをちゃんと見てあげてくださいね」
「え? ナトさん……ですか?」
「ええ。頼みましたよ」

 どういう意味だろうか。
 もしかして、またからかわれている?

「さて、話がそれましたね」

 金髪から黒色の籠手が離れた。
 グリーゼは、その鎧から伸びる指をぴんと立てた。

「皮の加工にはある素材が必要になります」
「素材、ですか」
「ええ。まず、絶対に必要になるのが『渋み』です」

 それを聞いて、キョトンと首をかしげるヨルカ。

「『渋み』ですか? ……砂糖を入れる前のお茶とか?」
「それもそうです。しかし、なるべく多く欲しいので、まずは木が生える場所まで赴かなければなりません」
「木、って……この辺り、そんなもの見当たりませんけど……」

 そう、辺りは見渡す限りの灰色。
 そこには多少の緑すらない。

「聞いてみましょうか」

 誰に?
 そう言う間もなく、グリーゼはヨルカを連れて部屋を出た。






「ああ、あるよ」
「本当ですか!」

 マルギリは笑みを絶やさずに頷いた。
 厨房で、彼の料理を手伝いながら、ヨルカは喜色を浮かべた。

 厨房で作業をしていた彼は、どうやらナトたちに食事を振る舞おうとしていたらしかった。
 申し訳なく思ったヨルカとグリーゼの二人は、現在その手伝いに勤しんでる。

「それで、その場所にあとでこっそり連れて行ってくれませんか?」
「こっそり? ……君たち二人と僕だけで?」

 食材を捌いていく二人を見ながら、マルギリは不思議そうに言った。

「ええ、その……ちょっと、入り用で」
「少し遠い場所だから、こっそりは難しいね。別の用事を伝えてくるのはどうだい?」
「そうですね、そうします……あっ」

 その時だった。
 ヨルカが指を滑らせ、包丁で指の腹を切ってしまった。

「いてて」
「切っちゃった? 見せてごらん」
「い、いえっ、そんな……」

 マルギリが半ば強引にヨルカの手を取った。
 指先からは、赤い血潮が滲んでいる。

「そ、そんなに大した傷ではないので……」
「いやいや、駄目だ。ちゃんと手当しないと」

 ヨルカの手を握ったまま、マルギリはそういった。
 じっと彼女の指先を見つめ、彼女の掌を撫でるように動く。

「あ、あの……?」
「……ああ、なんだい?」
「ほ、本当に、大丈夫ですので」

 じっと、彼女の掌を見つめ続けるマルギリ。
 その様子に、困惑したようにオロオロと辺りを見回すうちに――ふと、黒い鎧姿が目に入った。

「ヨルカ、来てください」
「あっ……」

 グリーゼに引かれるように、ヨルカはマルギリから離れた。

「消毒した布を巻きましょう。私の荷物にあるはずです」
「あ、はい、わかりました……」
「マルギリさん、申し訳ありません。少し調理場を離れさせていただきます」

 そういって、二人は厨房から出ていった。
 ヨルカが振り返ると、マルギリがじっとこちらを見つめ続けていた。





 小高い丘の上。
 木々の下に、雨宿りをする獣と少年の影があった。

「なあ、マイク。どうやって降りる?」

 この大地で出来た相棒は、それに答えるように小さく鳴いた。

「そうだよな、無理だよなぁ……」

 眼下に広がる灰色の都市。
 そこへ安全に降りる手段は、見渡す限り一つもない。

 渦へ飛び込むことはできない。
 運良くオーハンスは溺れずに済んだとしても、マイクは人じゃない。
 きっと、一度濁流に飲まれたら、二度と水から上がってこれないだろう。

 降りることが出来ないということは、ナトたちも上がってくることは不可能ということ。
 つまり、再会は難しい。
 荷物に入っていた湿気た乾燥肉を齧りながら、雑草を毟るマイクをちらりと見た。

「いくらこいつでも、崖は濡れてるし、飛び降りるにしてもこの高さはなぁ……全く、ここの住人はどうやって生活してたんだ」

 だから見渡す限り廃墟だらけなんだ、と心の中で愚痴を飛ばした。
 こんな無茶苦茶な街を作り出して、滅びるのも自明の理というものだ。

「それに、雨も止みそうにないし」

 いつになく降り続く雨。
 このまま野営になるのだろうか。
 びしょ濡れのまま、まともな準備も無しで?

「きついなぁ……」

 オーハンスはいつになく弱気だった。
 木の幹によりかかり、ボソボソと乾燥肉を齧り続ける。

「でも、ナト……覚えてたんだな」

 川に流されていた時に伝えあったあのサイン。
 ナトとオーハンスの懐かしい記憶が蘇る。

 その時だった。
 どこからか、荘厳な鐘の音色が響いた。
 繰り返される、耳に馴染んだその戦慄が、心なしか背中を押してくれるような気がする。

「……ちゃんと、合流しなくちゃ、な」

 そう言うと、オーハンスは黙って立ち上がった。
 そして、気がついた。

「……おい」

 川の上流、その先に、

「なんだよ、あれ」
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