第17話 「闇の中に潜む者」

文字数 6,872文字

「怪我はありませんか?」
「いや……」

 優しげな笑みで近づいてくるチェットに、思わず身構えてしまう。
 男として恥ずかしい話だが――実質的な用心棒である彼女(アメリオ)も、今は疲労困憊である。
 もし襲いかかられたら、抵抗する(すべ)はない。
 人の良さそうな顔をしているが、まだよく知らない赤の他人――特に先程アメリオに向けた表情が脳裏をよぎり、油断できない。

「大丈夫ですよ、人に向けたりしませんから」
「……ま、まあ」

 確かに。
 そうであれば、自分たちを助ける道理はない。
 それはそうかと、若干緊張を残したまま、オーハンスは少しだけ気を緩めた。

「はぁ、はぁ……ちょっと、休ませて……」

 荒い息遣いのアメリオはそう言うと、花畑の中に倒れこんだ。
 花弁が散って、その中に宝石のように輝く赤い髪が舞う。
 「お、おいっ」とオーハンスが駆け寄ると、既に彼女からは静かな寝息が上がっていた。

 安らかな寝顔を見て、オーハンスは安堵の息を漏らす。
 すると、たおやかな動作でチェットが立ち上がった。
 彼女の側に座り込み、そっと彼女の頭を膝の上に乗せた。
 赤い乱れた髪を整えて、優しく上から撫で付ける。

「……なんだか、(こな)れた手付きだな」
「ええ。昔……幼馴染の男の子によくしてあげてたんです」

 俯き加減にそう言うと、それから黙って優しい手つきで撫で続ける。

 ……悪いやつではないのか?
 オーハンスは、判断しかねていた。
 彼女が、自分たちにとっての何なのか。

 リ・エディナ教。母国では、日陰の中の組織として知られている――と、ヨルカから聞いた。
 忘れてはいけない。彼女の鳥が刺繍された白いローブは、その所属を明確に表している。

 そこに、彼女の人格の如何は問われない。

「そういえば」

 その時。
 突然、彼女のアメリオを撫でる手が止まった。

「……道中で聞いた、彼女の姓ですが」

 チェットはオーハンスに視線を向けた。
 「あ、ああ……」と返事をする。
 そして、その青い瞳と視線が交差して――、

「クレンツ、と、言いましたね」

 不意に。
 冷や汗が吹き出た。

 ただ、目の前の女性が自分を見つめているだけ。
 なのになぜ、こんなにも鼓動が早まるのか。
 まるで、本能が警鐘をならすかのように――。

 間が空いて、何かがズレ始めるような奇怪な雰囲気が花畑に充満し始める。
 訳のわからない混乱が、意識の縁で踏ん張るオーハンスを、無慈悲に襲う。

 オーハンスは何と対峙しているのかわからなくなった。
 いや、本当に、誰かと話しているのか。
 動物しかいない牧場にいた時よりも、孤独に近い感覚。
 自分は、一体何と話しているんだ。

 自分を見つめる瞳は、嘘のように精巧に出来た作り物じゃないのか。
 違うのなら、なぜ、彼女の瞳が向いているのに、意思の視線を感じないんだ。

「オーハンスさん?」
「……っ」

 首を(かし)げる動作ですら、何か人間味を感じられない。
 自分がおかしいのか?
 何だ、一体……。

「……そうですか。私に与えられた使命は別ですが、まあ無視もできないので仕方がないですね」

 そう言うと――チェットの顔から、表情が落ちる。
 一瞬だった。
 まるで色を失ったように、無機質な瞳へと変わった。

 しかし、なぜか。
 特別な驚愕は起こらない。
 むしろ、背筋に嫌な汗が流れるのを感じる半面、妙にしっくりとくる。

「お前は……」
「よくぞ、導いてくださいました。このお方を」

 チェットはそう言うと、表情のない顔で、アメリオの頬を撫でた。

「そ、そいつに触るな!」
「このお方には何も致しません。ですが……」

 そう言うと、彼女は懐から一枚の葉を取り出した。
 掌のような形をした、真っ赤な(かえで)の葉。
 ただ、特別な点を挙げるとすれば、それは、葉の全体が燻るように赤く光っていた。

 思わず後ずさるオーハンス。
 直後。
 うなじ辺りに、酷い熱を感じた。

「うっ、ぐああああっ!!」

 激痛にうずくまる。
 主の異変に、マイクが激しい鳴き声を上げた。馬のような、それ以外の獣のような鳴き声が、花畑に響く。

 焼けるような痛みが走る。
 全身が激しく痺れるたように痙攣して、手足を自由に動かすことができない。

 馬のような生物の叫び声と、咲き乱れる花の中、蹲るように体を震わせるオーハンスは、視線を上げてチェットを睨みつけた。
 無表情でこちらを見下ろす黒い髪の女性は、灰となって消えていく(かえで)を捨てて、
 風に乗ってどこかへと飛んでいく塵を背後に、少年の傍らにしゃがみこんだ。

「本当ならあなた方に必要性はありません。
 しかし、あのお方の動向を確認できるというのは、それはそれで役に立ちます」

 そう言うと、彼女はオーハンスのうなじを撫でた。
 父親に鞭で叩かれた後のような、酷く後味の悪い痛みが体を突き抜け、その痛みに腰を(よじ)る。

 そして彼女は立ち上がり、騒ぎ立てるマイクに向けてその凍てつく瞳を向けた。
 すると、花を撒き散らして興奮していたその獣は、水溜りに落としたマッチのように沈黙し、
 そして何でもないように、彼女はアメリオの方へと戻って座った。

 無表情の顔を、そのままに。
 そしてチェットは、再び彼女の頭を膝の上に置いた。

「このことは他言無用です。もしも話せば、貴方は溶けて消えます」
「な……に、を……」
「先程の樹葉ですよ。補足すれば、あれは魔法の道具です。
 ……あなたはこれから、この日のことを話してはなりません。
 比喩ではありません。本当に溶けて消えてしまいますから」

 機械的ににっこりと微笑むその表情に、意思の色は見えず、
 まるでそれは、喋る人形のようだった。
 その口が、からくりのように開く。

「この方を、神子様をよろしくお願いします」






 銅色の剣を突き出した。
 ひらりと躱される。全く当たる気配が無い。
 まるで、風に舞う枯れ葉を相手にしているようだ。

 踊らされている少年に対して、大きなトカゲの怪物はその隙を虎視眈々と狙っていた。
 鋭い爪を、目の前の小さな獲物に向ける。

 ナトは咄嗟に体を反転させた。
 そして、剣の腹に滑らせて、迫りくる爪をいなすも、僅かに外れたそれは右の肩を掠めていく。

「っ!」

 体に傷一つ持たない怪物は、体勢を整えるとナトと距離を取り、警戒するように地面に爪を立てた。
 ナトは、右肩が紅く染まりつつまるのを確認して、汗を掻く。

 純粋に、勝ち目が無かった。
 背中を向けて、入り口へと走れば、後ろから襲われる。
 討伐するにも、果たして上手く行くだろうか。

 そんな中。
 彼の頭の中には、単語の他に、珍しく意味を持った言葉が浮かんでいる。

輝洞龍(ヒカリカレハ)の鱗は「乾いた鱗」とも呼ばれる。
 興奮することで体温が上昇し、熱伝導により鱗が金色に光り輝く。
 薬の材料としても使われる』

 『乾いた鱗』が目の前の怪物の鱗を指しているのは間違いない……と思う。
 しかし、そうだとしても。
 この状況を、どうにかしなければ。

 ナトは、剣を構えた。
 脛に穴が空いた足も、新鮮な傷を見せる右肩も、頭がおかしくなりそうなほど痛い。

 でも。

 でも立てる。
 まだいける。

 怖く、ない。

「さあ、こい」

 体を金色に光らせて閃く怪物。
 剣を握り締めて、それに向けて、剣を突き出した。

 筋肉質な怪物の足が、軽い音を立てて石タイルの地面から離れる。
 結晶の光が降り注ぐその中で、金色の軌跡が、速く、一直線に向かってくる。

 対して、銅色の剣も、閃いた。
 肩口の高さで、刃の半ばが胸の位置に来るまで引き絞られ、

 穿つ。

 空気を間を縫うように放たれた、その一撃は。
 高速で迫りくる怪物の背に、すれ違いざまに尾の近くまで、一直線に傷つけた。

 剥がれ落ちた金色の鱗が幾つも空中に舞い散り、光を失って乾いたような色に変わる。
 そして同時に、通り抜けていった怪物のその切り口から、多彩な色を反射する、透明な体液が飛び散った。

 剣を振り抜いた格好のナトの背後、ドサリと落ちて転がるような音が届く。
 振り向いた頃には、怪物は虹色に輝く透明な体液を撒き散らし、よろよろと体勢を立て直していた。

 その傷から溢れる液体は硬化して、やがてそれは結晶として形作られる。
 背中から薄く虹色に光る透明な結晶を生やした怪物は、どこか苦しそうに呻いていた。

 ――もろい。

 ナトは確信した。
 鱗を剥がそうとした時に、気が付けばよかった。
 あれは素早いが、その代わり、紙のように柔かい。

 なら、いける。
 ナトは再び剣を構えた。
 腰だめに、重心を前に出して、相手を睨む。

 ――ここで、やらなきゃ。

 また、居なくなってしまう。
 脳裏に舞う、銀色の髪。
 隣で、見上げてはにかむ、村の少女の姿。

 嫌なんだ。
 もう……もう、誰も。

 ――誰も、失いたくはない。

 その時だった。
 肌を引き裂くような、甲高い音が響く。

 怒号。
 尊厳を傷つけられたとでも言うように、怒りの咆哮を上げる怪物は、
 あらん限りの声を上げて、体を光らせた。

 甲高いその叫びの中、突然、何かが割れる音があちこちで響く。
 怪物の怒りが伝導したかのように、部屋中の結晶が激しく弾ける。
 そして破片となった色とりどりの透明な石が、上から降り注いできた。

 怪物が飛び込んでくる。
 唸りを上げて、目にも留まらない速度で、近づいてくる。

 ナトの瞳が、それを捉えた。

 光を明滅させる宝石。
 その舞台の中で。
 白く光る牙と、銅色の泥の刃が交差する。

 散ったのは、赤い血だった。
 首を限界まで捻るナト。
 その左の肩口を、食いちぎらんとばかりに、鋭い牙が根本まで食い込んだ。
 ナトは――口角を上げていた。

 ――それは囮だ。

 銅色の剣が、持ち上がる。

 串が刺さるように。
 怪物の首の側面に、薄く虹色の体液に塗られた銅色の刃が生えた。

 牙が抜かれる。
 刃が首元から離れ、雄叫びを上げて仰け反る怪物。

 ――もう一度。

 渾身の力を込めて、突き出す。
 刃先が空気を唸らせる。

 ブツリと皮を突き破る音。
 怪物の尾の根本を穿つ泥の刃。
 その柄を逆手に持ち替えて、千切るように下に降ろした。
 大量の虹色の体液が溢れる。

 ――もう、一度。

 再び剣を持ち直す。
 薄い皮と肉で繋がっている金色の尾の結合部に、剣先で突き刺した。
 本体を失った尾が跳ねる。

 千切れた尾は、暴れながら地面に落ちた。
 ナトに噛み付いていた怪物が、鼓膜を破るほどの叫び声を上げて後ずさる。

 砕けた結晶が辺りに散乱する中。
 ナトは多少よろけながらも、再び地面に足をつけて、目の前の怪物を見据えた。
 そして、一歩踏み出して、剣を構える。

 尾を失った怪物は、警戒を露わにして、地面に爪を立てる。
 どうやら、首の急所を外してしまったようだった。

 ――が、暫しの間睨み合うと、翻って軽快に走り出し、
 透明な体液を零しながら、器用に部屋の壁を登ると、天井の小さな隙間から逃げ込んでしまった。

 数々の水晶が、光を失ったように、沈黙していく。
 やがて暗くなった部屋の中で、ナトは一人そこに立っていた。

「はああぁぁ……」

 緊張が解けたように、一人ため息を着くナト。
 キィンと、楽器のように綺麗な音色を立てて落ちる、硬い粘土の剣『響』。

 足の力が抜けて、地面に尻餅をつく。
 それと同時に、体中を激しい痛みが走った。

 気が付けば、体中血塗れだった。
 真っ赤に染め上がった体を見下ろして、震える息を吐く。

 まずは、止血をしないと。
 ナトは思い出した。
 怪物の傷口から溢れ出した虹色の体液が、硬化して瘡蓋(かさぶた)のようになっていた。

 なら。
 ナトは這うように切り落とした怪物の尻尾へと近づき、
 すっかり発光をやめて、枯れた色に沈黙したそれを持ち上げると、
 服をめくり、その断面を左の肩口の噛み跡へと無理やり押し当てた。
 薄く虹色に輝く液体が、分厚く傷口に付着する。

「うっ……く」

 しみる。
 焼けるように痛い。
 でも、これを持って帰らなきゃ。

 肩に付いた透明な液体は、次第に硬化して、虹色に輝く透明な結晶へと姿を変えた。
 血も、流れるのをやめたようで、結晶の内部に見える傷から溢れてくる様子はない。
 ついでに、噛まれた左足の穴にも、同じように押し当てておく。

 そこで、思い至る。
 そういえば、刺した剣は……?

 急いで拾い上げて、その剣身を見る。

「うわ……」

 予想通り、そこには虹色の結晶の膜が張られていた。
 刃先を触る。
 あまり鋭さを感じさせないその感触に、ナトは苦虫を噛み潰したような顔をする。

 やられた。
 これじゃあ使い物にならない。
 鈍器程度なら使えそうだけど……。

 まあしょうがない、と、残念そうに鞘に収めようとする。
 カツンと、鞘口に剣身のどこかが当たった音が響く。
 何度も差し直し――そして、ナトは悟った。

 剣身の面積が増えて、鞘に収まらない……!






「さあ、そろそろ立てるはずです」

 チェットが口を開く。
 蹲っていたオーハンスは、自分の体がいつの間にか自由になっていることに気がつく。

「う、ううん……」

 同時に、アメリオが呻くように声を上げた。

「マリー! だ、大丈夫か!?」

 離れた位置からオーハンスが叫ぶ。
 アメリオは瞼をこすりながら、辺りを見回して、
 そして、チェットとオーハンスの顔を見て、思い出したように立ち上がる。

「迷惑かけたわ。どれくらい寝て……」

 その時。
 アメリオが顔を青くして膝から崩れ落ちた。

「お、おい!」

 オーハンスが駆け寄って、アメリオの様子をみた。
 苦しそうに腹を押さえて、脂汗を顔に浮かべている。

 チェットを睨みつけ、何かを叫ぼうとして――口を噤(つぐ)んだ。
 彼女は唇に人差し指を当て、自分のうなじあたりを指した。

 心の中で悪態をつく。
 できることは何もない。
 オーハンスは大きな瞳を伏せた。

「……ぉ」
「っ!」

 アメリオが呻くように、そう呟いた。
 跳ねるように顔を上げたオーハンスは、もう一度、聞き漏らさないように耳を傾けた。

「な、なんだ!? なんでも言ってくれ!」
「お……」

 顔を青くするアメリオを、オーハンスは心配そうに見守る。
 そして、弱々しい唇が開く。

「お、お腹が空いたわ……とんでもなく」
「……は?」

 そう言うと、アメリオは立ち上がり、

「オルフ、早く見つけるわよ!」
「い、いや、何を……」
「絵に書かれてる花よ! お腹が千切れそうだわ、ほら、立って!」

 しばらく口を開けてアメリオを見つめ、そしてチェットの方を見た。
 不思議そうな顔で、首を傾げる彼女の顔に、特に訝しげな点は見当たらなかった。

 オーハンスが少し顔を赤くして俯いていると、
 「ところで」と、チェットが口を開いた。

「その『花』というのは、あれではありませんか?」

 チェットが指を指す。
 そこには、黒く焦げた花の怪物の死体があった。

 そして、その中で存在を主張するように、
 燃えた様子のない、儚げな一輪の花が咲いていた。





 ナトは廊下を歩いていた。
 腰には鞘とは別に銅色の剣を差し、乾いた色をした鱗がいくらか入った袋を下げている。

 後は、グリーゼと合流して、ここから脱出すればいいだけ。
 できれば、ハルトマンとも合流したいが、あれはあれで目的があるらしいし、無理強いはできない。
 だから、まずはグリーゼとの合流からだ。

 しかし、と、床が崩れて落ちる前の事を思い返す。
 怪物が一緒に落ちてこなかったことを幸運だと思ったが、もしかしたら、一人になったグリーゼに襲いかかっているかもしれない。
 それは不味い。一刻も早く合流しなければ。

 硬い石タイルの床を踏んで歩く。
 止血したとはいえ、傷ついた左足がおぼつかない。

 そこで、ふと足元を見る。
 土埃を被ったそこには、足跡が所々に残っていた。

「もしかして」

 この先に、ハルトマンが向かっていったのかもしれない。
 そう思い至り、ナトは床の(しるべ)に従い、彼の後を追った。
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