第17話 「闇の中に潜む者」
文字数 6,872文字
「怪我はありませんか?」
「いや……」
優しげな笑みで近づいてくるチェットに、思わず身構えてしまう。
男として恥ずかしい話だが――実質的な用心棒である彼女 も、今は疲労困憊である。
もし襲いかかられたら、抵抗する術 はない。
人の良さそうな顔をしているが、まだよく知らない赤の他人――特に先程アメリオに向けた表情が脳裏をよぎり、油断できない。
「大丈夫ですよ、人に向けたりしませんから」
「……ま、まあ」
確かに。
そうであれば、自分たちを助ける道理はない。
それはそうかと、若干緊張を残したまま、オーハンスは少しだけ気を緩めた。
「はぁ、はぁ……ちょっと、休ませて……」
荒い息遣いのアメリオはそう言うと、花畑の中に倒れこんだ。
花弁が散って、その中に宝石のように輝く赤い髪が舞う。
「お、おいっ」とオーハンスが駆け寄ると、既に彼女からは静かな寝息が上がっていた。
安らかな寝顔を見て、オーハンスは安堵の息を漏らす。
すると、たおやかな動作でチェットが立ち上がった。
彼女の側に座り込み、そっと彼女の頭を膝の上に乗せた。
赤い乱れた髪を整えて、優しく上から撫で付ける。
「……なんだか、熟 れた手付きだな」
「ええ。昔……幼馴染の男の子によくしてあげてたんです」
俯き加減にそう言うと、それから黙って優しい手つきで撫で続ける。
……悪いやつではないのか?
オーハンスは、判断しかねていた。
彼女が、自分たちにとっての何なのか。
リ・エディナ教。母国では、日陰の中の組織として知られている――と、ヨルカから聞いた。
忘れてはいけない。彼女の鳥が刺繍された白いローブは、その所属を明確に表している。
そこに、彼女の人格の如何は問われない。
「そういえば」
その時。
突然、彼女のアメリオを撫でる手が止まった。
「……道中で聞いた、彼女の姓ですが」
チェットはオーハンスに視線を向けた。
「あ、ああ……」と返事をする。
そして、その青い瞳と視線が交差して――、
「クレンツ、と、言いましたね」
不意に。
冷や汗が吹き出た。
ただ、目の前の女性が自分を見つめているだけ。
なのになぜ、こんなにも鼓動が早まるのか。
まるで、本能が警鐘をならすかのように――。
間が空いて、何かがズレ始めるような奇怪な雰囲気が花畑に充満し始める。
訳のわからない混乱が、意識の縁で踏ん張るオーハンスを、無慈悲に襲う。
オーハンスは何と対峙しているのかわからなくなった。
いや、本当に、誰かと話しているのか。
動物しかいない牧場にいた時よりも、孤独に近い感覚。
自分は、一体何と話しているんだ。
自分を見つめる瞳は、嘘のように精巧に出来た作り物じゃないのか。
違うのなら、なぜ、彼女の瞳が向いているのに、意思の視線を感じないんだ。
「オーハンスさん?」
「……っ」
首を傾 げる動作ですら、何か人間味を感じられない。
自分がおかしいのか?
何だ、一体……。
「……そうですか。私に与えられた使命は別ですが、まあ無視もできないので仕方がないですね」
そう言うと――チェットの顔から、表情が落ちる。
一瞬だった。
まるで色を失ったように、無機質な瞳へと変わった。
しかし、なぜか。
特別な驚愕は起こらない。
むしろ、背筋に嫌な汗が流れるのを感じる半面、妙にしっくりとくる。
「お前は……」
「よくぞ、導いてくださいました。このお方を」
チェットはそう言うと、表情のない顔で、アメリオの頬を撫でた。
「そ、そいつに触るな!」
「このお方には何も致しません。ですが……」
そう言うと、彼女は懐から一枚の葉を取り出した。
掌のような形をした、真っ赤な楓 の葉。
ただ、特別な点を挙げるとすれば、それは、葉の全体が燻るように赤く光っていた。
思わず後ずさるオーハンス。
直後。
うなじ辺りに、酷い熱を感じた。
「うっ、ぐああああっ!!」
激痛にうずくまる。
主の異変に、マイクが激しい鳴き声を上げた。馬のような、それ以外の獣のような鳴き声が、花畑に響く。
焼けるような痛みが走る。
全身が激しく痺れるたように痙攣して、手足を自由に動かすことができない。
馬のような生物の叫び声と、咲き乱れる花の中、蹲るように体を震わせるオーハンスは、視線を上げてチェットを睨みつけた。
無表情でこちらを見下ろす黒い髪の女性は、灰となって消えていく楓 を捨てて、
風に乗ってどこかへと飛んでいく塵を背後に、少年の傍らにしゃがみこんだ。
「本当ならあなた方に必要性はありません。
しかし、あのお方の動向を確認できるというのは、それはそれで役に立ちます」
そう言うと、彼女はオーハンスのうなじを撫でた。
父親に鞭で叩かれた後のような、酷く後味の悪い痛みが体を突き抜け、その痛みに腰を捩 る。
そして彼女は立ち上がり、騒ぎ立てるマイクに向けてその凍てつく瞳を向けた。
すると、花を撒き散らして興奮していたその獣は、水溜りに落としたマッチのように沈黙し、
そして何でもないように、彼女はアメリオの方へと戻って座った。
無表情の顔を、そのままに。
そしてチェットは、再び彼女の頭を膝の上に置いた。
「このことは他言無用です。もしも話せば、貴方は溶けて消えます」
「な……に、を……」
「先程の樹葉ですよ。補足すれば、あれは魔法の道具です。
……あなたはこれから、この日のことを話してはなりません。
比喩ではありません。本当に溶けて消えてしまいますから」
機械的ににっこりと微笑むその表情に、意思の色は見えず、
まるでそれは、喋る人形のようだった。
その口が、からくりのように開く。
「この方を、神子様をよろしくお願いします」
銅色の剣を突き出した。
ひらりと躱される。全く当たる気配が無い。
まるで、風に舞う枯れ葉を相手にしているようだ。
踊らされている少年に対して、大きなトカゲの怪物はその隙を虎視眈々と狙っていた。
鋭い爪を、目の前の小さな獲物に向ける。
ナトは咄嗟に体を反転させた。
そして、剣の腹に滑らせて、迫りくる爪をいなすも、僅かに外れたそれは右の肩を掠めていく。
「っ!」
体に傷一つ持たない怪物は、体勢を整えるとナトと距離を取り、警戒するように地面に爪を立てた。
ナトは、右肩が紅く染まりつつまるのを確認して、汗を掻く。
純粋に、勝ち目が無かった。
背中を向けて、入り口へと走れば、後ろから襲われる。
討伐するにも、果たして上手く行くだろうか。
そんな中。
彼の頭の中には、単語の他に、珍しく意味を持った言葉が浮かんでいる。
『輝洞龍 の鱗は「乾いた鱗」とも呼ばれる。
興奮することで体温が上昇し、熱伝導により鱗が金色に光り輝く。
薬の材料としても使われる』
『乾いた鱗』が目の前の怪物の鱗を指しているのは間違いない……と思う。
しかし、そうだとしても。
この状況を、どうにかしなければ。
ナトは、剣を構えた。
脛に穴が空いた足も、新鮮な傷を見せる右肩も、頭がおかしくなりそうなほど痛い。
でも。
でも立てる。
まだいける。
怖く、ない。
「さあ、こい」
体を金色に光らせて閃く怪物。
剣を握り締めて、それに向けて、剣を突き出した。
筋肉質な怪物の足が、軽い音を立てて石タイルの地面から離れる。
結晶の光が降り注ぐその中で、金色の軌跡が、速く、一直線に向かってくる。
対して、銅色の剣も、閃いた。
肩口の高さで、刃の半ばが胸の位置に来るまで引き絞られ、
穿つ。
空気を間を縫うように放たれた、その一撃は。
高速で迫りくる怪物の背に、すれ違いざまに尾の近くまで、一直線に傷つけた。
剥がれ落ちた金色の鱗が幾つも空中に舞い散り、光を失って乾いたような色に変わる。
そして同時に、通り抜けていった怪物のその切り口から、多彩な色を反射する、透明な体液が飛び散った。
剣を振り抜いた格好のナトの背後、ドサリと落ちて転がるような音が届く。
振り向いた頃には、怪物は虹色に輝く透明な体液を撒き散らし、よろよろと体勢を立て直していた。
その傷から溢れる液体は硬化して、やがてそれは結晶として形作られる。
背中から薄く虹色に光る透明な結晶を生やした怪物は、どこか苦しそうに呻いていた。
――もろい。
ナトは確信した。
鱗を剥がそうとした時に、気が付けばよかった。
あれは素早いが、その代わり、紙のように柔かい。
なら、いける。
ナトは再び剣を構えた。
腰だめに、重心を前に出して、相手を睨む。
――ここで、やらなきゃ。
また、居なくなってしまう。
脳裏に舞う、銀色の髪。
隣で、見上げてはにかむ、村の少女の姿。
嫌なんだ。
もう……もう、誰も。
――誰も、失いたくはない。
その時だった。
肌を引き裂くような、甲高い音が響く。
怒号。
尊厳を傷つけられたとでも言うように、怒りの咆哮を上げる怪物は、
あらん限りの声を上げて、体を光らせた。
甲高いその叫びの中、突然、何かが割れる音があちこちで響く。
怪物の怒りが伝導したかのように、部屋中の結晶が激しく弾ける。
そして破片となった色とりどりの透明な石が、上から降り注いできた。
怪物が飛び込んでくる。
唸りを上げて、目にも留まらない速度で、近づいてくる。
ナトの瞳が、それを捉えた。
光を明滅させる宝石。
その舞台の中で。
白く光る牙と、銅色の泥の刃が交差する。
散ったのは、赤い血だった。
首を限界まで捻るナト。
その左の肩口を、食いちぎらんとばかりに、鋭い牙が根本まで食い込んだ。
ナトは――口角を上げていた。
――それは囮だ。
銅色の剣が、持ち上がる。
串が刺さるように。
怪物の首の側面に、薄く虹色の体液に塗られた銅色の刃が生えた。
牙が抜かれる。
刃が首元から離れ、雄叫びを上げて仰け反る怪物。
――もう一度。
渾身の力を込めて、突き出す。
刃先が空気を唸らせる。
ブツリと皮を突き破る音。
怪物の尾の根本を穿つ泥の刃。
その柄を逆手に持ち替えて、千切るように下に降ろした。
大量の虹色の体液が溢れる。
――もう、一度。
再び剣を持ち直す。
薄い皮と肉で繋がっている金色の尾の結合部に、剣先で突き刺した。
本体を失った尾が跳ねる。
千切れた尾は、暴れながら地面に落ちた。
ナトに噛み付いていた怪物が、鼓膜を破るほどの叫び声を上げて後ずさる。
砕けた結晶が辺りに散乱する中。
ナトは多少よろけながらも、再び地面に足をつけて、目の前の怪物を見据えた。
そして、一歩踏み出して、剣を構える。
尾を失った怪物は、警戒を露わにして、地面に爪を立てる。
どうやら、首の急所を外してしまったようだった。
――が、暫しの間睨み合うと、翻って軽快に走り出し、
透明な体液を零しながら、器用に部屋の壁を登ると、天井の小さな隙間から逃げ込んでしまった。
数々の水晶が、光を失ったように、沈黙していく。
やがて暗くなった部屋の中で、ナトは一人そこに立っていた。
「はああぁぁ……」
緊張が解けたように、一人ため息を着くナト。
キィンと、楽器のように綺麗な音色を立てて落ちる、硬い粘土の剣『響』。
足の力が抜けて、地面に尻餅をつく。
それと同時に、体中を激しい痛みが走った。
気が付けば、体中血塗れだった。
真っ赤に染め上がった体を見下ろして、震える息を吐く。
まずは、止血をしないと。
ナトは思い出した。
怪物の傷口から溢れ出した虹色の体液が、硬化して瘡蓋(かさぶた)のようになっていた。
なら。
ナトは這うように切り落とした怪物の尻尾へと近づき、
すっかり発光をやめて、枯れた色に沈黙したそれを持ち上げると、
服をめくり、その断面を左の肩口の噛み跡へと無理やり押し当てた。
薄く虹色に輝く液体が、分厚く傷口に付着する。
「うっ……く」
しみる。
焼けるように痛い。
でも、これを持って帰らなきゃ。
肩に付いた透明な液体は、次第に硬化して、虹色に輝く透明な結晶へと姿を変えた。
血も、流れるのをやめたようで、結晶の内部に見える傷から溢れてくる様子はない。
ついでに、噛まれた左足の穴にも、同じように押し当てておく。
そこで、思い至る。
そういえば、刺した剣は……?
急いで拾い上げて、その剣身を見る。
「うわ……」
予想通り、そこには虹色の結晶の膜が張られていた。
刃先を触る。
あまり鋭さを感じさせないその感触に、ナトは苦虫を噛み潰したような顔をする。
やられた。
これじゃあ使い物にならない。
鈍器程度なら使えそうだけど……。
まあしょうがない、と、残念そうに鞘に収めようとする。
カツンと、鞘口に剣身のどこかが当たった音が響く。
何度も差し直し――そして、ナトは悟った。
剣身の面積が増えて、鞘に収まらない……!
「さあ、そろそろ立てるはずです」
チェットが口を開く。
蹲っていたオーハンスは、自分の体がいつの間にか自由になっていることに気がつく。
「う、ううん……」
同時に、アメリオが呻くように声を上げた。
「マリー! だ、大丈夫か!?」
離れた位置からオーハンスが叫ぶ。
アメリオは瞼をこすりながら、辺りを見回して、
そして、チェットとオーハンスの顔を見て、思い出したように立ち上がる。
「迷惑かけたわ。どれくらい寝て……」
その時。
アメリオが顔を青くして膝から崩れ落ちた。
「お、おい!」
オーハンスが駆け寄って、アメリオの様子をみた。
苦しそうに腹を押さえて、脂汗を顔に浮かべている。
チェットを睨みつけ、何かを叫ぼうとして――口を噤(つぐ)んだ。
彼女は唇に人差し指を当て、自分のうなじあたりを指した。
心の中で悪態をつく。
できることは何もない。
オーハンスは大きな瞳を伏せた。
「……ぉ」
「っ!」
アメリオが呻くように、そう呟いた。
跳ねるように顔を上げたオーハンスは、もう一度、聞き漏らさないように耳を傾けた。
「な、なんだ!? なんでも言ってくれ!」
「お……」
顔を青くするアメリオを、オーハンスは心配そうに見守る。
そして、弱々しい唇が開く。
「お、お腹が空いたわ……とんでもなく」
「……は?」
そう言うと、アメリオは立ち上がり、
「オルフ、早く見つけるわよ!」
「い、いや、何を……」
「絵に書かれてる花よ! お腹が千切れそうだわ、ほら、立って!」
しばらく口を開けてアメリオを見つめ、そしてチェットの方を見た。
不思議そうな顔で、首を傾げる彼女の顔に、特に訝しげな点は見当たらなかった。
オーハンスが少し顔を赤くして俯いていると、
「ところで」と、チェットが口を開いた。
「その『花』というのは、あれではありませんか?」
チェットが指を指す。
そこには、黒く焦げた花の怪物の死体があった。
そして、その中で存在を主張するように、
燃えた様子のない、儚げな一輪の花が咲いていた。
ナトは廊下を歩いていた。
腰には鞘とは別に銅色の剣を差し、乾いた色をした鱗がいくらか入った袋を下げている。
後は、グリーゼと合流して、ここから脱出すればいいだけ。
できれば、ハルトマンとも合流したいが、あれはあれで目的があるらしいし、無理強いはできない。
だから、まずはグリーゼとの合流からだ。
しかし、と、床が崩れて落ちる前の事を思い返す。
怪物が一緒に落ちてこなかったことを幸運だと思ったが、もしかしたら、一人になったグリーゼに襲いかかっているかもしれない。
それは不味い。一刻も早く合流しなければ。
硬い石タイルの床を踏んで歩く。
止血したとはいえ、傷ついた左足がおぼつかない。
そこで、ふと足元を見る。
土埃を被ったそこには、足跡が所々に残っていた。
「もしかして」
この先に、ハルトマンが向かっていったのかもしれない。
そう思い至り、ナトは床の導 に従い、彼の後を追った。
「いや……」
優しげな笑みで近づいてくるチェットに、思わず身構えてしまう。
男として恥ずかしい話だが――実質的な用心棒である
もし襲いかかられたら、抵抗する
人の良さそうな顔をしているが、まだよく知らない赤の他人――特に先程アメリオに向けた表情が脳裏をよぎり、油断できない。
「大丈夫ですよ、人に向けたりしませんから」
「……ま、まあ」
確かに。
そうであれば、自分たちを助ける道理はない。
それはそうかと、若干緊張を残したまま、オーハンスは少しだけ気を緩めた。
「はぁ、はぁ……ちょっと、休ませて……」
荒い息遣いのアメリオはそう言うと、花畑の中に倒れこんだ。
花弁が散って、その中に宝石のように輝く赤い髪が舞う。
「お、おいっ」とオーハンスが駆け寄ると、既に彼女からは静かな寝息が上がっていた。
安らかな寝顔を見て、オーハンスは安堵の息を漏らす。
すると、たおやかな動作でチェットが立ち上がった。
彼女の側に座り込み、そっと彼女の頭を膝の上に乗せた。
赤い乱れた髪を整えて、優しく上から撫で付ける。
「……なんだか、
「ええ。昔……幼馴染の男の子によくしてあげてたんです」
俯き加減にそう言うと、それから黙って優しい手つきで撫で続ける。
……悪いやつではないのか?
オーハンスは、判断しかねていた。
彼女が、自分たちにとっての何なのか。
リ・エディナ教。母国では、日陰の中の組織として知られている――と、ヨルカから聞いた。
忘れてはいけない。彼女の鳥が刺繍された白いローブは、その所属を明確に表している。
そこに、彼女の人格の如何は問われない。
「そういえば」
その時。
突然、彼女のアメリオを撫でる手が止まった。
「……道中で聞いた、彼女の姓ですが」
チェットはオーハンスに視線を向けた。
「あ、ああ……」と返事をする。
そして、その青い瞳と視線が交差して――、
「クレンツ、と、言いましたね」
不意に。
冷や汗が吹き出た。
ただ、目の前の女性が自分を見つめているだけ。
なのになぜ、こんなにも鼓動が早まるのか。
まるで、本能が警鐘をならすかのように――。
間が空いて、何かがズレ始めるような奇怪な雰囲気が花畑に充満し始める。
訳のわからない混乱が、意識の縁で踏ん張るオーハンスを、無慈悲に襲う。
オーハンスは何と対峙しているのかわからなくなった。
いや、本当に、誰かと話しているのか。
動物しかいない牧場にいた時よりも、孤独に近い感覚。
自分は、一体何と話しているんだ。
自分を見つめる瞳は、嘘のように精巧に出来た作り物じゃないのか。
違うのなら、なぜ、彼女の瞳が向いているのに、意思の視線を感じないんだ。
「オーハンスさん?」
「……っ」
首を
自分がおかしいのか?
何だ、一体……。
「……そうですか。私に与えられた使命は別ですが、まあ無視もできないので仕方がないですね」
そう言うと――チェットの顔から、表情が落ちる。
一瞬だった。
まるで色を失ったように、無機質な瞳へと変わった。
しかし、なぜか。
特別な驚愕は起こらない。
むしろ、背筋に嫌な汗が流れるのを感じる半面、妙にしっくりとくる。
「お前は……」
「よくぞ、導いてくださいました。このお方を」
チェットはそう言うと、表情のない顔で、アメリオの頬を撫でた。
「そ、そいつに触るな!」
「このお方には何も致しません。ですが……」
そう言うと、彼女は懐から一枚の葉を取り出した。
掌のような形をした、真っ赤な
ただ、特別な点を挙げるとすれば、それは、葉の全体が燻るように赤く光っていた。
思わず後ずさるオーハンス。
直後。
うなじ辺りに、酷い熱を感じた。
「うっ、ぐああああっ!!」
激痛にうずくまる。
主の異変に、マイクが激しい鳴き声を上げた。馬のような、それ以外の獣のような鳴き声が、花畑に響く。
焼けるような痛みが走る。
全身が激しく痺れるたように痙攣して、手足を自由に動かすことができない。
馬のような生物の叫び声と、咲き乱れる花の中、蹲るように体を震わせるオーハンスは、視線を上げてチェットを睨みつけた。
無表情でこちらを見下ろす黒い髪の女性は、灰となって消えていく
風に乗ってどこかへと飛んでいく塵を背後に、少年の傍らにしゃがみこんだ。
「本当ならあなた方に必要性はありません。
しかし、あのお方の動向を確認できるというのは、それはそれで役に立ちます」
そう言うと、彼女はオーハンスのうなじを撫でた。
父親に鞭で叩かれた後のような、酷く後味の悪い痛みが体を突き抜け、その痛みに腰を
そして彼女は立ち上がり、騒ぎ立てるマイクに向けてその凍てつく瞳を向けた。
すると、花を撒き散らして興奮していたその獣は、水溜りに落としたマッチのように沈黙し、
そして何でもないように、彼女はアメリオの方へと戻って座った。
無表情の顔を、そのままに。
そしてチェットは、再び彼女の頭を膝の上に置いた。
「このことは他言無用です。もしも話せば、貴方は溶けて消えます」
「な……に、を……」
「先程の樹葉ですよ。補足すれば、あれは魔法の道具です。
……あなたはこれから、この日のことを話してはなりません。
比喩ではありません。本当に溶けて消えてしまいますから」
機械的ににっこりと微笑むその表情に、意思の色は見えず、
まるでそれは、喋る人形のようだった。
その口が、からくりのように開く。
「この方を、神子様をよろしくお願いします」
銅色の剣を突き出した。
ひらりと躱される。全く当たる気配が無い。
まるで、風に舞う枯れ葉を相手にしているようだ。
踊らされている少年に対して、大きなトカゲの怪物はその隙を虎視眈々と狙っていた。
鋭い爪を、目の前の小さな獲物に向ける。
ナトは咄嗟に体を反転させた。
そして、剣の腹に滑らせて、迫りくる爪をいなすも、僅かに外れたそれは右の肩を掠めていく。
「っ!」
体に傷一つ持たない怪物は、体勢を整えるとナトと距離を取り、警戒するように地面に爪を立てた。
ナトは、右肩が紅く染まりつつまるのを確認して、汗を掻く。
純粋に、勝ち目が無かった。
背中を向けて、入り口へと走れば、後ろから襲われる。
討伐するにも、果たして上手く行くだろうか。
そんな中。
彼の頭の中には、単語の他に、珍しく意味を持った言葉が浮かんでいる。
『
興奮することで体温が上昇し、熱伝導により鱗が金色に光り輝く。
薬の材料としても使われる』
『乾いた鱗』が目の前の怪物の鱗を指しているのは間違いない……と思う。
しかし、そうだとしても。
この状況を、どうにかしなければ。
ナトは、剣を構えた。
脛に穴が空いた足も、新鮮な傷を見せる右肩も、頭がおかしくなりそうなほど痛い。
でも。
でも立てる。
まだいける。
怖く、ない。
「さあ、こい」
体を金色に光らせて閃く怪物。
剣を握り締めて、それに向けて、剣を突き出した。
筋肉質な怪物の足が、軽い音を立てて石タイルの地面から離れる。
結晶の光が降り注ぐその中で、金色の軌跡が、速く、一直線に向かってくる。
対して、銅色の剣も、閃いた。
肩口の高さで、刃の半ばが胸の位置に来るまで引き絞られ、
穿つ。
空気を間を縫うように放たれた、その一撃は。
高速で迫りくる怪物の背に、すれ違いざまに尾の近くまで、一直線に傷つけた。
剥がれ落ちた金色の鱗が幾つも空中に舞い散り、光を失って乾いたような色に変わる。
そして同時に、通り抜けていった怪物のその切り口から、多彩な色を反射する、透明な体液が飛び散った。
剣を振り抜いた格好のナトの背後、ドサリと落ちて転がるような音が届く。
振り向いた頃には、怪物は虹色に輝く透明な体液を撒き散らし、よろよろと体勢を立て直していた。
その傷から溢れる液体は硬化して、やがてそれは結晶として形作られる。
背中から薄く虹色に光る透明な結晶を生やした怪物は、どこか苦しそうに呻いていた。
――もろい。
ナトは確信した。
鱗を剥がそうとした時に、気が付けばよかった。
あれは素早いが、その代わり、紙のように柔かい。
なら、いける。
ナトは再び剣を構えた。
腰だめに、重心を前に出して、相手を睨む。
――ここで、やらなきゃ。
また、居なくなってしまう。
脳裏に舞う、銀色の髪。
隣で、見上げてはにかむ、村の少女の姿。
嫌なんだ。
もう……もう、誰も。
――誰も、失いたくはない。
その時だった。
肌を引き裂くような、甲高い音が響く。
怒号。
尊厳を傷つけられたとでも言うように、怒りの咆哮を上げる怪物は、
あらん限りの声を上げて、体を光らせた。
甲高いその叫びの中、突然、何かが割れる音があちこちで響く。
怪物の怒りが伝導したかのように、部屋中の結晶が激しく弾ける。
そして破片となった色とりどりの透明な石が、上から降り注いできた。
怪物が飛び込んでくる。
唸りを上げて、目にも留まらない速度で、近づいてくる。
ナトの瞳が、それを捉えた。
光を明滅させる宝石。
その舞台の中で。
白く光る牙と、銅色の泥の刃が交差する。
散ったのは、赤い血だった。
首を限界まで捻るナト。
その左の肩口を、食いちぎらんとばかりに、鋭い牙が根本まで食い込んだ。
ナトは――口角を上げていた。
――それは囮だ。
銅色の剣が、持ち上がる。
串が刺さるように。
怪物の首の側面に、薄く虹色の体液に塗られた銅色の刃が生えた。
牙が抜かれる。
刃が首元から離れ、雄叫びを上げて仰け反る怪物。
――もう一度。
渾身の力を込めて、突き出す。
刃先が空気を唸らせる。
ブツリと皮を突き破る音。
怪物の尾の根本を穿つ泥の刃。
その柄を逆手に持ち替えて、千切るように下に降ろした。
大量の虹色の体液が溢れる。
――もう、一度。
再び剣を持ち直す。
薄い皮と肉で繋がっている金色の尾の結合部に、剣先で突き刺した。
本体を失った尾が跳ねる。
千切れた尾は、暴れながら地面に落ちた。
ナトに噛み付いていた怪物が、鼓膜を破るほどの叫び声を上げて後ずさる。
砕けた結晶が辺りに散乱する中。
ナトは多少よろけながらも、再び地面に足をつけて、目の前の怪物を見据えた。
そして、一歩踏み出して、剣を構える。
尾を失った怪物は、警戒を露わにして、地面に爪を立てる。
どうやら、首の急所を外してしまったようだった。
――が、暫しの間睨み合うと、翻って軽快に走り出し、
透明な体液を零しながら、器用に部屋の壁を登ると、天井の小さな隙間から逃げ込んでしまった。
数々の水晶が、光を失ったように、沈黙していく。
やがて暗くなった部屋の中で、ナトは一人そこに立っていた。
「はああぁぁ……」
緊張が解けたように、一人ため息を着くナト。
キィンと、楽器のように綺麗な音色を立てて落ちる、硬い粘土の剣『響』。
足の力が抜けて、地面に尻餅をつく。
それと同時に、体中を激しい痛みが走った。
気が付けば、体中血塗れだった。
真っ赤に染め上がった体を見下ろして、震える息を吐く。
まずは、止血をしないと。
ナトは思い出した。
怪物の傷口から溢れ出した虹色の体液が、硬化して瘡蓋(かさぶた)のようになっていた。
なら。
ナトは這うように切り落とした怪物の尻尾へと近づき、
すっかり発光をやめて、枯れた色に沈黙したそれを持ち上げると、
服をめくり、その断面を左の肩口の噛み跡へと無理やり押し当てた。
薄く虹色に輝く液体が、分厚く傷口に付着する。
「うっ……く」
しみる。
焼けるように痛い。
でも、これを持って帰らなきゃ。
肩に付いた透明な液体は、次第に硬化して、虹色に輝く透明な結晶へと姿を変えた。
血も、流れるのをやめたようで、結晶の内部に見える傷から溢れてくる様子はない。
ついでに、噛まれた左足の穴にも、同じように押し当てておく。
そこで、思い至る。
そういえば、刺した剣は……?
急いで拾い上げて、その剣身を見る。
「うわ……」
予想通り、そこには虹色の結晶の膜が張られていた。
刃先を触る。
あまり鋭さを感じさせないその感触に、ナトは苦虫を噛み潰したような顔をする。
やられた。
これじゃあ使い物にならない。
鈍器程度なら使えそうだけど……。
まあしょうがない、と、残念そうに鞘に収めようとする。
カツンと、鞘口に剣身のどこかが当たった音が響く。
何度も差し直し――そして、ナトは悟った。
剣身の面積が増えて、鞘に収まらない……!
「さあ、そろそろ立てるはずです」
チェットが口を開く。
蹲っていたオーハンスは、自分の体がいつの間にか自由になっていることに気がつく。
「う、ううん……」
同時に、アメリオが呻くように声を上げた。
「マリー! だ、大丈夫か!?」
離れた位置からオーハンスが叫ぶ。
アメリオは瞼をこすりながら、辺りを見回して、
そして、チェットとオーハンスの顔を見て、思い出したように立ち上がる。
「迷惑かけたわ。どれくらい寝て……」
その時。
アメリオが顔を青くして膝から崩れ落ちた。
「お、おい!」
オーハンスが駆け寄って、アメリオの様子をみた。
苦しそうに腹を押さえて、脂汗を顔に浮かべている。
チェットを睨みつけ、何かを叫ぼうとして――口を噤(つぐ)んだ。
彼女は唇に人差し指を当て、自分のうなじあたりを指した。
心の中で悪態をつく。
できることは何もない。
オーハンスは大きな瞳を伏せた。
「……ぉ」
「っ!」
アメリオが呻くように、そう呟いた。
跳ねるように顔を上げたオーハンスは、もう一度、聞き漏らさないように耳を傾けた。
「な、なんだ!? なんでも言ってくれ!」
「お……」
顔を青くするアメリオを、オーハンスは心配そうに見守る。
そして、弱々しい唇が開く。
「お、お腹が空いたわ……とんでもなく」
「……は?」
そう言うと、アメリオは立ち上がり、
「オルフ、早く見つけるわよ!」
「い、いや、何を……」
「絵に書かれてる花よ! お腹が千切れそうだわ、ほら、立って!」
しばらく口を開けてアメリオを見つめ、そしてチェットの方を見た。
不思議そうな顔で、首を傾げる彼女の顔に、特に訝しげな点は見当たらなかった。
オーハンスが少し顔を赤くして俯いていると、
「ところで」と、チェットが口を開いた。
「その『花』というのは、あれではありませんか?」
チェットが指を指す。
そこには、黒く焦げた花の怪物の死体があった。
そして、その中で存在を主張するように、
燃えた様子のない、儚げな一輪の花が咲いていた。
ナトは廊下を歩いていた。
腰には鞘とは別に銅色の剣を差し、乾いた色をした鱗がいくらか入った袋を下げている。
後は、グリーゼと合流して、ここから脱出すればいいだけ。
できれば、ハルトマンとも合流したいが、あれはあれで目的があるらしいし、無理強いはできない。
だから、まずはグリーゼとの合流からだ。
しかし、と、床が崩れて落ちる前の事を思い返す。
怪物が一緒に落ちてこなかったことを幸運だと思ったが、もしかしたら、一人になったグリーゼに襲いかかっているかもしれない。
それは不味い。一刻も早く合流しなければ。
硬い石タイルの床を踏んで歩く。
止血したとはいえ、傷ついた左足がおぼつかない。
そこで、ふと足元を見る。
土埃を被ったそこには、足跡が所々に残っていた。
「もしかして」
この先に、ハルトマンが向かっていったのかもしれない。
そう思い至り、ナトは床の