第21話 「暗闇に蠢く」
文字数 7,789文字
自分の目を疑う様に、何度も瞬きをした。
初めは幻覚を疑った。
しかしそれは、現実だった。
「どうして……」
その声は、震えてきた。
平民だからと、罵った。
見放し、差し伸べられた手を払い、剣を向けた。
なのに、何故。
「空気孔ですよ」
「……は?」
「この建物、窓とかあまり無い構造上、どうしても大きな空気孔が必要だったみたいで。
それに気づいた時に、遠くの音がよく聞こえていたことを思い出して、その出どころだった空気孔を辿ってみたら、ここに繋がっていたんです」
トカゲの怪物との戦闘を終えたナトは、グリーゼと初めてここに来た時のことを思い出していた。
あの悲鳴も、思えば空気孔を伝って広間に響いていたのだ。
空気孔は、どの部屋にもあった。
トカゲの怪物が逃げて言ったのもそうだ。
ナトはおもむろにそこから侵入すると、ギリギリ人の歩ける程度の空気孔の中を、怪物の呻き声の方向を伝って歩いて来たのだった。
「違う」
そういうことじゃ無い、とハルトマンは頭 を振る。
しかし、それを待たずにナトは動いた。
手に持つ、薄い虹の膜に包まれた銅色の剣。
襲いかかる節足がその腹をすべり、いなされる。
「くっ……」
地面に立てた剣にすがりつき、ナトは崩れ落ちた。
その表情には、疲労の色が濃く見える。
「わからない……貴様が、わからない」
「僕は……はぁ、はぁ、普通の人間ですよ」
剣を杖代わりに起き上がると、再びハルトマンを背後に庇って剣を構えた。
ハルトマンは、混乱の中にいた。
なぜ、彼が自分を助けるのかがわからなかった。
怪物が動いた。
その巨大な体が起き上がり、倒れ込むようにナトに襲いかかる。
ナトは大きく左に迂回し、落ちてくる巨大な質量を躱すと、その黒く爛れた体に『響』を突き刺した。
怪物は奇妙な悲鳴を上げた。
――そして、ナトが突き刺した部分から、爛れた体が固まっていく。
「まさか……!」
ハルトマンは気がついた。
詳しい事態が理解できたわけでは無いが、ナトの剣についた薄い虹色の膜と、黄金の大トカゲの水晶の色を見比べて、うっすらと何かを察したのだ。
「そいつはその水晶が嫌っているんだ! 取り込むと一時的に怯む!!」
ナトはその言葉を聞いて、剣の突き刺さったその場所から一気に引き裂いた。
飛び散る黒い肉片。しかし、開いた傷は小さい。
トカゲの怪物の体液を受けて鈍 となった剣では、この程度が限界だった。
怪物が体の自由を取り戻す。
それと同時に、突然ナトの体は地面に叩きつけられた。
二本の節足が、怪物の大きな体重を乗せて少年を押さえつけていた。
「かはッ!?」
肺から空気が押し出された空気が、たったひとつの逃げ場から一斉に吐き出される。
目の前が点滅する。
まるで岩にでも潰されている様だ。
「う、ぁ……」
声すらまともにでない。
黒い液体が滴り、顔に落ちる。
それは、頰に跡を残して、地面に広がる黒い液体に混ざる。
それから体にいくつかの衝撃が走った。
加えて二本の黒い針のような節足が、ナトの左肩と脇腹を貫いていた。
脇腹には深く突き刺さっていたが、不思議と左肩には大した衝撃はなかった。
見れば、傷口を塞ぐために塗ったトカゲの怪物の固まった体液が、その攻撃を防いでいた。
だが、それでも。
「――――ぁぁっ!?」
貫かれた箇所が、焼けるように熱い。
血が溢れ出して、汚れた服に赤いシミを広げる。
抜こうとするも、そこにかかる重圧は大きく、ビクともしない。
徐々に、体の感覚が麻痺し始める。多量出血のせいだ。
力が抜けてくる。
このままじゃ、まずい――――!!
そんなナトの耳に、タイルを蹴るブーツの音が響いた。
「はあああああぁっ!!」
闇に走る金色の筋。
次に響く甲高い金属音。
ハルトマンの剣が、怪物の節足に跳ね除けられていた。
怪物の視線が、橙色の髪の青年に向く。
襲いかかる威圧に、数歩、後ずさる。
――しかし、その足はしっかりと地面に噛み付いていた。
「お前の相手は、僕だ」
ハルトマンが、巨大な怪物の影を見上げて睨みつける。
「長い間、この世界を歩く為に、ずっと――ずっと、鍛錬を続けてきた。
全てを、本当に何もかもを捨てて!!」
そう叫んだハルトマンに、怪物はその殺意の視線を向けた。
命を刈り取るその爪先が、今まさに、ハルトマンに狙いを定め――。
「ふっ!」
強い鉄の衝突音。
黒い鎧が、節足を跳ね除けていた。
血塗れのその人影は、グリーゼだった。
「あ、貴方は……」
潰れた筈じゃ。
そう言いかけて――ハルトマンは、息を飲んだ。
その鎧の、あらゆる隙間から、赤黒い血が流れ出ていた。
「平気、なのか?」
「問題ありません。ある程度は癒えましたので」
「癒えたって、そんな……」
そう言って、本当に大して気にしている様子もなく、ナトを押さえつけている目の前の怪物に飛びかかった。
節足の、四対のうち数本が、グリーゼを捕らえようと襲いかかる。
身を屈めていくつかを交わし、交わしきれないものは掌底で弾き飛ばし、
ついに怪物の懐に潜り込むと、グリーゼはその殻を上向きに殴り飛ばした。
大きな衝撃音が響き、怪物の大きな体が上へと跳ね上がる。
同時に、ナトの体を押さえつけていた節足が離れる。
その隙を見て、ぐったりとしたナトを引きずり出すと、グリーゼはハルトマンの方へと放り投げた。
無意識に、ハルトマンはそれを抱きとめると、地面に下ろした。
そして、次に驚いた。
何故、今自分は「平民」であるはずの彼に平気で触れられたのか――。
「ナトさん、ハルトマンさん、聞いてください!」
引かないまま、グリーゼは叫んだ。
「今から私は、貴方達を助けることができなくなります。出来ることと言えば、この怪物を止めることくらいでしょう。ですから――」
グリーゼが、ちらりと、こちらに目線を向けた様な気がした。
「後の事は、どうか、よろしくお願いします」
何のことだ。
ハルトマンがそう問いかける前に、それは起こった。
グリーゼの体から、明るい赤の――血とは異なる液体が吹きだした。
それが何度も続き、血と混ざって黒い鎧に模様を作り出す。
「お、おい……」
ハルトマンが声をかけても、反応はない。
苦しそうに呻く声が聞こえてくる。
対して、目の前の怪物が、体勢を立て直しつつある。
まずい。
ハルトマンがそう思った、その時。
何かがへし折れるような、奇妙な音。
その方角を見れば、
グリーゼの鎧の仮面部分が、横筋に大きく割れていた。
ハルトマンと、苦しそうに様子を伺っていたナトは、今度こそ言葉を失った。
そこに見えていたのは、人の顔ではなかった。
大きく広がる、真っ赤な口内。
長い舌、立ち並ぶ鋭い牙。
そして。
二人は、微かに部屋の淀んだ空気が揺れ動いたのを感じた。
次第にそれは大きな流れとなり、どこかへと収束していく。
「……グリーゼ、さん?」
ナトが、そう呟いた。
その異変を、感じ取ったから。
グリーゼが見せる巨大な口内に、空気の束は集まっている様に見えた。
その時、既視感がナトを襲った。
どこかで、見たことがある。
そう、確か、あれは――――。
『魔法』。
「っ! ハルトマンさん、伏せて!」
「は――――」
音が消えた。
慌てて、軋む体を押してハルトマンの体を地面に倒すナト。
衝撃波が、二人を襲う。
一瞬、暗い部屋が真っ白になった。
次に、爆音。
舞い上がる部屋に満ちた黒い液体が、衝撃波により幾らか霧散する。
黒い霧が一瞬、視界を覆う。しかし、すぐにそれは晴れていき――。
「っ……!」
その光景が、現れた。
大きく開けた口から、湯気のような煙を放つグリーゼ。
目の前には、殻と体に大きな穴を開けた怪物と、その背後に、崩れ落ちた壁とその向こうの抉れた黒焦げの土壁。
ハルトマンはその光景に目を疑った。
そして何より――――。
「なん、だ、今の……」
本当に、人間なのか……?
ふとそんな疑問が浮かび上がり、慌てて頭の中から追い出した。
そんな訳ない。さっきまで、普通に話していたじゃないか――。
だが、
「ハ、ハルトマンさん」
「なん――――っ!?」
そんな期待は、すぐに崩れ去る。
二人の目線の先。
そこに佇むグリーゼ――いや、グリーゼだったそれは、赤い液体と血液を滴らせ、咆哮を上げた。
――全身を奮い立たせ、巨大な口内と牙を覗かせながら。
「そんな……おい、どうした!?」
グリーゼは正気を忘れたように、全身を鎧の上から搔きむしり、頭を振り回す。
しかし。
「グリーゼさん!!」
その体は、大きく横に吹き飛ばされた。
殻に穴を開けた怪物が、その節足をもって黒い鎧を吹き飛ばしたのだ。
長身の黒鎧は、何度か地面を跳ねた後、四つん這いになり体勢を整え、怪物に向かって咆哮を浴びせた。
「あの怪物……あれでまだ生きているのか!?」
背負った黒い巻貝には大きく穴が空いている。
それに伴い、本体もいくらか損傷したはずだった。
しかしそれでも、その命は未だそこに留まっていた。
「なんて生命力なんだ……」
ハルトマンがそうこぼした直後、グリーゼは動いた。
四つん這いのまま、まるで荒野を駆ける野生動物のように素早く移動すると、目の前の怪物の殻にその凶暴な顎門で噛み付いた。
噛み砕かれた破片が崩れて落ちる。
だが、それだけだった。
再び、殻の中から不気味な呻き声が聞こえてくる。
それは、以前よりも鮮明なものになっており、尚更人の嘆きの声のように聞こえてくる。
次の瞬間、グリーゼの体を、殻の中から伸びる黒く爛れた二本の手が掴んだ。
人間の手に似たそれは、強い力でグリーゼを締め上げる。
苦しげに呻くグリーゼを高く持ち上げ――まるで、振り子のように地面に叩きつけた。
石タイルが激しく飛び散る。
そんな中、ナトの頬に何かが飛んで、跡を付けていった。
指で拭うと、そこには真っ赤な血が付いていた。
宙を舞う石の礫が静まる中――ゆらりと、人影が立ち上がった。
ナトは顔を明るくする。
しかしそれも一瞬で、人影――グリーゼは、糸が切れたように、地面に倒れ伏した。
ナトがグリーゼを呼びかけようと口を開きかけ、そして、気がついた。
怪物の行動は、まだ終わっていたなかった。
怪物の黒く爛れた手が、まだ伸びている。
「っ! 嘘、だろ……」
やがて、次に殻から出てきたのは、腐りかけたような人間の頭だった。
その眼孔はがらんどうで、しかし、しっかりと殺意を持った何かが、そこから溢れんばかりに降り注いでいる。
それがまるで蔦のように、みるみるうちに長くなる。
ナメクジの尾と棘のついた穴あきの黒い殻、そして節足を持った本体。
そこから伸びる、人の手と頭を持った長い首。
ゆっくりとうねり――それは、グリーゼを捉える。
「――っ!」
「お、おい!」
ハルトマンの制止を聞かずナトが飛び出した。
傷が開き、血が服を貼り付ける。
痛みと共に、溜まったダメージが、動きの邪魔をしてくる。
もう止まってしまいたいと、体が悲鳴を上げている。
でも。
「もう誰も、失いたくないんだ!」
粘土の剣を長く伸びた首に突き刺した。
相変わらず、泥を突いたような感触だった。
だが、怪物は苦しげに呻き声を挙げた。
剣を突き刺した周囲が硬くなる。
「ふっ!」
剣を振り、損傷を与えようとした――その時だった。
長く伸びた首が縮み、急にナトの体に巻きついた。
「っぐ!?」
強い力で締め付けられ、抜け出そうにも抜け出せない。
体から流れた血液が、巻きついた首の隙間から、黒い液体と混ざってぬらぬらと溢れる。
ナトは、痛みを堪えて巻きついた首に、何度も剣を突き刺した。
確かに、手応えはある。
しかし。
「止まらない……!?」
呪いのような呻き声が、聞こえてくる。
気がつけば、人の頭に似た頭部が、こちらに近づいてきていた。
黒く爛れたその頭部は、ナトの目の前まで来ると、どこか嬉しそうに腐った口角を釣り上げた。
そして。
爛れた唇が、震える。
『ミツ、ケ……タ』
掠れた声が、途切れ途切れに響いた。
一瞬、ナトは理解できなかった。
目の前で起きた、その出来事が。
――怪物が、喋った!
しかし、我に帰るのは早かった。
素早く剣を振り、頭蓋骨をかち割らんとする。
が、頭部を捉えた切っ先は、楽器のように美しい旋律を虚しく響かせるだけだった。
その頭部は、殻と同じように、とても硬い骨で守られていた。
「なっ……」
嘲笑うかのように、怪物の口が開く。
二本の手が、ナトの元に迫る。
その時だった。
「はぁっ!」
金色の剣が閃いて、ナトに巻きついていた首を狙う。
しかし、するりと首は少年の体から離れ、その斬撃を避ける。
拘束から逃れ、地面に落ちるナト。
体が訴える痛みに耐えながら、彼は声の方を見上げた。
そこには、剣を握って佇むハルトマンがいた。
「げほっ、ハルトマン、さん……」
バツが悪そうに、ハルトマンはナトを見た。
そして、無言で手を差し伸べてる。
少し呆けたようにそれを見ると、少しだけ笑って、ナトはその手を握った。
「どうします?」
「……どうしようもないだろう。あの殻が断ち切れる力がない限り。もしくは、地道に削る他は……」
怪物を見て、ハルトマンがそういった。
確かに、そうだ。
このままではジリ貧……いや、不利なのはこちら側だ。
「ウ、ウグッ……」
グリーゼが喉の詰まった犬のような呻き声を上げた。
怪物は即座にそれに反応すると、両腕を振り上げ、長い首をしならせ、蹲る鎧に向けて振り下ろした。
「やめ――」
ズドン、と、大きな衝撃。
黒い飛沫が飛び散る。
「グリーゼさん!」
「グリーゼ!」
奥歯を噛み締める。
どうすればいい。
普通に戦えば、負ける。
なら、逃げる?
ナトは、ハルトマンをちらりと見た。
とても、そんな気配はない。
多少の怯えは混じっているものの、戦う戦士の目だ。
なら、そこにある選択肢は一つだろう。
「……ナト?」
ハルトマンが、彼の名を呼ぶ。
少年は、彼が初めて名を呼んでくれた事を嬉しく思い、そして気持ちを切り替えた。
「僕……いや、俺は今から、あの棘粘貝 を倒す事にした。逃げる隙を作ろうとも思っていたんだけど……。
だからもう、ハルトマン……君を止めない。君したいように――俺もそれについていく」
「だから」と、ナトは言った。
「信じて欲しい。今この瞬間だけでもいい。俺は、君の仲間だ」
ナトは振り向くと、ハルトマンに微かな笑顔を向けた。
数秒間、ハルトマンは言葉を出すことができなかった。
しかし。
「わかった」
ばつが悪そうに、短く、そう言って頷いた。
ナトは、満足げな顔をして、前を睨んだ。
その時だった。
宮殿造りのその部屋の中が、突然淡く光り出した。
光源は、ナトの持つその剣だった。
「なっ……」
ハルトマンは言葉を失った。
海のように淡い青色の光が、優しくナトの持つ剣を包み込む。
剣の刃に収束する光は、穏やかで、されど荒れ狂う波のようにうねっている。
楽器の音色のような、響く美しい旋律。
ハルトマンは、その光景に魅入ったように惚けていた。
「これは……」
剣を握るナトは、落ち着いた表情でそれを見ていた。
わかる。
何かが、伝わってくる。
怪物は首を擡 げ、その音に反応した。
対面する、少年と萎びた顔。
青い光と旋律が、それらを包む。
その時、遺構の廊下が何やら騒がしいことに気がついた。
蹄の音が響いてくる。
「……ト、ナト!!」
現れたのは、「マイク」に跨るオーハンスと、その後ろに乗るアメリオだった。
「おいナト、お前、それ……」
二人とも汗だくだった。
ここまで入り組んだ遺構の中を相当飛ばしてきたようだった。
二人も、ナトに起きた異変に、言葉を失っていた。
ナトの持つ剣が、暗闇の中で青く光っている。
それも、おぞましい怪物の目の前で。
その怪物が、動く。
長く伸びた首。
その側面から、無数の節足が新たに生えた。
「なっ!?」
ハルトマンは叫んだ。
オーハンスは目を見開いて何かを叫び、アメリオは左手を添えた右手を前に突き出す。
そして――その節足が、全てナトに襲いかかった。
恐ろしい殺意の塊が、青い光の中に飛び込んで行く。
ナトは。
穏やかな表情で剣を振り上げ、そして。
鐘が鳴る。
その音色と金属が旋律が交差して、青い粒子がうねりだす。
空間が踊り狂うその渦の中で、
縦に一閃。
暗闇に青い軌跡が残る。
美しい、硬い泥が奏でるささやかな旋律と、余韻を残す鐘の音。
「嘘、だろ」
その一太刀は、鈍 である筈の刃は。
何本もの節足を、一度に全て断ち切った。
怪物自身、何が起きたかがわかっていないようだった。
おかしい。
自分の足が、ない。
そして、目の前の少年を見た。
彼は、焦りもない、悲観もない、ただただ穏やかな顔で、こちらを見つめている。
体をうねり、わかりやすい殺意の高ぶりを見せつける怪物。
対し、ナトは動いた。
足を踏み出し、そして次に地を駆けて。
怪物の懐に、潜り込む。
動きの止まった怪物を差し置いて、その光る剣を振るった。
楽器のような音色を残して、その青い刃が怪物に迫る。
そして、怪物の硬い殻を、二つに断ち切った。
花弁が舞うように、青い光の残滓が舞っている。
鳴り響く、震える金属のような美しい旋律が、その静寂を支配する。
吹き出す黒い液体。
地面の暗黒の水たまりに落ちて、幾つもの波紋を作る。
怪物は。
崩れ落ちる視界の中で、ナトを見た。
少年を見つめる瞳、そこには自然の生き物にはない、どこか意思のようなものを微かに感じる。
しかし、決してそれは破壊的なものではない。
どこか、儚げな――。
『ァ……』
霧のように小さな粒子となり空気に溶けて行く青い光。
それと同時に、目の前の怪物は、ボトリと、体を暗色の中に埋めた。
初めは幻覚を疑った。
しかしそれは、現実だった。
「どうして……」
その声は、震えてきた。
平民だからと、罵った。
見放し、差し伸べられた手を払い、剣を向けた。
なのに、何故。
「空気孔ですよ」
「……は?」
「この建物、窓とかあまり無い構造上、どうしても大きな空気孔が必要だったみたいで。
それに気づいた時に、遠くの音がよく聞こえていたことを思い出して、その出どころだった空気孔を辿ってみたら、ここに繋がっていたんです」
トカゲの怪物との戦闘を終えたナトは、グリーゼと初めてここに来た時のことを思い出していた。
あの悲鳴も、思えば空気孔を伝って広間に響いていたのだ。
空気孔は、どの部屋にもあった。
トカゲの怪物が逃げて言ったのもそうだ。
ナトはおもむろにそこから侵入すると、ギリギリ人の歩ける程度の空気孔の中を、怪物の呻き声の方向を伝って歩いて来たのだった。
「違う」
そういうことじゃ無い、とハルトマンは
しかし、それを待たずにナトは動いた。
手に持つ、薄い虹の膜に包まれた銅色の剣。
襲いかかる節足がその腹をすべり、いなされる。
「くっ……」
地面に立てた剣にすがりつき、ナトは崩れ落ちた。
その表情には、疲労の色が濃く見える。
「わからない……貴様が、わからない」
「僕は……はぁ、はぁ、普通の人間ですよ」
剣を杖代わりに起き上がると、再びハルトマンを背後に庇って剣を構えた。
ハルトマンは、混乱の中にいた。
なぜ、彼が自分を助けるのかがわからなかった。
怪物が動いた。
その巨大な体が起き上がり、倒れ込むようにナトに襲いかかる。
ナトは大きく左に迂回し、落ちてくる巨大な質量を躱すと、その黒く爛れた体に『響』を突き刺した。
怪物は奇妙な悲鳴を上げた。
――そして、ナトが突き刺した部分から、爛れた体が固まっていく。
「まさか……!」
ハルトマンは気がついた。
詳しい事態が理解できたわけでは無いが、ナトの剣についた薄い虹色の膜と、黄金の大トカゲの水晶の色を見比べて、うっすらと何かを察したのだ。
「そいつはその水晶が嫌っているんだ! 取り込むと一時的に怯む!!」
ナトはその言葉を聞いて、剣の突き刺さったその場所から一気に引き裂いた。
飛び散る黒い肉片。しかし、開いた傷は小さい。
トカゲの怪物の体液を受けて
怪物が体の自由を取り戻す。
それと同時に、突然ナトの体は地面に叩きつけられた。
二本の節足が、怪物の大きな体重を乗せて少年を押さえつけていた。
「かはッ!?」
肺から空気が押し出された空気が、たったひとつの逃げ場から一斉に吐き出される。
目の前が点滅する。
まるで岩にでも潰されている様だ。
「う、ぁ……」
声すらまともにでない。
黒い液体が滴り、顔に落ちる。
それは、頰に跡を残して、地面に広がる黒い液体に混ざる。
それから体にいくつかの衝撃が走った。
加えて二本の黒い針のような節足が、ナトの左肩と脇腹を貫いていた。
脇腹には深く突き刺さっていたが、不思議と左肩には大した衝撃はなかった。
見れば、傷口を塞ぐために塗ったトカゲの怪物の固まった体液が、その攻撃を防いでいた。
だが、それでも。
「――――ぁぁっ!?」
貫かれた箇所が、焼けるように熱い。
血が溢れ出して、汚れた服に赤いシミを広げる。
抜こうとするも、そこにかかる重圧は大きく、ビクともしない。
徐々に、体の感覚が麻痺し始める。多量出血のせいだ。
力が抜けてくる。
このままじゃ、まずい――――!!
そんなナトの耳に、タイルを蹴るブーツの音が響いた。
「はあああああぁっ!!」
闇に走る金色の筋。
次に響く甲高い金属音。
ハルトマンの剣が、怪物の節足に跳ね除けられていた。
怪物の視線が、橙色の髪の青年に向く。
襲いかかる威圧に、数歩、後ずさる。
――しかし、その足はしっかりと地面に噛み付いていた。
「お前の相手は、僕だ」
ハルトマンが、巨大な怪物の影を見上げて睨みつける。
「長い間、この世界を歩く為に、ずっと――ずっと、鍛錬を続けてきた。
全てを、本当に何もかもを捨てて!!」
そう叫んだハルトマンに、怪物はその殺意の視線を向けた。
命を刈り取るその爪先が、今まさに、ハルトマンに狙いを定め――。
「ふっ!」
強い鉄の衝突音。
黒い鎧が、節足を跳ね除けていた。
血塗れのその人影は、グリーゼだった。
「あ、貴方は……」
潰れた筈じゃ。
そう言いかけて――ハルトマンは、息を飲んだ。
その鎧の、あらゆる隙間から、赤黒い血が流れ出ていた。
「平気、なのか?」
「問題ありません。ある程度は癒えましたので」
「癒えたって、そんな……」
そう言って、本当に大して気にしている様子もなく、ナトを押さえつけている目の前の怪物に飛びかかった。
節足の、四対のうち数本が、グリーゼを捕らえようと襲いかかる。
身を屈めていくつかを交わし、交わしきれないものは掌底で弾き飛ばし、
ついに怪物の懐に潜り込むと、グリーゼはその殻を上向きに殴り飛ばした。
大きな衝撃音が響き、怪物の大きな体が上へと跳ね上がる。
同時に、ナトの体を押さえつけていた節足が離れる。
その隙を見て、ぐったりとしたナトを引きずり出すと、グリーゼはハルトマンの方へと放り投げた。
無意識に、ハルトマンはそれを抱きとめると、地面に下ろした。
そして、次に驚いた。
何故、今自分は「平民」であるはずの彼に平気で触れられたのか――。
「ナトさん、ハルトマンさん、聞いてください!」
引かないまま、グリーゼは叫んだ。
「今から私は、貴方達を助けることができなくなります。出来ることと言えば、この怪物を止めることくらいでしょう。ですから――」
グリーゼが、ちらりと、こちらに目線を向けた様な気がした。
「後の事は、どうか、よろしくお願いします」
何のことだ。
ハルトマンがそう問いかける前に、それは起こった。
グリーゼの体から、明るい赤の――血とは異なる液体が吹きだした。
それが何度も続き、血と混ざって黒い鎧に模様を作り出す。
「お、おい……」
ハルトマンが声をかけても、反応はない。
苦しそうに呻く声が聞こえてくる。
対して、目の前の怪物が、体勢を立て直しつつある。
まずい。
ハルトマンがそう思った、その時。
何かがへし折れるような、奇妙な音。
その方角を見れば、
グリーゼの鎧の仮面部分が、横筋に大きく割れていた。
ハルトマンと、苦しそうに様子を伺っていたナトは、今度こそ言葉を失った。
そこに見えていたのは、人の顔ではなかった。
大きく広がる、真っ赤な口内。
長い舌、立ち並ぶ鋭い牙。
そして。
二人は、微かに部屋の淀んだ空気が揺れ動いたのを感じた。
次第にそれは大きな流れとなり、どこかへと収束していく。
「……グリーゼ、さん?」
ナトが、そう呟いた。
その異変を、感じ取ったから。
グリーゼが見せる巨大な口内に、空気の束は集まっている様に見えた。
その時、既視感がナトを襲った。
どこかで、見たことがある。
そう、確か、あれは――――。
『魔法』。
「っ! ハルトマンさん、伏せて!」
「は――――」
音が消えた。
慌てて、軋む体を押してハルトマンの体を地面に倒すナト。
衝撃波が、二人を襲う。
一瞬、暗い部屋が真っ白になった。
次に、爆音。
舞い上がる部屋に満ちた黒い液体が、衝撃波により幾らか霧散する。
黒い霧が一瞬、視界を覆う。しかし、すぐにそれは晴れていき――。
「っ……!」
その光景が、現れた。
大きく開けた口から、湯気のような煙を放つグリーゼ。
目の前には、殻と体に大きな穴を開けた怪物と、その背後に、崩れ落ちた壁とその向こうの抉れた黒焦げの土壁。
ハルトマンはその光景に目を疑った。
そして何より――――。
「なん、だ、今の……」
本当に、人間なのか……?
ふとそんな疑問が浮かび上がり、慌てて頭の中から追い出した。
そんな訳ない。さっきまで、普通に話していたじゃないか――。
だが、
「ハ、ハルトマンさん」
「なん――――っ!?」
そんな期待は、すぐに崩れ去る。
二人の目線の先。
そこに佇むグリーゼ――いや、グリーゼだったそれは、赤い液体と血液を滴らせ、咆哮を上げた。
――全身を奮い立たせ、巨大な口内と牙を覗かせながら。
「そんな……おい、どうした!?」
グリーゼは正気を忘れたように、全身を鎧の上から搔きむしり、頭を振り回す。
しかし。
「グリーゼさん!!」
その体は、大きく横に吹き飛ばされた。
殻に穴を開けた怪物が、その節足をもって黒い鎧を吹き飛ばしたのだ。
長身の黒鎧は、何度か地面を跳ねた後、四つん這いになり体勢を整え、怪物に向かって咆哮を浴びせた。
「あの怪物……あれでまだ生きているのか!?」
背負った黒い巻貝には大きく穴が空いている。
それに伴い、本体もいくらか損傷したはずだった。
しかしそれでも、その命は未だそこに留まっていた。
「なんて生命力なんだ……」
ハルトマンがそうこぼした直後、グリーゼは動いた。
四つん這いのまま、まるで荒野を駆ける野生動物のように素早く移動すると、目の前の怪物の殻にその凶暴な顎門で噛み付いた。
噛み砕かれた破片が崩れて落ちる。
だが、それだけだった。
再び、殻の中から不気味な呻き声が聞こえてくる。
それは、以前よりも鮮明なものになっており、尚更人の嘆きの声のように聞こえてくる。
次の瞬間、グリーゼの体を、殻の中から伸びる黒く爛れた二本の手が掴んだ。
人間の手に似たそれは、強い力でグリーゼを締め上げる。
苦しげに呻くグリーゼを高く持ち上げ――まるで、振り子のように地面に叩きつけた。
石タイルが激しく飛び散る。
そんな中、ナトの頬に何かが飛んで、跡を付けていった。
指で拭うと、そこには真っ赤な血が付いていた。
宙を舞う石の礫が静まる中――ゆらりと、人影が立ち上がった。
ナトは顔を明るくする。
しかしそれも一瞬で、人影――グリーゼは、糸が切れたように、地面に倒れ伏した。
ナトがグリーゼを呼びかけようと口を開きかけ、そして、気がついた。
怪物の行動は、まだ終わっていたなかった。
怪物の黒く爛れた手が、まだ伸びている。
「っ! 嘘、だろ……」
やがて、次に殻から出てきたのは、腐りかけたような人間の頭だった。
その眼孔はがらんどうで、しかし、しっかりと殺意を持った何かが、そこから溢れんばかりに降り注いでいる。
それがまるで蔦のように、みるみるうちに長くなる。
ナメクジの尾と棘のついた穴あきの黒い殻、そして節足を持った本体。
そこから伸びる、人の手と頭を持った長い首。
ゆっくりとうねり――それは、グリーゼを捉える。
「――っ!」
「お、おい!」
ハルトマンの制止を聞かずナトが飛び出した。
傷が開き、血が服を貼り付ける。
痛みと共に、溜まったダメージが、動きの邪魔をしてくる。
もう止まってしまいたいと、体が悲鳴を上げている。
でも。
「もう誰も、失いたくないんだ!」
粘土の剣を長く伸びた首に突き刺した。
相変わらず、泥を突いたような感触だった。
だが、怪物は苦しげに呻き声を挙げた。
剣を突き刺した周囲が硬くなる。
「ふっ!」
剣を振り、損傷を与えようとした――その時だった。
長く伸びた首が縮み、急にナトの体に巻きついた。
「っぐ!?」
強い力で締め付けられ、抜け出そうにも抜け出せない。
体から流れた血液が、巻きついた首の隙間から、黒い液体と混ざってぬらぬらと溢れる。
ナトは、痛みを堪えて巻きついた首に、何度も剣を突き刺した。
確かに、手応えはある。
しかし。
「止まらない……!?」
呪いのような呻き声が、聞こえてくる。
気がつけば、人の頭に似た頭部が、こちらに近づいてきていた。
黒く爛れたその頭部は、ナトの目の前まで来ると、どこか嬉しそうに腐った口角を釣り上げた。
そして。
爛れた唇が、震える。
『ミツ、ケ……タ』
掠れた声が、途切れ途切れに響いた。
一瞬、ナトは理解できなかった。
目の前で起きた、その出来事が。
――怪物が、喋った!
しかし、我に帰るのは早かった。
素早く剣を振り、頭蓋骨をかち割らんとする。
が、頭部を捉えた切っ先は、楽器のように美しい旋律を虚しく響かせるだけだった。
その頭部は、殻と同じように、とても硬い骨で守られていた。
「なっ……」
嘲笑うかのように、怪物の口が開く。
二本の手が、ナトの元に迫る。
その時だった。
「はぁっ!」
金色の剣が閃いて、ナトに巻きついていた首を狙う。
しかし、するりと首は少年の体から離れ、その斬撃を避ける。
拘束から逃れ、地面に落ちるナト。
体が訴える痛みに耐えながら、彼は声の方を見上げた。
そこには、剣を握って佇むハルトマンがいた。
「げほっ、ハルトマン、さん……」
バツが悪そうに、ハルトマンはナトを見た。
そして、無言で手を差し伸べてる。
少し呆けたようにそれを見ると、少しだけ笑って、ナトはその手を握った。
「どうします?」
「……どうしようもないだろう。あの殻が断ち切れる力がない限り。もしくは、地道に削る他は……」
怪物を見て、ハルトマンがそういった。
確かに、そうだ。
このままではジリ貧……いや、不利なのはこちら側だ。
「ウ、ウグッ……」
グリーゼが喉の詰まった犬のような呻き声を上げた。
怪物は即座にそれに反応すると、両腕を振り上げ、長い首をしならせ、蹲る鎧に向けて振り下ろした。
「やめ――」
ズドン、と、大きな衝撃。
黒い飛沫が飛び散る。
「グリーゼさん!」
「グリーゼ!」
奥歯を噛み締める。
どうすればいい。
普通に戦えば、負ける。
なら、逃げる?
ナトは、ハルトマンをちらりと見た。
とても、そんな気配はない。
多少の怯えは混じっているものの、戦う戦士の目だ。
なら、そこにある選択肢は一つだろう。
「……ナト?」
ハルトマンが、彼の名を呼ぶ。
少年は、彼が初めて名を呼んでくれた事を嬉しく思い、そして気持ちを切り替えた。
「僕……いや、俺は今から、あの
だからもう、ハルトマン……君を止めない。君したいように――俺もそれについていく」
「だから」と、ナトは言った。
「信じて欲しい。今この瞬間だけでもいい。俺は、君の仲間だ」
ナトは振り向くと、ハルトマンに微かな笑顔を向けた。
数秒間、ハルトマンは言葉を出すことができなかった。
しかし。
「わかった」
ばつが悪そうに、短く、そう言って頷いた。
ナトは、満足げな顔をして、前を睨んだ。
その時だった。
宮殿造りのその部屋の中が、突然淡く光り出した。
光源は、ナトの持つその剣だった。
「なっ……」
ハルトマンは言葉を失った。
海のように淡い青色の光が、優しくナトの持つ剣を包み込む。
剣の刃に収束する光は、穏やかで、されど荒れ狂う波のようにうねっている。
楽器の音色のような、響く美しい旋律。
ハルトマンは、その光景に魅入ったように惚けていた。
「これは……」
剣を握るナトは、落ち着いた表情でそれを見ていた。
わかる。
何かが、伝わってくる。
怪物は首を
対面する、少年と萎びた顔。
青い光と旋律が、それらを包む。
その時、遺構の廊下が何やら騒がしいことに気がついた。
蹄の音が響いてくる。
「……ト、ナト!!」
現れたのは、「マイク」に跨るオーハンスと、その後ろに乗るアメリオだった。
「おいナト、お前、それ……」
二人とも汗だくだった。
ここまで入り組んだ遺構の中を相当飛ばしてきたようだった。
二人も、ナトに起きた異変に、言葉を失っていた。
ナトの持つ剣が、暗闇の中で青く光っている。
それも、おぞましい怪物の目の前で。
その怪物が、動く。
長く伸びた首。
その側面から、無数の節足が新たに生えた。
「なっ!?」
ハルトマンは叫んだ。
オーハンスは目を見開いて何かを叫び、アメリオは左手を添えた右手を前に突き出す。
そして――その節足が、全てナトに襲いかかった。
恐ろしい殺意の塊が、青い光の中に飛び込んで行く。
ナトは。
穏やかな表情で剣を振り上げ、そして。
鐘が鳴る。
その音色と金属が旋律が交差して、青い粒子がうねりだす。
空間が踊り狂うその渦の中で、
縦に一閃。
暗闇に青い軌跡が残る。
美しい、硬い泥が奏でるささやかな旋律と、余韻を残す鐘の音。
「嘘、だろ」
その一太刀は、
何本もの節足を、一度に全て断ち切った。
怪物自身、何が起きたかがわかっていないようだった。
おかしい。
自分の足が、ない。
そして、目の前の少年を見た。
彼は、焦りもない、悲観もない、ただただ穏やかな顔で、こちらを見つめている。
体をうねり、わかりやすい殺意の高ぶりを見せつける怪物。
対し、ナトは動いた。
足を踏み出し、そして次に地を駆けて。
怪物の懐に、潜り込む。
動きの止まった怪物を差し置いて、その光る剣を振るった。
楽器のような音色を残して、その青い刃が怪物に迫る。
そして、怪物の硬い殻を、二つに断ち切った。
花弁が舞うように、青い光の残滓が舞っている。
鳴り響く、震える金属のような美しい旋律が、その静寂を支配する。
吹き出す黒い液体。
地面の暗黒の水たまりに落ちて、幾つもの波紋を作る。
怪物は。
崩れ落ちる視界の中で、ナトを見た。
少年を見つめる瞳、そこには自然の生き物にはない、どこか意思のようなものを微かに感じる。
しかし、決してそれは破壊的なものではない。
どこか、儚げな――。
『ァ……』
霧のように小さな粒子となり空気に溶けて行く青い光。
それと同時に、目の前の怪物は、ボトリと、体を暗色の中に埋めた。