第41話 「儚い宴」
文字数 3,027文字
夜も深まり他の皆が寝静まった頃、木の洞に建てつけられた基地の側。
横に倒した丸太の上で、ナトは焚き火の火力を調節しながら薪を乾かす作業を続ける。
作業と言っても、ただ並べて火に当てるだけの事ではあるけれど。
手持ち無沙汰になって、ナトは引き抜いた粘土の剣の薄虹色に輝く腹を、指の平で撫でていた。
結構乱暴に使うことがあったにも関わらず、その表面には目に見えるほどの傷はない。
この表面を覆う固形化した魔物の体液のおかげか、もしくは素材の剣の性能か――どちらにせよ驚くほどの強度だ。
軽く爪でつつけば、金属の打楽器を弾いたような音が切なく響いた。
沼の村で出会ったあの老人は、元気にしているだろうか。
きっとこれは、後戻り出来ない旅。
だから、きっともう会うことが無いとわかってはいても。
それでも、時々振り返りたくなる。
家族で過ごした家がある故郷は、既に自分たちにとっては遠い場所だ。
帰りたくても、丘に登って目で見ることすら敵わないほど。
空を見上げれば、星に囲まれた月が明るく輝いていた。
無音だった森が、急に音を取り戻していくような感覚。
「ナトさん?」
ふと、少女の声がした。
振り向くと、ヨルカがいた。
焦点の定まりきらない様子を見るに、寝起きだろう。
「眠れない?」
「ん……はい、少し」
そう言うと、ヨルカはちょこんとナトの横に座った。
「火の粉が服に付かないようにね」というナトの忠告にもそぞろな様子だ。
しばらく無言の間が続く。
ふと、ヨルカは口を開く。
「ナトさんは寝ないんですか?」
「グリーゼが交代してくれるまでかな」
「いつも、ありがとうございます」
「これが俺の仕事だから」
ナトがそう言うと、また沈黙が訪れる。
対して、音を取り戻した森が歌い出す。
葉が、虫が、梟 が。
開拓され尽くした祖国では、聞くことのなかった歌声だ。
――幻想の大地に生ける者たちが、儚い夜の調 を紡ぎ出す。
ナトはちらりと隣を盗み見た。
すると、出会った頃から変わらない透き通った瞳もこちらを見ていて、何故かすぐにそらされた。
ナトがしばらくそのまま見ていると、徐々にその頬が赤く染まっていく。
思えば、彼女との付き合いはオーハンスの次に長くなる。
この世界に訪れる前から、ずっと一緒だ。
屋敷での生活をかなぐり捨てて、父を探すために旅に出た。きっとそれは美徳だ。
しかし、それはこの世界の事を知って、覚悟の上での言葉であるのか。
それによって捉え方は変わる。ナトも初めは疑っていた。
すぐに家を恋しく思うだろう、そして足手まといになりかねない――そう思っていた。
でも、彼女はついてきた。
強制したわけではない。
彼女の意思で、一度も弱音を吐かず、ついてきた。
ナトは思う。
ヨルカは強い少女だ。
間違いなく。自分よりも。
「あっ、そうだ」
照れ隠しのようにヨルカはそう言うと、丸太から立ち上がり、仕舞ってあった鍋を取り出すと、
少し離れた場所にある巨大な葉を傾け、その先端から滴った大量の夜露を鍋に集める。
少し隣が寂しくなったのを感じつつ、ナトはその様子を見つめる。
そして、戻ったヨルカは篝火の火力を少しだけ上げると、その中に鍋を置いて、甘い香りのする木の枝をいくらか投入する。
次に、ナトが採取してきた硬い葉を持つ植物の茎を取り出すと、ヨルカが身につけていたポーチの中から何かの根っこのような物を取り出した。
「何を作ってるの?」
「もう少しでできますよ」
ヨルカはその根っこを植物の茎に当てると、葉で作った簡易な皿の上で摩り下ろし始めた。
途端、なにやら刺激的な香りがナトの鼻をついた。
「これは?」
「森の村で譲っていただいた、生薬の元になる植物の根です。体が温まるんだそうですよ」
そう言うと、グツグツと煮え出した鍋の中に摩り下ろしたそれを投入する。
鍋を火から下ろすと、「ナトさん、あ、あの、コップください!」と、両手で枝を持ってそれを引っ掛けた鍋を支えるヨルカに、慌ててナトが荷物を弄る。
取り出したのは、一つの木のコップ。
――そうだ、あの怪物に襲われて、もうコップはこれしか残っていないんだった。
そのことを思い出したが、手が限界を迎えたように震えだしたヨルカを見て、慌ててその一杯を差し出した。
湯気の立つ液体が注がれる。
立ち上り、くゆる白い湯気に紛れて、先程の心地よい刺激臭と甘い香りが混ざり合って鼻孔をくすぐる。
「口寂しいかな、と思って。お茶のようなものです」
「お茶とは言わないんだね」
「こんなものをお茶とは呼べません! でも、お口に合うと、その、いいかなって……」
案外貴族というものは、お茶の基準に厳しいのかもしれない。
勝手にそう思いながら、ナトは口をつけた。
夕食の時のジャムとはまた異なる、仄かな甘味。
そして、刺激の強めな香り。
飲み込めば、腹のそこからじんわり温かくなるような感覚。
この時間帯には丁度良い味付けだ。
「美味しいよ、丁度いい塩梅だね」
「そ、そうですか? えへへ……」
照れるように再びナトの隣に座る少女へ、はい、とナトはコップを渡した。
一瞬ためらったようにそれを受け取ると、意を決したようにその小さな口元へと近づけて、含む。
「……ナトさんは、優しいですよね」
「別にお世辞で美味しいって言ってるわけじゃないよ」
「ありがとうございます。でも、私だってお世辞で返したわけじゃないです」
ヨルカは揺れるコップの中身に視線を落とす。
「私、本当に仲間として認めてもらえてるのか、時々心配になるんです」
ポケットに仕舞った、ナトから譲り受けた赤いブローチを触りながら、ヨルカは続ける。
「ナトさんもアメリオさんも、皆すごく優しいから、甘えそうになるんです。
だから、少しでも役に立てたらって、そう思っていろいろするんですけど、なかなか上手く行かなくて」
「俺はヨルカが上手くいってないところなんて、あんまり見たこと無いけど」
「……本当はもっと、できることを増やしたいんです。でも、肝心なところは人に任せっぱなしで」
ヨルカはそう言うと、黙ってうつむいてしまった。
ナトはそんな彼女を見た。
そして数秒の後、焚き火に照らされた、美しい麦穂色の髪に手を乗せた。
「いいんだよ。むしろヨルカは頑張ってる。出会ってこの世界に来た時、俺が想像してたよりもね」
「そう、でしょうか」
「うん」
そう言うと、彼女はコップをもう一口仰ぐと、「ど、どうぞ……」と、ナトに返却した。
再び揺れる炎が落ち着きを見せた時、
ナトは肩に軽く体重が乗るのを感じた。
小さな寝息を立てるその少女の無垢な表情。
どこか遠い記憶と重なる。
赤く染まる銀色が、脳裏にちらりとよぎる。
「……むしろ、俺は」
そっと、焚き火の側にコップを置くと、ヨルカを抱き上げた。
想像よりもずっと軽い体重がナトの両腕にかかるのを感じる。
「俺は、守ることすら――」
少女の顔に視線を落としたその少年の声は、
冷たい夜の闇と真っ赤な焚き火の鳴き声に、紛れて消えた。
横に倒した丸太の上で、ナトは焚き火の火力を調節しながら薪を乾かす作業を続ける。
作業と言っても、ただ並べて火に当てるだけの事ではあるけれど。
手持ち無沙汰になって、ナトは引き抜いた粘土の剣の薄虹色に輝く腹を、指の平で撫でていた。
結構乱暴に使うことがあったにも関わらず、その表面には目に見えるほどの傷はない。
この表面を覆う固形化した魔物の体液のおかげか、もしくは素材の剣の性能か――どちらにせよ驚くほどの強度だ。
軽く爪でつつけば、金属の打楽器を弾いたような音が切なく響いた。
沼の村で出会ったあの老人は、元気にしているだろうか。
きっとこれは、後戻り出来ない旅。
だから、きっともう会うことが無いとわかってはいても。
それでも、時々振り返りたくなる。
家族で過ごした家がある故郷は、既に自分たちにとっては遠い場所だ。
帰りたくても、丘に登って目で見ることすら敵わないほど。
空を見上げれば、星に囲まれた月が明るく輝いていた。
無音だった森が、急に音を取り戻していくような感覚。
「ナトさん?」
ふと、少女の声がした。
振り向くと、ヨルカがいた。
焦点の定まりきらない様子を見るに、寝起きだろう。
「眠れない?」
「ん……はい、少し」
そう言うと、ヨルカはちょこんとナトの横に座った。
「火の粉が服に付かないようにね」というナトの忠告にもそぞろな様子だ。
しばらく無言の間が続く。
ふと、ヨルカは口を開く。
「ナトさんは寝ないんですか?」
「グリーゼが交代してくれるまでかな」
「いつも、ありがとうございます」
「これが俺の仕事だから」
ナトがそう言うと、また沈黙が訪れる。
対して、音を取り戻した森が歌い出す。
葉が、虫が、
開拓され尽くした祖国では、聞くことのなかった歌声だ。
――幻想の大地に生ける者たちが、儚い夜の
ナトはちらりと隣を盗み見た。
すると、出会った頃から変わらない透き通った瞳もこちらを見ていて、何故かすぐにそらされた。
ナトがしばらくそのまま見ていると、徐々にその頬が赤く染まっていく。
思えば、彼女との付き合いはオーハンスの次に長くなる。
この世界に訪れる前から、ずっと一緒だ。
屋敷での生活をかなぐり捨てて、父を探すために旅に出た。きっとそれは美徳だ。
しかし、それはこの世界の事を知って、覚悟の上での言葉であるのか。
それによって捉え方は変わる。ナトも初めは疑っていた。
すぐに家を恋しく思うだろう、そして足手まといになりかねない――そう思っていた。
でも、彼女はついてきた。
強制したわけではない。
彼女の意思で、一度も弱音を吐かず、ついてきた。
ナトは思う。
ヨルカは強い少女だ。
間違いなく。自分よりも。
「あっ、そうだ」
照れ隠しのようにヨルカはそう言うと、丸太から立ち上がり、仕舞ってあった鍋を取り出すと、
少し離れた場所にある巨大な葉を傾け、その先端から滴った大量の夜露を鍋に集める。
少し隣が寂しくなったのを感じつつ、ナトはその様子を見つめる。
そして、戻ったヨルカは篝火の火力を少しだけ上げると、その中に鍋を置いて、甘い香りのする木の枝をいくらか投入する。
次に、ナトが採取してきた硬い葉を持つ植物の茎を取り出すと、ヨルカが身につけていたポーチの中から何かの根っこのような物を取り出した。
「何を作ってるの?」
「もう少しでできますよ」
ヨルカはその根っこを植物の茎に当てると、葉で作った簡易な皿の上で摩り下ろし始めた。
途端、なにやら刺激的な香りがナトの鼻をついた。
「これは?」
「森の村で譲っていただいた、生薬の元になる植物の根です。体が温まるんだそうですよ」
そう言うと、グツグツと煮え出した鍋の中に摩り下ろしたそれを投入する。
鍋を火から下ろすと、「ナトさん、あ、あの、コップください!」と、両手で枝を持ってそれを引っ掛けた鍋を支えるヨルカに、慌ててナトが荷物を弄る。
取り出したのは、一つの木のコップ。
――そうだ、あの怪物に襲われて、もうコップはこれしか残っていないんだった。
そのことを思い出したが、手が限界を迎えたように震えだしたヨルカを見て、慌ててその一杯を差し出した。
湯気の立つ液体が注がれる。
立ち上り、くゆる白い湯気に紛れて、先程の心地よい刺激臭と甘い香りが混ざり合って鼻孔をくすぐる。
「口寂しいかな、と思って。お茶のようなものです」
「お茶とは言わないんだね」
「こんなものをお茶とは呼べません! でも、お口に合うと、その、いいかなって……」
案外貴族というものは、お茶の基準に厳しいのかもしれない。
勝手にそう思いながら、ナトは口をつけた。
夕食の時のジャムとはまた異なる、仄かな甘味。
そして、刺激の強めな香り。
飲み込めば、腹のそこからじんわり温かくなるような感覚。
この時間帯には丁度良い味付けだ。
「美味しいよ、丁度いい塩梅だね」
「そ、そうですか? えへへ……」
照れるように再びナトの隣に座る少女へ、はい、とナトはコップを渡した。
一瞬ためらったようにそれを受け取ると、意を決したようにその小さな口元へと近づけて、含む。
「……ナトさんは、優しいですよね」
「別にお世辞で美味しいって言ってるわけじゃないよ」
「ありがとうございます。でも、私だってお世辞で返したわけじゃないです」
ヨルカは揺れるコップの中身に視線を落とす。
「私、本当に仲間として認めてもらえてるのか、時々心配になるんです」
ポケットに仕舞った、ナトから譲り受けた赤いブローチを触りながら、ヨルカは続ける。
「ナトさんもアメリオさんも、皆すごく優しいから、甘えそうになるんです。
だから、少しでも役に立てたらって、そう思っていろいろするんですけど、なかなか上手く行かなくて」
「俺はヨルカが上手くいってないところなんて、あんまり見たこと無いけど」
「……本当はもっと、できることを増やしたいんです。でも、肝心なところは人に任せっぱなしで」
ヨルカはそう言うと、黙ってうつむいてしまった。
ナトはそんな彼女を見た。
そして数秒の後、焚き火に照らされた、美しい麦穂色の髪に手を乗せた。
「いいんだよ。むしろヨルカは頑張ってる。出会ってこの世界に来た時、俺が想像してたよりもね」
「そう、でしょうか」
「うん」
そう言うと、彼女はコップをもう一口仰ぐと、「ど、どうぞ……」と、ナトに返却した。
再び揺れる炎が落ち着きを見せた時、
ナトは肩に軽く体重が乗るのを感じた。
小さな寝息を立てるその少女の無垢な表情。
どこか遠い記憶と重なる。
赤く染まる銀色が、脳裏にちらりとよぎる。
「……むしろ、俺は」
そっと、焚き火の側にコップを置くと、ヨルカを抱き上げた。
想像よりもずっと軽い体重がナトの両腕にかかるのを感じる。
「俺は、守ることすら――」
少女の顔に視線を落としたその少年の声は、
冷たい夜の闇と真っ赤な焚き火の鳴き声に、紛れて消えた。