第65話 「濁流の獣」

文字数 4,630文字

「ヨルカ、下がって!」

 それは、突然飛び込んできた。
 水を弾き飛ばして現れたその体は、まるで(カエル)のようだった。
 しかし、特異なのはその下半身だ。魚のような尾ひれをもっているが、爬虫類のヌメヌメとした皮膚を持っていた。
 蛙の顔には、うねうねとそこら中から白い触手が生え、くねらせていた。そんな化け物が、彼女たちに今食らいつかんとしていた。

「ぐ、ぉ……っ!?」

 それを、グリーゼが全身で持って受け止めた。
 これ以上後ろに下がれない。そこには、花壇の花のように繊細な少女がいるのだから。
 しかしそれでも、その質量はグリーゼですら支えきれるものではなく、すぐに押し切られてしまう。

「ぐ、あああああああ!!」
「グリーゼさん!!」

 決死の力を振り絞り、なんとか飛び込んできた怪物の慣性を横にずらすと、絡みついてきた怪物と一緒に、立っていた桟橋から奈落へと落ちていった。
 そして、その一瞬後に瓦礫が弾き飛ばされる音が響いた。どうやら、どこかの壁を突き破ったらしい。

「そ、そんな……」

 ぺたりとその場に座り込んでしまうヨルカ。
 強い彼女のことだ、きっと生きているに違いない――そう思いたくても、自分をかばって落ちていったとなれば、話は別だ。
 そもそも、あの怪物は何なんだろう。ここには光る灰が降っていて、怪物は入り込めないはずなのに――。

 そんな事を考えると、となりに誰かが突然現れた。
 それは、顔に笑みを浮かべたマルギリだった。

「マルギリさん! さっき、怪物が、グリーゼさんを……!」
「うん、そうか。とりあえず脱出しよう、ここはもう危険だ」

 そう言うと、ヨルカの華奢な手を強引に引っ張っるマルギリ。
 
「で、でも、グリーゼさんが……」
「うん、それはまた後でね」

 その時、ヨルカは何故だかわからないが、得体のしれない危機感を覚えた。
 そしてそれは、自分を牽引するマルギリに対してだった。

 結局、ヨルカはマルギリに連れられて地上にやってきた。
 現状を把握するために尖塔の上に立ち、その場を俯瞰する。
 そして、そこには驚くべき光景が広がっていた。

「何、これ……」

 灰色の街が、水に覆われていたのだ。
 水路は完全に機能を放棄し、辺りは水浸しになっていた。さらに水位の上昇は勢いを増していた。
 その原因である壁の崩落は遠目にもわかった。そこからは、大量の水がこれでもかというほど流れ出している。

「ああ、貯水湖が崩壊したのか。これはこの街もおしまいだね」
「そ、そんな……一体、どうすれば。とにかく、まずはナトさんたちに合流しないと――」

 ぎゅ、と、引っ張られる感触を感じた。
 ヨルカが振り返ると、にこやかな顔のまま、マルギリが少女の細い肩を掴んでいた。それも痛いくらい、強く。

「あの、マルギリさん……?」
「提案があるんだ。とびきり良い提案なんだ、聞いてくれるかい」

 黒いローブをはためかせて、マルギリは遠くを見ながら言った。
 ヨルカは、なぜだか無性に不安に駆られた。
 その場から、立ち去らないといけないような気がした。

「僕には、僕たちにはね、夢があるんだ」
「夢、ですか……?」
「そう。故郷を創るんだ。僕たちだけの故郷を創るんだ。この世界を――新しく、作り変えるんだ」
「え、えっと……?」

 両手を広げて、少年のように目をキラキラさせてマルギリはそういった。
 世界を作り変える。とても現実的ではない。ヨルカどう受け取ったらいいのか決めかねていた。

「が、頑張ってください」
「うん。それで、終えた暁にはその『場所』に君を招待しようと思っているんだ」
「私を?」
「君には来てもらって……ぜひ、僕の妃として共に世界を治めてほしい!」

 妃。
 その言葉に、一瞬思考が止まった。

「え、ええと、今なんと?」
「妃だよ、僕のお嫁さんだ。大丈夫、大司教様は僕たちに約束してくださったんだ。世界のいくらかを、僕たちにくれるって」
「一体何を……?」

 突飛な話すぎてまとまらない。
 一体何を言っているんだ。

「『アンディア』は、もう計画の要を得ている。後は神子様次第――それも、既に運命に決定づけられているんだ。
 僕らはただ座って待てばいい。君を『アンディア』に招待するよ、一緒に行こう、ヨルカ」

 妃と聞いて、ふと、ナトの顔が浮かんだ。
 ……いやいや、何故最初に彼の顔が浮かぶのだろう。

「あの、ごめんなさい……今私はお父さんを探していて、ご一緒するわけには――」

 そこまで言いかけて、続きの言葉は喉の奥に引っ込んだ。
 ぬるりと、二人の周囲に大きな影が落ちた。

「あ、あの、う、後ろっ!?」

 そこには、先程グリーゼを奈落へ突き落とした怪物が居た。
 口元を赤く濡らしたその怪物は、白いひげをうねうねと揺らして、いつの間にか尖塔のてっぺんからこちらを覗き込んでいた。

「ヨルカ、驚きすぎさ。これくらい造作もないよ」
「こ、これくらい……?」

 その時、眼下で人影が目に入った。
 ナトとアメリオだった。二人が、急ぎ足で街を駆け回っている。
 きっと、この洪水で心配して自分たちを探しに来たのだとヨルカは思った。

「ああ、あそこにいい獲物がいたね」
「獲物って、一体……」
「彼は神子様のお見送りを邪魔する男だ。魔物よ、さあ――踊れ」

 ヒュン、と音を鳴らして、どこからか取り出した棒を振った。
 すると、尖塔の屋根の上にいた怪物は一声叫び、なんとナトたちの元へと飛び込んでいった。

「なっ……!?」

 そこでヨルカは気がついた。
 あの怪物を操っているのは、この男だったのだ!
 ということは、あそこでグリーゼを突き落としたのも、

「まさか、あなたが……」
「君に、彼らは似合わない」

 ニコリと笑って、マルギリはそういった。

「君は絶対に手放さない。『アンディア』へようこそ、ヨルカ」

 そこで、またしてもヨルカは気がついた。
 この黒いローブを、どこかで見かけた気がした。
 それは、沼の村のコリンの屋敷で彼の配下がまとっていたものと同じ、赤い目をした白鳥の刺繍だった!

「あなたは、コリンと同じ――!」
「そう、君たちが殺したコリンは僕の同輩さ。アレはああ見えてキレる男でね、よくやれたものだよ。それとも、彼の慢心に漬け込んだのかな? いつかは足元をすくわれると思っていたけど」

 言いたいことは色々あった。
 しかし、そんな場合ではなかった。
 ヨルカは、尖塔の頂点から、手すりから身を乗り出して、あらん限りの声で叫んだ。

「ナトさん、逃げてくださぁぁぁい!!」






 ヨルカの声と聞き取るのと同時に、ナトはその気配を感じ取っていた。

「マリー!」
「ええ、わかってるわ!」

 銅色の剣を抜き取り身構えるナトに、それは建物の隙間を縫って現れた。

「ふっ」

 一瞬のうちにナトは地面を蹴り、飛び込んでくるその怪物の腹の下に、水しぶきをあげながら滑り込んだ。
 そして、「響」の刃を一番柔らかそうなその薄皮に当て、力の限り引き裂いた――かのように思えた。
 だが、妙に硬い。というより、表面の粘液が切られることを阻害していて、容易に斬りつけることができなかった。

 怪物が建物の壁に突っ込む背後で、滑り抜けたナトは体制を立て直した。

「ナト、下がってて!」

 アメリオが右手を突き出して、そう叫んだ。
 直後、放たれる無色の塊。とてつもない勢いでその怪物を襲った。
 しかし、

「くっ!」
「いやっ、何!?」

 形容詞し難い高周波が、ナトとアメリオを襲った。
 とても耳に触る音で、その音源は怪物からだった。
 直後、驚くべきことに、今にも怪物を襲おうとしていた無色の波動は、まるで風の前の煙が如くかき消えた。

「『魔法』が打ち消された!?」

 さすがのアメリオも動揺を隠せない。いままで、魔法が通じないなんてことはなかった。
 対してナトは、もう切り札が一つしか残っていないことに気がついていた。
 それは、彼の持つ「青い剣」だった。

 しかし、問題があった。
 ここで意識を失えば、徐々に水かさを増すこの街から脱出できないこと。
 そして、きっとその手段は――アメリオに、怒られるということ。

 それに、きっと彼女は見捨てない。
 助けようとして、一緒に水に溺れてしまうだろう。

 どうすればいい。
 一体、どうすれば――!

「ナトおおおおおおおお!!」

 その時だった。
 久しぶりに聞く声を蹄の音が、ナトの耳に届いた。

「オルフ、無事で――――っ!?」
「逃げろおおおおおおお!!」

 遠くから走ってくる彼の姿を見て、顔を綻ばせたアメリオとナトは、すぐにその顔をしかめた。
 マイクに跨って走ってくる彼の後ろから、水路を伝って何かが水しぶきを上げて追いかけてきていた。

「はぁっ、はぁっ、ナト、それにマリーも、良かった無事で!」
「あ、ああ……それよりあれは……?」
「詳しい話は後だ、路地に逃げ込め!」

 言われたとおり、三人は飛び込むように路地へと逃げた。
 対峙していた怪物も、水路を伝ってやってくるその存在に気を取られて、こちらを追ってくる気配はない。

 そして、「それ」は水の中からついに姿を現した。
 白い毛の生えた、猿のような生き物だった。その姿は巨大で、ナトたちが対峙していた蛙のような獣の数倍もある。
 右腕が異常に肥大化していて、それを杖代わりに体重を支えているようだった。

 路地へ逃げ込み、改めて息を整えると、ナトはオーハンスに向き直った。

「改めてオルフ、無事でよかった。それであの怪物は?」
「ああ、多分川で俺たちを襲ったやつだ。追ってきてたんだな、それであの貯水湖にハマって、出られなく鳴って破壊したんだ。言わばこの状況を作った元凶だ」
子攫猿(モリオトシ)……なんだかどこかで見覚えがある気が……」

 猿のような怪物はその咆哮を轟かせる。溢れる水を震わせるその咆哮は、雨の降り止まない街中に響き渡るほどの迫力がある。
 その怪物は目の前の蛙のような怪物を右の豪腕で掴むと、乱暴に地面へと叩きつけた。

「おいあれってお前らを襲ってた怪物だろ? どうにかなるんじゃないか?」
「……もしあれを殺したとして、次の標的は俺たちだ。このままじゃどうにもならない」
「今のうちに逃げるか? ……そう言えば、ヨルカとグリーゼは?」
「合流できてない。だから、逃げるんじゃ無理だ。俺が……あの怪物たちに混じって時間を稼ぐ。すぐに争いが終わらないように調節する」

 ナトがそう言うと、しばらくの間オーハンスは呆れたように言葉を失っていた。

「いやお前、そんな事本当にできるのか?」
「……俺がやらなきゃ、どうにもならないだろ」
「私もまだ魔法は何発か残っているわ!」
「いや、マリーは残ってくれ」
「……どうして?」

 一瞬、アメリオは悲しそうな顔でナトを見た。
 しかしナトは「違う」と首を振って見せた。

「マリーにはやってもらいたい事があるんだ。今から俺の考えを話す、時間がないからよく聞いてくれ――」
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