第10話 「毒に溺れた男」
文字数 5,656文字
この地を治める任を賜ったその日。
信仰と忠誠を心に懐 いた男は、世界の行く末を強く願っていた。
それ故に、理想の世界を作る大いなる使命に携われることが、ただ純粋に誇りだった。
男は元々、都の貴族であった。
聖職者の家系に生まれ、敷かれたレールに乗り、司教となってとある教会を治めていた。
真面目で優秀。
周辺地域の司教からの評価は高く、しかし、それを鼻にかけることはなく。
教皇のお抱え――つまり枢機卿に選ばれるのではないかとさえ、ちらりと噂される程、彼の態度は人々から認められていた。
ある日、報 せが届いた。
仕える大司教からだった。
極秘と書かれたその封を切った男は、一度読んで、目をこすり、何度もその内容を読み返した。
最高級の羊皮紙に綴られた文字。
読み終えた男の手は震えていた。
『特別』を意味する赤いインクが、書斎の天井から下がる照明に照らされている。
――それは、男と、その下につくものを連れた異動を示していた。
男は喜んだ。
真面目であったが、貢献が評価された事は、純粋に嬉しかった。
しかし、次に顔を顰(しか)めた。
「ベルガーデン」とは、どこだろう、と。
鐘の鳴る大地の、夕暮れの沼に栄える村。
その側に、巨大な城のような邸宅が佇んでいた。
そこを管理していた信徒との引き継ぎの手続きを済ませ、男は改めてそこに居座ることとなった。
与えられた使命は、この世界における重要な拠点として、眼下に広がる村と、此処を管理することだった。
男は光栄だった。
そして、早速勇んで仕事に取り組んだ。
そうして過ごして数日が経った頃。
村からの使者がやってきた。
それは、男による統治への抗議だった。
男は困った。
今まで、男に対してそんな声が上がった事なんて、なかった。
彼を知るものは全て、彼に頭を下げて、囲ってもらおうとしていたからだ。
男は考えた。
どうすれば、抑える事ができるだろう。
そして、至った答えが、『仕置き』だった。
男は村からの使者を処刑した。
ただの処刑ではない。錆びた刃物を用いた、斬首。
それをもって、村人の前で、無残に殺して見せた。
決して、男の趣向によるものではない。
昔、反乱の首謀者をそうして罰したと、男は記録で読んだことがあった。
啓蒙 たる男は、そういったことも学んでいた。
村人たちは男を恐れた。
男の統治への反抗は消え、そして、二度と使者は訪れなかった。
男は納得して、胸の中に花が咲いたような満足感を得ていた。
それから、暫くして。
男が執務に明け暮れていると、突然部屋のドアが開け放たれた。
村人がいた。それも、何人も。
男は村人たちに襲われた。
その恨みのこもった視線を見て、男は震えた。
自分のとった行動が、彼らに火を付けたのだと。
しかし、ここで殺される訳にはいかない。主神への貢献という名の、大事な使命がある。
男は、大司教より賜った魔法のメイスを握り、振り下ろした。
初めて扱ったにしては、それはやけにしっくり来る心地がした。
赤い血が、弾けるように部屋に散った。
男の周りにいた村人は、怒りの様相から、まるで危険な猛獣か何かを見るような目つきに変わった。
一人はズボンを何かで濡らし、もう一人は無様に泣き出して、もう一人は吐瀉物 をカーペットにまき散らし始めた。
気がついた。
恐怖の感情の操り方に、気がついてしまった。
そして男は、その喜びに喉を震わせた。
部下たちが駆けつけた頃には、執務室は血の海と化していた。
その中に一人佇んでいたのは、いやらしく顔を歪める男だった。
それから男は部下を従えて、村へと向かった。
そして再び村人の前で人を殺した。
殺して、殺して、殺して、殺して。
若者――特に子供を殺した時の反応は、より芳しいものだった。
だから、子供を中心に捕らえ、殺した。
しかし、子供と言っても、数が限られる。
なるべく慎重に、すぐに死なないようゆっくりと嬲 り、殺す。
そうして。
血塗れの生活の中で。
男の中に芽生えたそれは。
春の新緑のように、勢いよく目を覚ました。
腹の切り裂かれた子供を転がして、その腸 を目の前で潰し、
それを見た村人たちの悲鳴や嗚咽の中で。
男は叫ぶ。
喜びを乗せて、叫ぶ。
「…………ト! ナト!!」
アメリオの声に、目を覚ます。
そして、すべてを投げ出すように、横に飛んだ。
ドスン、と、重い音。
ナトの側で見えない何かがぶつかって、部屋の内装が飛び散った。
「はぁ、はぁ……」
目眩の残る頭を起こし、改めて辺りを見回した。
アメリオがいて、馬に乗るオーハンスとヨルカ。
そして、目の前には、狂った笑みを顔に貼り付ける、豚男。
「こ、ここ今夜のディナーは、し、至高も至高でござりますなぁ……」
喜びに震える狂人を前に、ナトは考えていた。
黒い靄が、彼の頭の中を渦巻いていた。
――村の少女がさらわれたその時から、ずっと。
ゆっくりと立ち上がる。
それを見て、コリンは更に嬉しそうに口角を釣り上げた。
「嬲り、痛めつけ――そして殺す。……この世にこれほどの芸術はござりませぬ!
ああ、主よ! このような贅沢を与えてくださり、ありがとうござりますぅぅぅ!!」
涙を流して叫ぶ男を見て、ナトは深く息を吐いた。
そして、はっきりと、
「お前を殺さなきゃいけない」
そう、口に出した。
ピタリと、叫びが止まった。
男が、ゆっくりと、首を回してナトを見た。
真顔で、次第にその目を丸くする。
「……ワタクシを、殺す?」
「ああ」
男は黙った。
ナトはナイフを握りしめる。
そして――沈黙を切り裂き、男が笑う。
「ワタクシをっ! 殺すっ! ふひっ! ふひひひひひひひっ!
なんて、なんて甘美な響きでござりましょう!!」
コリンは、ゆっくりとメイスを持ち上げた。
そして、銀色のそれを、本当に味わうかのように、美味しそうにベロリと舐めた。
「それは楽しみでござりますなぁ。さぁ……骨の髄まで味わってさしあげましょう!
余すところなく、隅々まで、徹底的に!!」
メイスが振られる。
その瞬間、ナトは目を見開いてそれを見る。
耳をそばだて、神経を研ぎ澄ませる。
――体の中を、電流が走るように。
「支配」、強いて言えば、そういった感覚。
今、体の全てが自分に従っている。
目の前、数歩分の距離。
地面の僅かな埃が舞っているのが見える。
そして、次の瞬間、ナトの鼓膜が揺れた。
反時計回りに、くるりと回る。
踊るようなその動作の直後、ナトの左半身を衝撃が襲った。
――が、吹き飛ばされることはなかった。
回転の後、左肩を手で押さえたナトの背後の壁に無色の質量がぶつかり、大理石の破片が飛び散る。
「回って受け流した……?」
ヨルカの声が震える。
もちろん、ナトが彼ら四人の中で最も身体能力が高いことは、彼女も知っていた。
しかし、あれほどの反射神経と動体視力は、もはや少年の年齢のそれではなかった。
オーハンスは、ふと思い出した。
沼の村に来る前。
『詳しいことはわからない。でも、何か変化が起きたんだ。俺の中で、燃えるように何かが』
自分の親友の身が、此処に来る前に比べて、明らかな変化が起きている。
それが、良い事なのかは、わからない。
酒場の中年男性が言っていたように、もしかしたらこれも「ベルガーデンの不思議な現象」なのかもしれない。
「まだ、まだ、まだぁぁぁ!!」
ヨダレを垂らして、豚男が叫ぶ。
メイスが振り下ろされ、透明な質量がナトをめがけて飛んでくる。
ナトは、疾駆した。
そして、まるで色のないはずのそれが見えているかのように、身を翻して衝撃波を交わしていく。
止まることはなく、再び、肉薄する。
その距離、人一人分。
豚男が笑う。
「跪けぇぇぇぇ!!」
ナトがナイフを構えた、その次の瞬間。
メイスの先端が、地面を叩く。
男の周囲に、衝撃波が広がった。
しかし、ナトは動じない。
足で地面を蹴り飛ばすかのように、一歩飛び退いた。
そして、目の前で衝撃波が霧散したその次の瞬間。
しなるように腕を振るい、ナイフを投げた。
コリンが顔をあげると、次に感じたのは左肩の違和感だった。
それは、軽い衝撃のように感じた。
次第にそこが熱くなり、ジンジンと痛みだしたことを不思議に思い、首を回した。
そこには、ナイフの小さな柄が映えていた。
服が赤く濡れ、同じ色の雫が腕を伝って地面に落ちる。
「う、うぎゃぁぁぁぁぁ!?」
コリンは半狂乱になり、そして引き抜こうと柄に触れるも、
その瞬間に走った鋭い痛みに、慌てて腕を引っ込めた。
「痛いっ……痛い痛い痛い! 痛いのでござりますぅぅぅ……!」
際限なく溢れ出す涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、それでも握ったメイスを薙ぐ。
迫る透明な衝撃波を軽く避けると、ナトは再び駆け出した。
豚男に飛びつくように接近すると、肩に刺さったナイフの柄を握り、一度深く差し込んだ。
「ひぐっ!?」
すぐに引き抜く。鮮血が飛び散るが、少女の血潮に塗(まみ)れたナトは今更気にしない。
そして、狙いを定めようとして、コリンを見下ろして、気が付く。
男が持つ、銀色のメイス。
それに、何かが収束するように、空気が揺らいでいた。
「いいいいいぁっ!!」
男がメイスを突き出した。
生み出された無色の質量。
しかしそれは、今までの物を遥かに超える大きさだ。
密着したその状態から放たれた、ナトの反応を待たずに迫る、容赦のない一撃。
肌がビリビリと震える。目の前が揺れ、髪が後ろへと流れる。
目を見開いて相手を睨みつけるナト。
豚男の勝ち誇ったような醜い笑みが見える。
風を切る音も、次第に消えていく。
そして、肌一枚分の距離までそれが迫り、
――シア。
その時。
ナトの背後。
目の前のそれより、ひと回り大きな衝撃波が、コリン目掛けて飛んできた。
ナトを捉えようとしていた衝撃波と衝突――霧散させ、そのまま通り過ぎてコリンに襲いかかる。
咄嗟に気が付き、身を引こうとしたものの、重い体では思うように動かず、逃げ遅れた手元に直撃する。
一瞬で、あらぬ方向に曲がったコリンの腕。
「ひ、ひぎゃぁぁぁぁっ!?」
力の入らない曲がりきった腕から吹き飛ばされるメイス。
その衝撃で、柄が折れて離れる。
鈍い音立てて、メイスであった残骸が石タイルの床に落ちる。
通り過ぎた衝撃波は、壁に当たって激しい音を立てて破壊した。
大きな穴を開き、そして外の夕暮れの赤い光が邸内を照らす。
ナトは、ハッとして、振り返った。
そこには。
「な、ナト、今――――」
二度目の「魔法」を使い切り、パタリとその場に倒れるアメリオ。
そして、その言葉を最後まで聞く前に、前を向いてナトは走り出した。
最短ルートを、全速力で。
彼の目に映るのは、痛みに叫ぶ男の姿。
ナイフを逆手に持ち替え、振り上げる。
その瞬間、消えかけた蝋燭が大きく燃える。
ナトの脳裏に、再び過 る。
少女が流した涙の軌跡。
最後に囁いた、彼女の言葉。
絶対に。
絶対に、許してはいけない――っ!
「――ぁあああああ!!」
心臓を穿つ一閃が、脂肪の壁に迫る。
その時だった。
「――――だ、ダメです!」
咄嗟の彼女の叫びが、まるで静かな湖畔の水面 をかき混ぜたように、ナトの心を揺らがした。
訳のわからない感情の胎動に、手元が狂う。
狙いは逸れ、曲がった腕の肩に、またしても根本まで深く突き刺さる。
「ぎぁ、がああああああああ!?」
目を剥いて泡を吹きながら、涙と鼻水で顔を汚して痛みに悶えるコリン。
ナトは声の方向を、ゆっくりと振り向く。
彼女は、震えていた。
少年の顔を見た時、ビクリと体を大きく震わせ、俯く。
「ひ、人を……こ、殺すのは、ダメ、です……」
ナトは何も言わずに、目を伏せる少女――ヨルカから視線を逸らし、コリンを見下ろす。
ブルブルと震え、再び刃を飲み込む自らの肩を見て、顔をこれ以上ないほど歪ませている。
握り込んだ柄から、少しだけ力を抜いた。
その時。
「ぴぎゃぁぁぁ!?」
目の前の肥満男が叫んだ。
気が付けば、ハムのようなもう片方の腕も、あらぬ方向へと曲げていた。
そして、少し離れた空中に、小型の剣が舞い飛んでいる。
後ろを見やれば、倒れた状態から微かに顔を上げ、震える腕をこちらに向けた――魔法を使い切ったはずのアメリオの姿があった。
すぐにまた気を失ってしまう。
どうして三度目の魔法を使えたのか、そう考える間も無く、
その直後――ナトの体が動いた。
「ひぎぃっ!? や、やめるのでござります! ワタクシはただ、ワタクシはただ――!!」
節を砕かれた両腕を無理な方向に曲げられ、強制的に行動を制限させられる。
抵抗しようと、ナトの方へと顔を上げる。
「――ぁ」
それから、ナトのその表情を見た彼の、少年への抗議の声は一切上がらなかった。
代わりに、顔を青くして、終止されるがままになっていた。
信仰と忠誠を心に
それ故に、理想の世界を作る大いなる使命に携われることが、ただ純粋に誇りだった。
男は元々、都の貴族であった。
聖職者の家系に生まれ、敷かれたレールに乗り、司教となってとある教会を治めていた。
真面目で優秀。
周辺地域の司教からの評価は高く、しかし、それを鼻にかけることはなく。
教皇のお抱え――つまり枢機卿に選ばれるのではないかとさえ、ちらりと噂される程、彼の態度は人々から認められていた。
ある日、
仕える大司教からだった。
極秘と書かれたその封を切った男は、一度読んで、目をこすり、何度もその内容を読み返した。
最高級の羊皮紙に綴られた文字。
読み終えた男の手は震えていた。
『特別』を意味する赤いインクが、書斎の天井から下がる照明に照らされている。
――それは、男と、その下につくものを連れた異動を示していた。
男は喜んだ。
真面目であったが、貢献が評価された事は、純粋に嬉しかった。
しかし、次に顔を顰(しか)めた。
「ベルガーデン」とは、どこだろう、と。
鐘の鳴る大地の、夕暮れの沼に栄える村。
その側に、巨大な城のような邸宅が佇んでいた。
そこを管理していた信徒との引き継ぎの手続きを済ませ、男は改めてそこに居座ることとなった。
与えられた使命は、この世界における重要な拠点として、眼下に広がる村と、此処を管理することだった。
男は光栄だった。
そして、早速勇んで仕事に取り組んだ。
そうして過ごして数日が経った頃。
村からの使者がやってきた。
それは、男による統治への抗議だった。
男は困った。
今まで、男に対してそんな声が上がった事なんて、なかった。
彼を知るものは全て、彼に頭を下げて、囲ってもらおうとしていたからだ。
男は考えた。
どうすれば、抑える事ができるだろう。
そして、至った答えが、『仕置き』だった。
男は村からの使者を処刑した。
ただの処刑ではない。錆びた刃物を用いた、斬首。
それをもって、村人の前で、無残に殺して見せた。
決して、男の趣向によるものではない。
昔、反乱の首謀者をそうして罰したと、男は記録で読んだことがあった。
村人たちは男を恐れた。
男の統治への反抗は消え、そして、二度と使者は訪れなかった。
男は納得して、胸の中に花が咲いたような満足感を得ていた。
それから、暫くして。
男が執務に明け暮れていると、突然部屋のドアが開け放たれた。
村人がいた。それも、何人も。
男は村人たちに襲われた。
その恨みのこもった視線を見て、男は震えた。
自分のとった行動が、彼らに火を付けたのだと。
しかし、ここで殺される訳にはいかない。主神への貢献という名の、大事な使命がある。
男は、大司教より賜った魔法のメイスを握り、振り下ろした。
初めて扱ったにしては、それはやけにしっくり来る心地がした。
赤い血が、弾けるように部屋に散った。
男の周りにいた村人は、怒りの様相から、まるで危険な猛獣か何かを見るような目つきに変わった。
一人はズボンを何かで濡らし、もう一人は無様に泣き出して、もう一人は
気がついた。
恐怖の感情の操り方に、気がついてしまった。
そして男は、その喜びに喉を震わせた。
部下たちが駆けつけた頃には、執務室は血の海と化していた。
その中に一人佇んでいたのは、いやらしく顔を歪める男だった。
それから男は部下を従えて、村へと向かった。
そして再び村人の前で人を殺した。
殺して、殺して、殺して、殺して。
若者――特に子供を殺した時の反応は、より芳しいものだった。
だから、子供を中心に捕らえ、殺した。
しかし、子供と言っても、数が限られる。
なるべく慎重に、すぐに死なないようゆっくりと
そうして。
血塗れの生活の中で。
男の中に芽生えたそれは。
春の新緑のように、勢いよく目を覚ました。
腹の切り裂かれた子供を転がして、その
それを見た村人たちの悲鳴や嗚咽の中で。
男は叫ぶ。
喜びを乗せて、叫ぶ。
「…………ト! ナト!!」
アメリオの声に、目を覚ます。
そして、すべてを投げ出すように、横に飛んだ。
ドスン、と、重い音。
ナトの側で見えない何かがぶつかって、部屋の内装が飛び散った。
「はぁ、はぁ……」
目眩の残る頭を起こし、改めて辺りを見回した。
アメリオがいて、馬に乗るオーハンスとヨルカ。
そして、目の前には、狂った笑みを顔に貼り付ける、豚男。
「こ、ここ今夜のディナーは、し、至高も至高でござりますなぁ……」
喜びに震える狂人を前に、ナトは考えていた。
黒い靄が、彼の頭の中を渦巻いていた。
――村の少女がさらわれたその時から、ずっと。
ゆっくりと立ち上がる。
それを見て、コリンは更に嬉しそうに口角を釣り上げた。
「嬲り、痛めつけ――そして殺す。……この世にこれほどの芸術はござりませぬ!
ああ、主よ! このような贅沢を与えてくださり、ありがとうござりますぅぅぅ!!」
涙を流して叫ぶ男を見て、ナトは深く息を吐いた。
そして、はっきりと、
「お前を殺さなきゃいけない」
そう、口に出した。
ピタリと、叫びが止まった。
男が、ゆっくりと、首を回してナトを見た。
真顔で、次第にその目を丸くする。
「……ワタクシを、殺す?」
「ああ」
男は黙った。
ナトはナイフを握りしめる。
そして――沈黙を切り裂き、男が笑う。
「ワタクシをっ! 殺すっ! ふひっ! ふひひひひひひひっ!
なんて、なんて甘美な響きでござりましょう!!」
コリンは、ゆっくりとメイスを持ち上げた。
そして、銀色のそれを、本当に味わうかのように、美味しそうにベロリと舐めた。
「それは楽しみでござりますなぁ。さぁ……骨の髄まで味わってさしあげましょう!
余すところなく、隅々まで、徹底的に!!」
メイスが振られる。
その瞬間、ナトは目を見開いてそれを見る。
耳をそばだて、神経を研ぎ澄ませる。
――体の中を、電流が走るように。
「支配」、強いて言えば、そういった感覚。
今、体の全てが自分に従っている。
目の前、数歩分の距離。
地面の僅かな埃が舞っているのが見える。
そして、次の瞬間、ナトの鼓膜が揺れた。
反時計回りに、くるりと回る。
踊るようなその動作の直後、ナトの左半身を衝撃が襲った。
――が、吹き飛ばされることはなかった。
回転の後、左肩を手で押さえたナトの背後の壁に無色の質量がぶつかり、大理石の破片が飛び散る。
「回って受け流した……?」
ヨルカの声が震える。
もちろん、ナトが彼ら四人の中で最も身体能力が高いことは、彼女も知っていた。
しかし、あれほどの反射神経と動体視力は、もはや少年の年齢のそれではなかった。
オーハンスは、ふと思い出した。
沼の村に来る前。
『詳しいことはわからない。でも、何か変化が起きたんだ。俺の中で、燃えるように何かが』
自分の親友の身が、此処に来る前に比べて、明らかな変化が起きている。
それが、良い事なのかは、わからない。
酒場の中年男性が言っていたように、もしかしたらこれも「ベルガーデンの不思議な現象」なのかもしれない。
「まだ、まだ、まだぁぁぁ!!」
ヨダレを垂らして、豚男が叫ぶ。
メイスが振り下ろされ、透明な質量がナトをめがけて飛んでくる。
ナトは、疾駆した。
そして、まるで色のないはずのそれが見えているかのように、身を翻して衝撃波を交わしていく。
止まることはなく、再び、肉薄する。
その距離、人一人分。
豚男が笑う。
「跪けぇぇぇぇ!!」
ナトがナイフを構えた、その次の瞬間。
メイスの先端が、地面を叩く。
男の周囲に、衝撃波が広がった。
しかし、ナトは動じない。
足で地面を蹴り飛ばすかのように、一歩飛び退いた。
そして、目の前で衝撃波が霧散したその次の瞬間。
しなるように腕を振るい、ナイフを投げた。
コリンが顔をあげると、次に感じたのは左肩の違和感だった。
それは、軽い衝撃のように感じた。
次第にそこが熱くなり、ジンジンと痛みだしたことを不思議に思い、首を回した。
そこには、ナイフの小さな柄が映えていた。
服が赤く濡れ、同じ色の雫が腕を伝って地面に落ちる。
「う、うぎゃぁぁぁぁぁ!?」
コリンは半狂乱になり、そして引き抜こうと柄に触れるも、
その瞬間に走った鋭い痛みに、慌てて腕を引っ込めた。
「痛いっ……痛い痛い痛い! 痛いのでござりますぅぅぅ……!」
際限なく溢れ出す涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、それでも握ったメイスを薙ぐ。
迫る透明な衝撃波を軽く避けると、ナトは再び駆け出した。
豚男に飛びつくように接近すると、肩に刺さったナイフの柄を握り、一度深く差し込んだ。
「ひぐっ!?」
すぐに引き抜く。鮮血が飛び散るが、少女の血潮に塗(まみ)れたナトは今更気にしない。
そして、狙いを定めようとして、コリンを見下ろして、気が付く。
男が持つ、銀色のメイス。
それに、何かが収束するように、空気が揺らいでいた。
「いいいいいぁっ!!」
男がメイスを突き出した。
生み出された無色の質量。
しかしそれは、今までの物を遥かに超える大きさだ。
密着したその状態から放たれた、ナトの反応を待たずに迫る、容赦のない一撃。
肌がビリビリと震える。目の前が揺れ、髪が後ろへと流れる。
目を見開いて相手を睨みつけるナト。
豚男の勝ち誇ったような醜い笑みが見える。
風を切る音も、次第に消えていく。
そして、肌一枚分の距離までそれが迫り、
――シア。
その時。
ナトの背後。
目の前のそれより、ひと回り大きな衝撃波が、コリン目掛けて飛んできた。
ナトを捉えようとしていた衝撃波と衝突――霧散させ、そのまま通り過ぎてコリンに襲いかかる。
咄嗟に気が付き、身を引こうとしたものの、重い体では思うように動かず、逃げ遅れた手元に直撃する。
一瞬で、あらぬ方向に曲がったコリンの腕。
「ひ、ひぎゃぁぁぁぁっ!?」
力の入らない曲がりきった腕から吹き飛ばされるメイス。
その衝撃で、柄が折れて離れる。
鈍い音立てて、メイスであった残骸が石タイルの床に落ちる。
通り過ぎた衝撃波は、壁に当たって激しい音を立てて破壊した。
大きな穴を開き、そして外の夕暮れの赤い光が邸内を照らす。
ナトは、ハッとして、振り返った。
そこには。
「な、ナト、今――――」
二度目の「魔法」を使い切り、パタリとその場に倒れるアメリオ。
そして、その言葉を最後まで聞く前に、前を向いてナトは走り出した。
最短ルートを、全速力で。
彼の目に映るのは、痛みに叫ぶ男の姿。
ナイフを逆手に持ち替え、振り上げる。
その瞬間、消えかけた蝋燭が大きく燃える。
ナトの脳裏に、再び
少女が流した涙の軌跡。
最後に囁いた、彼女の言葉。
絶対に。
絶対に、許してはいけない――っ!
「――ぁあああああ!!」
心臓を穿つ一閃が、脂肪の壁に迫る。
その時だった。
「――――だ、ダメです!」
咄嗟の彼女の叫びが、まるで静かな湖畔の
訳のわからない感情の胎動に、手元が狂う。
狙いは逸れ、曲がった腕の肩に、またしても根本まで深く突き刺さる。
「ぎぁ、がああああああああ!?」
目を剥いて泡を吹きながら、涙と鼻水で顔を汚して痛みに悶えるコリン。
ナトは声の方向を、ゆっくりと振り向く。
彼女は、震えていた。
少年の顔を見た時、ビクリと体を大きく震わせ、俯く。
「ひ、人を……こ、殺すのは、ダメ、です……」
ナトは何も言わずに、目を伏せる少女――ヨルカから視線を逸らし、コリンを見下ろす。
ブルブルと震え、再び刃を飲み込む自らの肩を見て、顔をこれ以上ないほど歪ませている。
握り込んだ柄から、少しだけ力を抜いた。
その時。
「ぴぎゃぁぁぁ!?」
目の前の肥満男が叫んだ。
気が付けば、ハムのようなもう片方の腕も、あらぬ方向へと曲げていた。
そして、少し離れた空中に、小型の剣が舞い飛んでいる。
後ろを見やれば、倒れた状態から微かに顔を上げ、震える腕をこちらに向けた――魔法を使い切ったはずのアメリオの姿があった。
すぐにまた気を失ってしまう。
どうして三度目の魔法を使えたのか、そう考える間も無く、
その直後――ナトの体が動いた。
「ひぎぃっ!? や、やめるのでござります! ワタクシはただ、ワタクシはただ――!!」
節を砕かれた両腕を無理な方向に曲げられ、強制的に行動を制限させられる。
抵抗しようと、ナトの方へと顔を上げる。
「――ぁ」
それから、ナトのその表情を見た彼の、少年への抗議の声は一切上がらなかった。
代わりに、顔を青くして、終止されるがままになっていた。