第51話 「まだ幼き日」

文字数 3,412文字

 ひたすら走った。
 孤児院、雑貨店、二つの銅像の前、それから、それから――。
 シアの手を引いて歩いた場所、全て回った。

 後から、仕事をすっぽかしたことに気がついた。
 でも、足は止まらなかった。
 そして次第に、首を横に振り続けている彼らに、苛立ちさえ覚えるようになっていった。

 どこを探しても見つからなかった。
 目撃情報すらなかった。
 そのまま――息も切れ切れに、水路の端にやってきた。

 そこは、もう廃れた水路だった。
 『腐れ爺』や雑多な獣すら住み着くことのない場所だ。
 落ちた枯れ葉は風に吹かれることもなく黒ずんで張り付き、水も通らないので色の薄いつるに蝕まれている。

「っ!」

 その中に一つ、真新しいものがあった。
 それは見覚えのある茶色に光る革靴だった。
 拾い上げれば、一昔前のランプの刻印が刻まれていた。
 かつてシアから聞いた、彼女の通う学院の紋だった。

 水路の先を見た。
 蜘蛛の巣が張る、その奥の――暗闇を。

 この先にシアがいるのだろうか。
 なぜ、こんな場所に?
 聡明な彼女が、このような危険な場所に自ずから訪れるだろうか。

 疑問はあった。
 だが、足はそちらを向いたままだった。

「でも、もしかしたら……」

 誰に言うでもなく、そうして水路の中に足を踏み入れた。

 ――中に入ると、一層肌寒く感じた。
 気の所為ではない。向かう先から、冷たい空気が流れ込んでくるのだ。
 そして、それは臭くなかった。
 青い、雨に濡れた草花の香り。
 この街に、そんな場所が残っているはずが無いのに。

 この場所への立ち入りは禁じられている。
 もちろん公的なものではない。
 口伝(くちづ)てでそう言われていた。

 故に整備も入らない。
 石はところどころ砕け、今にも崩落しそうだ。

 恐らく、かなり古い時代の水路なのだろう。
 五百年以上――いや、もっとだろうか。
 しかし、俺は歴史建造物に聡く無い。そんなこと、わかりっこなかった。
 シアなら、すぐに答えてくれるのだろうけど。

「シア……」

 入れ違いになっただけであっても、それならそれでいい。
 パイは冷めてしまったが、彼女なら笑ってくれるだろう。
 だから、どうか、どうか……。

 全く光の差さない暗闇を進む。
 本当に前を歩いているのか、はたまたいつの間にか来た方向へ戻ってきているのではないだろうか。
 そう思うほど、気が遠くなるほど歩いた。
 いや、自分の中の焦燥がそんな気持ちにさせているのかもしれない。

「なんだって、見つかれば、それで……」

 何も見えな暗闇にに何かを見出そうと、そんなことをつぶやいてみた。
 だが、帰ってきたのは微かな声の反響だけだった。

「ん?」

 だが。
 その先に光が見えたのは、その直後だった。

 希望を求めて、それに向かって走り出した。
 何度か敷き詰められた丸石に足を取られながらも、何かに突き動かされるように、懸命に走った。
 そして――光の漏れる上に空いた穴から抜け出すと。

「ここは……?」

 広い草原。
 視線の先には幅の広い川がか知っており、その向こうには雲が落ちてきたような霧がかかっていた。
 後ろを向けば、見慣れているが、初めて見る――外側からの城壁が見えた。

 どうやら、国の外に出てしまったらしい。
 関所を通らない国外への脱出は原則禁止だ。
 見つかれば厳しく処罰される。

 分かっていても、それでも――。

「行かなくちゃ」

 この足は止まらない。





 川にかかる悪趣味な装飾の掘られた、とても長い石橋を渡った。
 そういえば、「五人の英雄」詩人バジルの話には、この橋の事も出てきた覚えがある。

『遠くかかる石橋ついては注意されよ。そこは既に未開拓領域、かつての人々の遺物の一端なのだから』

 あの伝説は本当だったのかと、今更ながらに驚いた。
 歴史を学ぶシアの瞳が輝く理由が、少し垣間見えた気がした。

 すると、この先にあるのは――。

「未開拓、領域……」

 今更ながら、考えてみればこの方向は東側だ。
 もし、シアが間違えてそんな場所に入ってしまったとすれば。

 自然と足が早足になる。
 そして、すぐに走り出した。
 足元の雑草がつゆで靴を濡らすのも(いと)わずに、霧に向かって草原を駆け抜ける。

 気がつけば。
 辺りは薄靄が立ち込めていた。

 一旦戻ろうと引き返した。
 しかし、いくら歩いても、元の場所に戻される。
 ――出られない。

 だから、観念してその中を、迷わないように真っ直ぐ、慎重に歩いた。
 歩いて、歩いて、そして。

 声が聞こえた。
 聞き覚えのある声――いや、悲鳴。

「シアっ!!」

 なりふり構わずその方向へ走った。
 走って――突然、激痛が走った。
 火傷のようなその痛みに飛び跳ねるも、足に泥のようなものがこびりついて、動かない。

 いや、泥ではない。
 これは――鉛?
 溶けた鉛だ。

「あああぁあぁああ!?」

 めちゃくちゃな悲鳴を上げて、溶けた鉛の沼から脱出しようと試みる。
 が、それどころではなかった。
 炎が体を蝕み、体を思うように動かせない。

 その時だった。

「いやぁぁぁぁっ!?」

 同じような悲鳴が、霧の向こうから聞こえてきた。
 怯えるように縮こまる少女の影と――長い体毛を持つ、何かの影。
 熱いはずなのに、全身の毛が逆立ち、指の先端から冷えてゆく。

「やめろっ……やめてくれっ!!」

 太陽の光もロクに届かない深い霧の中で、その手を伸ばした。
 霧の中を蠢く長い体毛の影が、少女に襲いかかる。

「いや、あ……」

 少女の影が崩れ落ちる。

「あ、あ……」

 情けない声が漏れる。
 感情が入り乱れ、ひっくり返した棚のように何もかもがわからなくなった。

 その影が、こちらを向いた気がした。
 そして。

「シ……ア……」

 衝撃と激痛、そして混乱の濁流に、意識が流れていく。
 最後に、嫌がらせのように一部晴れた霧の隙間。
 光を失った少女の瞳と、目が合った。





 おぼろげな視界に、鉛に肌を焼かれた少女が見えた。
 美しかった瞳は掠れ、しかし、それでも尚――こちらに這いずって、求めるように手を伸ばしてきた。

「駄目……お兄ちゃん、だけは……」

 その白い指先に、手を伸ばす。
 触れ合うその瞬間に、真っ白な霧が最後の気力を刈り取っていった。
 地面に落ちそうになる手を、柔らかい手のひらが受け止めて、か弱く握りしめた。

「イ・ルプトス……イルァ・ユル」

 鈴の音のように、響く少女の声。

「信じてる、お兄ちゃん……」

 暗い霧の中、どよめく鐘の音の隙間に、そんな少女の声が聞こえた。





 その後、俺は目を覚ました。
 不思議なことに、火傷もなかった上に、怪我もしていなかった。
 だけど、彼女は死んでいた。
 眼の前で、少し微笑みながら、赤い石のはめ込まれたブローチをその小さな手に包み込み、それごと俺の手を握って死んでいた。

 それから、子供には――あらゆる意味で重すぎるその遺体を運んだ。
 入ったときには出られなかった霧も、その時になって、何故か初めて出ることができた。

 そして、石橋付近で商隊に保護され、反応を返さないシアと共に国へと戻った。
 何を聞かれても何も言わなかった。言葉が喉から出ていかなかった。
 それでも、あらゆる規範を破ったくせに、不思議と関所の管理人には怒られなかった。

 それから数日が経ったある日、父は家を出て、それから戻ることはなかった。
 母も日々の負担が祟って死界(モルキア)に還された。
 俺は親戚の家に引き取られ、そこで育てられることになった。

 その場所で奴隷のように働かされる中で、俺の中にはある一つの思いが芽生え始めていた。
 静かに、熾火のように赤く燃えるその願望は積もり続けた。

 家で、水路で、身を粉にして働いた。
 得た金は、酒場のカウンターに投げ入れた。
 そして――知り合った貴族の中年男からあらゆる情報を仕入れていった。

 もう一度。
 彼女を奪ったあの場所へ、もう一度。
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