第34話 「しじまの雨 下」
文字数 4,718文字
「へっくちゅ」
濡れた金髪を絞る少女の、小さなくしゃみが洞窟にこだまする。
洞窟に自生する細い枝のような――例えるなら杖のような――傘を持つキノコに、濡れた四人分の衣服が引っ掛けられていた。
湿った匂いが充満する生暖かいその中で、テント諸々に使う布を衣服代わりに着用した四人が座る。
ナトが洞窟の中を探索して漁ってきた、枯れ苔などの着火剤、そして洞窟内に侵入していた薪代わりの枯れた木の根を並べ、オーハンスが『空隠しの森』で譲ってもらった火打石を鳴らす。
彼にとって使うのはこれが初めてだったからか、その音は小気味良いとはお世辞にも言えず、若干不器用さが目立つ。
「なかなか点かないね」
「わ、悪い……」
申し訳なさそうにオーハンスが謝る。
しかし、「あなたのせいではありません」とグリーゼが言う。
「枯れているとはいえ洞窟の物ですし、多少なりとも湿気を吸っているのでしょうね」
「まあ、確かに。それに加えてこの雨だもんな。マリー、虫はもういいから、その『魔法』でどうにかしてくれよ」
「とんでもないわね。疲れる以前に火なんて点けられないわ」
「お前ってそういうやつだったんだな」
「それは少し違うんじゃないかしら」
石と金具が擦り合う音が響く。
火花は散るが、五人が囲むようにそれを見守る中、一向に兆しを見せない。
「あっ」
不意にヨルカが声を上げた。
「ちょっと待っててください!」
腰に下げた、怪物により破れた箇所を縫い合わせたポーチを弄 る彼女は、中から何かを取り出した。
麻の小さな袋に入ったそれは、彼女が紐で締めてある口を開くと、刺激的な香りが漂ってくる。
中には、茶赤や黄色をした、乾いた薬草のようなものが入っていた。
少女がそれを一握り取り出すと、その小さな拳を薪の上に伸ばしてふりかけた。
視線がパラパラと落ちるその何かに集まる。
「あの、貸してもらっていいですか?」
「ん? ああ……」
ヨルカの手に渡った石と鉄が、気持ち不器用に鳴った。
何度かの試行の後、赤い光が空中を走った。
それは飛ぶように薪の上に落ち――そして、その瞬間。
大きな炎が生み出され、一瞬洞窟の中がオレンジ色に照らされた。
目を丸くするオーハンスの横で、すかさずナトが並べられた苔やキノコを火を包みように丸め込む。
何度か息を吹きかけると、やがて中から白い煙が上がり、そしてそれは煌々とした炎へと成長した。薪をくべれば、安定した炎がそこにはあった。
果ての大地に灯る文明の光である。
「ようやく服が乾くわね!」
「どの火力だとどれ位かかるかわからないけどな」
篝火の光が洞窟に満ちる。
煌々と、鼓動を響かせる心臓のように赤いその灯火が、五つの影を作り出す。
その時だった。
まるで狙ったかのように、鐘の音が鳴った。
洞窟の中にいても欠損のない荘厳なそれは、夕暮れを告げる旋律を奏でる。
煤で汚れた頬を拭ったナトは、「さあ」と声を発した。
「そろそろ、ご飯にしよう」
「もう、お芋さんは……ううん」
金髪の少女が、肢体を包み隠す布を引っ張り、夢の中でそう唸る。
そんな少女と、別で雑魚寝をしている少年ともう一人の少女を横目で見つつ、洞窟の入り口で座りながら壁に背を預けるナトは、木のコップをゆっくり仰いだ。
夜の帳が降りた庭園は、厚い雲を天井に纏い未だに泣き続けていた。
決して激しくないそれは、湖面に波紋をしとしと作り続けている。
「見張り、変わりましょうか」
グリーゼが小声でナトに話しかける。
先程まで背に寄りかかって休息をとっていたはずだが、目を覚ましたらしい。
「早いね」
「この体になってから、あまり休眠を必要としなくなりました」
黒い籠手を持ち上げてみせる彼女は、ナトの対面の壁に腰掛けた。
「そう言えば、村を出てからあんまり聞かなかったけど」
「はい」
「人じゃない、って……どういうこと?」
それは、かつて遺構の中で聞いた言葉だった。
グリーゼ、彼女の体は、もう人の物ではない……らしい。
信じ難くは、あるけれど。
「私が、この大地に足を踏み入れた時の話です」
「グリーゼが?」
「ええ。私は、貴族の娘でした。年の離れた弟がいて、家は国の教会の中でもそれなりに高い地位にありました。
ある日、教会から招集がかかりました。私はそれに選ばれ、教会の者の指示に従い、招集された他の貴族達と共に国の外に連れて行かれました」
「教会、って」
ヨルカの父親も教会の命令で、と彼女が言っていた。
「……ああ、そういえばあの時、別の宗派の者の姿も見えました」
「別の宗派?」
「よく覚えていないのですが、確か――あのハルトマンさんと同じ姿の」
ひねり出そうと少し首を捻り、そして一泊間をおいて手を叩く。
「そう、『リ・エディナ』。あの宗教の者たちも、チラチラと見えていました。関係があるかはわかりませんが」
リ・エディナ。
いつだったか、何度か聞いた名だった。
確か、ヨルカが国を出る前に話していた、あまりいい噂のない宗教だ。
「話が逸れましたね。そうして、私達は平原をしばらく進み、そして雲が壁を作るようにそびえ立った深い霧の大地にたどり着きました」
「国を出て、東に進んだ場所だね」
「そう言えば、あなた方も……いえ、話を続けましょう。
私達が霧を抜けると、そこは既にこの大地でした。
そして、次に私達は目隠しをされました。
混乱しました。何しろ、まず普通ではない景色でしたから、私たちも興奮の中にいて、その状況で目を隠された訳です。
何も見えていなくても、馬車の中が不安と緊張で溢れていることくらい、わかりました」
それから、グリーゼは黙って洞窟の外を見た。
ナトには、そんな彼女の姿が、どう話そうかを考えているようにも、どこか自分の中の何かを宥めるようにも見えた。
「話、長いですか?」
不意に、彼女がそんなことを聞いてきた。
漆黒の兜がこちらを向く。
「そんなことないよ。……なぜ?」
「いえ、ただ何となく、自分のことを話すのが苦手で。
ただでさえ、年齢的に場違いであるような気がしますし」
「大丈夫だよ、グリーゼはもう僕たちの仲間だ。誰もそんな事思ってないよ」
「それなら良いのですが」
思ったよりも、グリーゼに気を使わせてしまっていたらしい。
仲間――そう、仲間なのに。
「では、続けます」
「うん、よろしく」
「どこまで話しましたか……ああそうそう、目隠しをされた私達は、そのまましばらく馬車に揺られていました」
グリーゼが仮面の奥で言葉を紡ぐ。
木のコップを仰ぎながら、ナトは雨音を背景に耳を傾ける。
「そしてある時、突然馬車が揺れました。激しく、馬車が壊れるのではと思うほどに。
私達の何人かは外に放り出されてしまい、目隠しを外すとそこはどこかの谷間で、近くで馬車は半壊していて、中に居た人たちはほとんど死んでいました。
どうやら、馬車は苔か何かに車輪を滑らせて、堪えきれず落ちたようでした。
それから、私達は生き残った者だけでどうにか生き延びました。
もちろん、何人も死にました。残っていたのは招集された貴族の者のみでしたから、誰も野外での生活の仕方なんてわかりませんでしたし、多くのプライドの高い者は一人で離れていってしまったので、孤立して――恐らく、死んでいったでしょう。
そこは既に危険な『ベルガーデン』――甘えや誇りの認められない、魔王の膝下でしたから。
そして、私達は理解しました。
上位の神官の間で囁かれていたその話は、本当だったのだと。
本当にこの場所は、私達を返してくれないのだと。
そうして……とうとう、生き残った者は私一人だけとなってしまいました。
と言っても、余裕があったわけでも、私一人が野外生活に長けていたわけではないので、
一人あてもなくフラフラと彷徨っているだけの少女でしかなかった私は、限界をはっきりと理解していました。
その時でした。
丘の下に、なにか黒いものが見えました。
金属のような光沢に縋るように、もうどう痛いのかすらわからなくなった、皮のめくれた足を引きずってそれに近づきました」
グリーゼは、右手を軽く上げてナトに見せた。
そして、言葉を続ける。
「それは、籠手でした。
トカゲの鱗のような装飾がなされていて、それでいて頑丈そうな籠手でした。
特に意味もなく、それを拾って右腕にはめてみました。
大きさが合わずブカブカだったのを今でも覚えています。
そして、それと同時に、体力の限界を迎えて意識を失ったことも」
グリーゼは、右腕を擦る。
金属同士が擦れ合うような微かな音が響く。
「右半身を覆う違和感に、目が覚めました。
気がつけば、すでに体の半分が、黒い鎧のようなもので覆われていました。
泣き叫びましたが、体は徐々にその鎧に覆われていきます。
慌てて籠手を取り外そうとしましたが、まるで体の一部となってしまったかのように、外れません。
それどころか、あんなにぶかぶかだったのに、大きさは変わって居ないはずが、私の腕が太くなったかのように、ピッタリとくっついていました。
しかし、それとは別に、あることに気が付きました。
空腹感も、喉の渇きも、足の痛みも、倦怠感も、その全てが体から消えていました。
しばらくして、私は理解しました。
自分が、そう簡単に死ねない体になったことに」
ナトは思い出した。
遺構の中で、黒く爛れた怪物に潰されたはずのグリーゼが、その後なんともなかったかのように、歩いていたことに。
血は出ていた。それに、死ななくとも確実にどこか壊れていたはずだ。
それなのに無傷で帰ってきた。
「何か治す手立てがあるかもしれない。そう思い、あの村の噂を聞きつけ、この庭園を旅してきました。
ですが、何も成果は得られませんでした」
そう言うと、グリーゼは、ナトを見て肩をすくめてみせた。
「もう、私は人間ではないのでしょう」
「そんな……」
「いえ、悲観するつもりはないのです。そのおかげで命を救われたのですから」
右手を握っては開いてを繰り返すグリーゼは、「さて」と立ち上がり、ナトの背中を押した。
硬い感触が背中に当たる。
「そろそろ寝なさい。ずっと気を張っていたのでしょう?」
「……うん、ありがとう」
ナトはそう言うと、立ち上がり、マイクが寝ている隣に置かれた荷物袋を漁った。
あれ。
漁る手が止まる。
余った布が、もう無い。
仕方がないと、適当な布の中に潜り込み、体を横たわらせた。
既に人肌で暖められているその中は、程よく温かかった。
睡魔に誘われ、意識が奈落へと落ちていく。
そして、次に焚き火の炎が弾けた頃には。
少年は、泥のように眠ってしまっていた。
グリーゼは、その様子を微笑ましげに見守ると、雨の降る外へと目を向けた。
雨は些か小降りのようだった。
明日は、晴れるだろうか。
――いや、そんな事は誰にもわからない。
ここはベルガーデン。
全てとその全ての可能性を孕んだ、鐘の鳴る大地。
こんなに美しくとも、不条理なんて言葉が一番似つかわしい、そんな場所なのだから。
濡れた金髪を絞る少女の、小さなくしゃみが洞窟にこだまする。
洞窟に自生する細い枝のような――例えるなら杖のような――傘を持つキノコに、濡れた四人分の衣服が引っ掛けられていた。
湿った匂いが充満する生暖かいその中で、テント諸々に使う布を衣服代わりに着用した四人が座る。
ナトが洞窟の中を探索して漁ってきた、枯れ苔などの着火剤、そして洞窟内に侵入していた薪代わりの枯れた木の根を並べ、オーハンスが『空隠しの森』で譲ってもらった火打石を鳴らす。
彼にとって使うのはこれが初めてだったからか、その音は小気味良いとはお世辞にも言えず、若干不器用さが目立つ。
「なかなか点かないね」
「わ、悪い……」
申し訳なさそうにオーハンスが謝る。
しかし、「あなたのせいではありません」とグリーゼが言う。
「枯れているとはいえ洞窟の物ですし、多少なりとも湿気を吸っているのでしょうね」
「まあ、確かに。それに加えてこの雨だもんな。マリー、虫はもういいから、その『魔法』でどうにかしてくれよ」
「とんでもないわね。疲れる以前に火なんて点けられないわ」
「お前ってそういうやつだったんだな」
「それは少し違うんじゃないかしら」
石と金具が擦り合う音が響く。
火花は散るが、五人が囲むようにそれを見守る中、一向に兆しを見せない。
「あっ」
不意にヨルカが声を上げた。
「ちょっと待っててください!」
腰に下げた、怪物により破れた箇所を縫い合わせたポーチを
麻の小さな袋に入ったそれは、彼女が紐で締めてある口を開くと、刺激的な香りが漂ってくる。
中には、茶赤や黄色をした、乾いた薬草のようなものが入っていた。
少女がそれを一握り取り出すと、その小さな拳を薪の上に伸ばしてふりかけた。
視線がパラパラと落ちるその何かに集まる。
「あの、貸してもらっていいですか?」
「ん? ああ……」
ヨルカの手に渡った石と鉄が、気持ち不器用に鳴った。
何度かの試行の後、赤い光が空中を走った。
それは飛ぶように薪の上に落ち――そして、その瞬間。
大きな炎が生み出され、一瞬洞窟の中がオレンジ色に照らされた。
目を丸くするオーハンスの横で、すかさずナトが並べられた苔やキノコを火を包みように丸め込む。
何度か息を吹きかけると、やがて中から白い煙が上がり、そしてそれは煌々とした炎へと成長した。薪をくべれば、安定した炎がそこにはあった。
果ての大地に灯る文明の光である。
「ようやく服が乾くわね!」
「どの火力だとどれ位かかるかわからないけどな」
篝火の光が洞窟に満ちる。
煌々と、鼓動を響かせる心臓のように赤いその灯火が、五つの影を作り出す。
その時だった。
まるで狙ったかのように、鐘の音が鳴った。
洞窟の中にいても欠損のない荘厳なそれは、夕暮れを告げる旋律を奏でる。
煤で汚れた頬を拭ったナトは、「さあ」と声を発した。
「そろそろ、ご飯にしよう」
「もう、お芋さんは……ううん」
金髪の少女が、肢体を包み隠す布を引っ張り、夢の中でそう唸る。
そんな少女と、別で雑魚寝をしている少年ともう一人の少女を横目で見つつ、洞窟の入り口で座りながら壁に背を預けるナトは、木のコップをゆっくり仰いだ。
夜の帳が降りた庭園は、厚い雲を天井に纏い未だに泣き続けていた。
決して激しくないそれは、湖面に波紋をしとしと作り続けている。
「見張り、変わりましょうか」
グリーゼが小声でナトに話しかける。
先程まで背に寄りかかって休息をとっていたはずだが、目を覚ましたらしい。
「早いね」
「この体になってから、あまり休眠を必要としなくなりました」
黒い籠手を持ち上げてみせる彼女は、ナトの対面の壁に腰掛けた。
「そう言えば、村を出てからあんまり聞かなかったけど」
「はい」
「人じゃない、って……どういうこと?」
それは、かつて遺構の中で聞いた言葉だった。
グリーゼ、彼女の体は、もう人の物ではない……らしい。
信じ難くは、あるけれど。
「私が、この大地に足を踏み入れた時の話です」
「グリーゼが?」
「ええ。私は、貴族の娘でした。年の離れた弟がいて、家は国の教会の中でもそれなりに高い地位にありました。
ある日、教会から招集がかかりました。私はそれに選ばれ、教会の者の指示に従い、招集された他の貴族達と共に国の外に連れて行かれました」
「教会、って」
ヨルカの父親も教会の命令で、と彼女が言っていた。
「……ああ、そういえばあの時、別の宗派の者の姿も見えました」
「別の宗派?」
「よく覚えていないのですが、確か――あのハルトマンさんと同じ姿の」
ひねり出そうと少し首を捻り、そして一泊間をおいて手を叩く。
「そう、『リ・エディナ』。あの宗教の者たちも、チラチラと見えていました。関係があるかはわかりませんが」
リ・エディナ。
いつだったか、何度か聞いた名だった。
確か、ヨルカが国を出る前に話していた、あまりいい噂のない宗教だ。
「話が逸れましたね。そうして、私達は平原をしばらく進み、そして雲が壁を作るようにそびえ立った深い霧の大地にたどり着きました」
「国を出て、東に進んだ場所だね」
「そう言えば、あなた方も……いえ、話を続けましょう。
私達が霧を抜けると、そこは既にこの大地でした。
そして、次に私達は目隠しをされました。
混乱しました。何しろ、まず普通ではない景色でしたから、私たちも興奮の中にいて、その状況で目を隠された訳です。
何も見えていなくても、馬車の中が不安と緊張で溢れていることくらい、わかりました」
それから、グリーゼは黙って洞窟の外を見た。
ナトには、そんな彼女の姿が、どう話そうかを考えているようにも、どこか自分の中の何かを宥めるようにも見えた。
「話、長いですか?」
不意に、彼女がそんなことを聞いてきた。
漆黒の兜がこちらを向く。
「そんなことないよ。……なぜ?」
「いえ、ただ何となく、自分のことを話すのが苦手で。
ただでさえ、年齢的に場違いであるような気がしますし」
「大丈夫だよ、グリーゼはもう僕たちの仲間だ。誰もそんな事思ってないよ」
「それなら良いのですが」
思ったよりも、グリーゼに気を使わせてしまっていたらしい。
仲間――そう、仲間なのに。
「では、続けます」
「うん、よろしく」
「どこまで話しましたか……ああそうそう、目隠しをされた私達は、そのまましばらく馬車に揺られていました」
グリーゼが仮面の奥で言葉を紡ぐ。
木のコップを仰ぎながら、ナトは雨音を背景に耳を傾ける。
「そしてある時、突然馬車が揺れました。激しく、馬車が壊れるのではと思うほどに。
私達の何人かは外に放り出されてしまい、目隠しを外すとそこはどこかの谷間で、近くで馬車は半壊していて、中に居た人たちはほとんど死んでいました。
どうやら、馬車は苔か何かに車輪を滑らせて、堪えきれず落ちたようでした。
それから、私達は生き残った者だけでどうにか生き延びました。
もちろん、何人も死にました。残っていたのは招集された貴族の者のみでしたから、誰も野外での生活の仕方なんてわかりませんでしたし、多くのプライドの高い者は一人で離れていってしまったので、孤立して――恐らく、死んでいったでしょう。
そこは既に危険な『ベルガーデン』――甘えや誇りの認められない、魔王の膝下でしたから。
そして、私達は理解しました。
上位の神官の間で囁かれていたその話は、本当だったのだと。
本当にこの場所は、私達を返してくれないのだと。
そうして……とうとう、生き残った者は私一人だけとなってしまいました。
と言っても、余裕があったわけでも、私一人が野外生活に長けていたわけではないので、
一人あてもなくフラフラと彷徨っているだけの少女でしかなかった私は、限界をはっきりと理解していました。
その時でした。
丘の下に、なにか黒いものが見えました。
金属のような光沢に縋るように、もうどう痛いのかすらわからなくなった、皮のめくれた足を引きずってそれに近づきました」
グリーゼは、右手を軽く上げてナトに見せた。
そして、言葉を続ける。
「それは、籠手でした。
トカゲの鱗のような装飾がなされていて、それでいて頑丈そうな籠手でした。
特に意味もなく、それを拾って右腕にはめてみました。
大きさが合わずブカブカだったのを今でも覚えています。
そして、それと同時に、体力の限界を迎えて意識を失ったことも」
グリーゼは、右腕を擦る。
金属同士が擦れ合うような微かな音が響く。
「右半身を覆う違和感に、目が覚めました。
気がつけば、すでに体の半分が、黒い鎧のようなもので覆われていました。
泣き叫びましたが、体は徐々にその鎧に覆われていきます。
慌てて籠手を取り外そうとしましたが、まるで体の一部となってしまったかのように、外れません。
それどころか、あんなにぶかぶかだったのに、大きさは変わって居ないはずが、私の腕が太くなったかのように、ピッタリとくっついていました。
しかし、それとは別に、あることに気が付きました。
空腹感も、喉の渇きも、足の痛みも、倦怠感も、その全てが体から消えていました。
しばらくして、私は理解しました。
自分が、そう簡単に死ねない体になったことに」
ナトは思い出した。
遺構の中で、黒く爛れた怪物に潰されたはずのグリーゼが、その後なんともなかったかのように、歩いていたことに。
血は出ていた。それに、死ななくとも確実にどこか壊れていたはずだ。
それなのに無傷で帰ってきた。
「何か治す手立てがあるかもしれない。そう思い、あの村の噂を聞きつけ、この庭園を旅してきました。
ですが、何も成果は得られませんでした」
そう言うと、グリーゼは、ナトを見て肩をすくめてみせた。
「もう、私は人間ではないのでしょう」
「そんな……」
「いえ、悲観するつもりはないのです。そのおかげで命を救われたのですから」
右手を握っては開いてを繰り返すグリーゼは、「さて」と立ち上がり、ナトの背中を押した。
硬い感触が背中に当たる。
「そろそろ寝なさい。ずっと気を張っていたのでしょう?」
「……うん、ありがとう」
ナトはそう言うと、立ち上がり、マイクが寝ている隣に置かれた荷物袋を漁った。
あれ。
漁る手が止まる。
余った布が、もう無い。
仕方がないと、適当な布の中に潜り込み、体を横たわらせた。
既に人肌で暖められているその中は、程よく温かかった。
睡魔に誘われ、意識が奈落へと落ちていく。
そして、次に焚き火の炎が弾けた頃には。
少年は、泥のように眠ってしまっていた。
グリーゼは、その様子を微笑ましげに見守ると、雨の降る外へと目を向けた。
雨は些か小降りのようだった。
明日は、晴れるだろうか。
――いや、そんな事は誰にもわからない。
ここはベルガーデン。
全てとその全ての可能性を孕んだ、鐘の鳴る大地。
こんなに美しくとも、不条理なんて言葉が一番似つかわしい、そんな場所なのだから。