○九九七年、五月九日(一五年前)

文字数 3,147文字

 『ドリフト』に出勤した理亜は黒い揚羽蝶を見た。正確には黒い揚羽蝶が描かれた着物を着たさくらを見た。さくらは美しかった。髪を結い上げ、ちらりと覗くうなじは女の理亜が見てもセクシーで、鏡の前で姿を確かめている仕草は間違いなく和の女だった。
 その優雅な所作に見とれているとさくらが話し掛けてきた。
「理亜、どうしたの」
「あ、ごめんなさい。見とれちゃって……」
「やだ。照れるじゃない」
「本当に綺麗だったから……」
「ありがとう。理亜」
「どうして着物を?」
「ドレスは慣れなくて。店長に聞いたら着物でも良いと言うことなので」
「確かに何人かは他のキャストとの差別化をはかるために着ているわね。でもさくら程洗練されていない。以前どこかで?」
「家が古風だったから、母は家ではいつも着物だったわ。着付けも母に教わったの」
「だった……?もしかして」
「さすがに勘がいいわね。母は亡くなったの」
「ごめんなさい。無神経で」
「そんなこと気にしなくていいのよ。ごめんなさい。いきなり重い話をして。でも理亜になら話しても良いかな。って思って」
「……」
 さくらは理亜を見つめて、いつもの少女のような笑顔を見せた。
「さあ、今日も元気一杯頑張りましょう」
 さくらは腕をぐるぐる回して、まるでこれからスポーツでもしに行くかのようだった。
「あたしも……」
「ん?」
「あたしもさくらと一緒です」
「一緒?」
「あたし、両親いないの」
「……そっか」
 さくらは理亜を抱き締め、そして頭を撫でてくれた。理亜の目から熱いものがこぼれ落ちる。なぜ泣いているのか理亜自身にも解らなかった。たださくらに抱き締められていると、かつてこうして抱き締めてくれた人がいたことを思い出した。
――着物……。そうか……、あの時にも見たような気がする。
 
――何もしてあげられなくてごめんね。
――いつかあなたの笑顔が見てみたいわ。
――あたしはいつでもあなたの味方よ。
 
「さ、行くよ。理亜」
 そう言ってさくらはハンカチを渡して更衣室から出ていった。
 理亜はそのハンカチを握り締めた。久しぶりに人の温もりを感じた。これまでは人の熱を感じることはあっても温もりを感じることはなかった。――熱。そうあの虫酸が走るあの白い液体の熱。唾液、汗。今思い出しても吐き気がする。
 そういう時は感情のスイッチを切ればいい。そうすれば何も感じない。理亜は人形になる。――この身体は自分の身体ではない。人形だ。
 そう思えば耐えられた。でも今はうまくいかない。涙を止めようと感情のスイッチを切ろうとしても切れない。それどころかより涙が溢れてくる。さくらの温もりが身体を包み込んでくる。暖かい涙が頬を伝っていく。
 理亜は自分がどんな醜い顔をしているか見てやろうと思った。更衣室に置いてある鏡に自分を映した。確かに目は腫れ、顔はむくんでいる。――でも……。
「笑ってる……」
 自分の笑顔を初めて見たかもしれない。
「ははは」思わず声が漏れる。
「あたし笑ってる……」
 
 時計を見ると一○分程経っていた。一杯泣いてすっきりした。
 理亜はメイクを直して、更衣室を出た。
 さくらは更衣室の前で待っていてくれた。さくらを見て思わずはにかんだ。自分でもひどくぎこちない微笑みだった。でもそれは間違いなく理亜の笑顔、借り物ではない自分の笑顔だった。さくらは込み上げてくるものがあったのだろうか。目には光るものがあった。しかし、さくらは涙を零すことなく微笑みを返してくれた。
「遅いよ。さあ、お金を稼ぎにいかないと」
「ありがとう。さくら……」
 理亜は年上の後輩を頼もしいと思った。このクラブでは理亜の方が先輩だけど、さくらは理亜よりも遙かに積み重ねたものがある。理亜も地獄を見てきたが、さくらも血反吐を吐く地獄を見てきたのではなかろうか。理亜にはそう思えてならなかった。
――さくらにすべてを話して見ようか……。
 理亜はさくらの後ろを歩きながらそんなことを考えていた。
 その時理亜は疑問に思った。――和服の袖ってあんなに短かったかな。
 理亜は和服を着たことがなかったし、教えてくれる母もいなかったので知らなかった。さくらの着るそれは留袖と呼ばれる着物だということを。
 
 さくらが入店してから二人は、一緒に食事に行くことを日課にしていた。その食事の席で色々なことを相談した。さくらはその度に適切なアドバイスをくれた。
 この日も理亜は仕事が終わってからさくらを食事に誘った。今日、さくらに自分の過去をすべて話そうと思っていた。しかしさくらは今日は用事があると言って断った。
 こんな夜中にどこかに行くのだろうか。理亜の疑問が顔に出たようで、さくらはその疑問に答えてくれた。
「店長に話があるの。長くなりそうだから」
「そう。残念ね」
 本当に残念だった。でも機会はいくらでもある。理亜はそう思って諦めた。
 
 一人で食事をしてもつまらない。理亜は自宅に帰ることにした。今日は久しぶりに自炊でもしようか。そんなことを考えていた。
 コンビニで材料を買って、マンションに帰ると部屋の奥から声がした。
「遅かったな」
 星壱はジャージ姿でテレビを見ていた。
「どうやって入ったの?」
「簡単だよ。俺そういうの得意なんだ」
「次勝手に入ったら本気で殺すわよ」
「やめろよ。怖いなあ」
 星壱は完全に理亜を信頼しているように見えた。あの夜以降、よく部屋を訪れるようになり、色々と愚痴などこぼすようになった。その愚痴は“金がない”とか“俺は会長に相応しい”といった、理亜にとってどうでもいいような内容だった。
「冗談じゃないわ。本気よ」
鋭い目つきで睨むと星壱は萎縮して小さくなった。――めんどうくさい。
 理亜は星壱と協力することを後悔し始めていたが、やむを得ない。星壱は利用できる。もう少しなら我慢できる。理亜は自分にそう言い聞かせた。
「それで成果は?」
「ああ、焦るなよ。俺腹減ってるんだよね」
「調子に乗らないで、成果は?」
 星壱は拗ねたように口を尖らせた。そしてバッグに手を伸ばしてあるものを取りだした。
「やっと見つけたよ。すぐに書かせた」
星壱はそれを理亜に渡した。理亜はそれに目を通すと、満足そうに頷いた。
「僕、よくやったわね」
 理亜が顔を撫でると星壱は猫のように擦り寄ってきた。星壱が自分に気があることは理亜にはお見通しだった。その欲望を理亜は巧みに操っていた。星壱が欲情してきたら、冷たい顔で拒絶した。冷たくした後は優しく接してやる。それを繰り返すだけで星壱は簡単に言うことを聞いた。
「何か作るわ。簡単なものしかできないけど」
「やったぜ」
――可愛そうな人……。家からも追い出されて、あたしなんかに利用されて。
 理亜は同情しながらも冷静に作戦を練っていた。
 うまく行けば武は理亜の元に帰ってくる。武の妻も関係を認めてくれるかもしれない。もちろん不本意だと思うが。――一体どんな人だろう。
 理亜は会えるはずもない人を想像した。しかし、うまく想像できなかった。
 そのためにもこれが必要だった。星壱は役に立った。最後にもう一つ役に立ってもらおう。理亜は武との未来を想像して幸せだった。――時々でいいの。あの人が傍にいてくれたら。
 理亜はそれ以上を望んではいなかった。しかし、理亜は元子という女性の強さ、そして恐ろしさを知らなかった。
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