○九九七年、四月二九日(一五年前)

文字数 5,957文字

「今日で最後だ」
「え?」
 武はベッドの上で唐突に切り出した。ここは二人がいつも利用しているホテルだ。
「今日で最後だ」
 武は再び繰り返した。
「最後ではないわ」
 理亜はまるで動じていないようだった。ホテルの間接照明が理亜の白い肌をより際だたせている。首にはシンプルなダイヤのネックレスが輝いていた。武が最近買ったものだ。理亜は金を与えられることを嫌がった。だから仕方なく物をプレゼントした。不惑の武にとって二〇歳の女の好みなど解るはずもない。店の店員に勧められたものをそのまま買った。それでも理亜はとても喜んでくれた。その笑顔はとても忘れられそうにない。
「いや、最後だ」
 理亜の目を見ることなくベッドから出て、黙ってスーツを着た。顔を見てしまうと抱き締めてしまう気がしたからだ。
 テーブルの上に置いてある理亜のバッグの中に、見慣れない紙袋が入っていた。
「あれはなんだ」
 武は興味本位で聞いた。そしてそれを後悔した。それは自分へのプレゼントに違いないからだ。ネックレスのお返しのつもりなのだろう。
「……」
 理亜は何も答えなかった。
 武は内ポケットから封筒を取りだしてテーブルに置いた。
「少ないが、世話になった礼だ」
 武はもう理亜を見なかった。背を向けたまま振り返ることなく部屋を出た。
 理亜には申し訳ないことをした。ただ性の処理に利用しただけと言われても仕方がない。そう言われることも覚悟していたが、理亜は恨み言ひとつ言わなかった。
 元子に言われてから、一月以上も別れを切り出すことができなかった。理亜の不思議な魅力に憑りつかれていたからだろう。
 男とは理屈では解っていても歯止めが利かない馬鹿な生き物だ。元子を愛しているのに別の女を求めてしまった。これ以上元子を傷つけることはできない。
 武は昨日、父親にも叱られたような気がした。だから別れを決意することができた。
 
 
 残された理亜は呆然とテーブルの上の紙袋と封筒を見つめていた。
 ベッドから降りると、封筒に手を伸ばした。中には札束が入っていた。厚みから判断すると百万円はあるのではないだろうか。
「あたしの値段は百万か……」
 理亜はバッグの中から店の名前が入ったマッチを取り出した。火をつけて札束を燃やした。激しく燃え上がる札束を持ったままバスルームに向かい、バスタブに投げ捨てた。百枚もの赤い炎がゆらゆらと降りていく。湯が張られていないバスタブの中で、百枚の紙幣は時間をかけて燃え尽きた。黒い灰だけを残して。
 
 理亜は無意識の中で服を着てホテルを出た。今日は休日なのでドレスアップはしていない。しかし、特別な日だったのでメイクには時間をかけていた。それもホテルですっかり落ちてしまった。服もおしゃれをしていたが、今はしっかりとは着ていない。上にはキャミソールだけを着て、ジャケットは羽織っていない。左手で持っているものの力が入らず、地面に引き摺っている。
 さらにロングスカートもしっかりはいていないので、時折裾を踏んでしまった。しかしそんなことを気にしている余裕はなかった。
 理亜は紙袋を見つめていた。武に渡そうと思っていたプレゼントだ。武を喜ばせようと何軒も店を回って、やっと納得のいく物を見つけた。それを買った時は武の喜ぶ顔しか想像できなかった。まさかこんなことになるなんて。
 気が付くとタバコ屋の前に立っていた。目の前には『星龍会』の邸宅がある。そこに武がいると思うと切なくなった。自然と涙が零れ落ちる。せっかくここまで来たというのに、武の傍に近づいたというのに。また一人になってしまった。
 ふいに理亜の両肩に何かがかけられた。よく見るとそれはピンクのストールだった。振り向くと梅婆さんが立っていた。
「梅さん……」
「泣きゃあすな。美人が台無しだがね」
 理亜は梅婆さんに抱きついた。梅婆さんはそれを黙って受け止めた。
 
 
 梅婆さんは理亜を奥の和室に招き入れた。
「ありゃ、どこ行ったんやろ」
「誰か居たんですか?」
 梅婆さんはにっこり笑って“猫だがね”と答えた。そして部屋を出ていった。
 しばらくすると急須を持って戻ってきた。煎茶を入れて理亜に手渡した。理亜は一口飲んで緑色の液体を見つめていた。
「暖かい……」
 四月の終わり、気候は暖かくなっている。いや、日によっては暑いと感じる日も少なくない。この日も気候は穏やかで暖かかった。しかし理亜は寒かった。身体がではない、心が寒いのだ。梅婆さんの入れたお茶は暖かく、心に染み渡ってきた。
「ほうだろお。うまいだろお。でも安もんだでね。あんまりええもんじゃないよ」
 そこでようやく理亜は微笑んだ。理亜が笑顔を見せられる相手は武と梅婆さんと後もう一人しかいない。
「おみゃあ、何があった?」
「恋人に捨てられました」
 理亜は微笑んで答えた。それが強がりだということは、梅婆さんにはすぐにばれてしまうと解ってはいたが、強がらずにはいられなかった。
「ほうかね。んでどうするだ」
「解りません。今は何も考えられない」
「ならなんも考えんでええ」
 そう言って梅婆さんは“きゃっきゃ”と笑った。釣られて理亜も笑ってしまった。
 少し落ち着きを取り戻し、改めて部屋を見渡した。この和室がリビングなのだろう。テレビがあり、さらにこの時期なのにコタツが出たままになっている。その奥の部屋は板の間で、そこには意外な物が置かれていた。
「梅さん、パソコンするんですか」
「当たりみゃあだがね。ぶらいんどたっちだでよ」
「すごいですね」
 よく見るとパソコンは三台。モニターは一○台置いてあった。一体こんなに一杯何に使うのだろう。
「多いだろお」
 理亜の疑問が解っているかのように梅婆さんは聞いてきた。
「はい」
「思わず拾ってまうんだわ。いろんなとこに落ちとるでね」
「そうなんですか?」
「ほうだよお。近頃は物を大事にせんでね」
 そう言ってまた“きゃっきゃ”と笑った。
 梅婆さんは理亜に同情することがない。それは理亜にとっては、とても嬉しいことだった。理亜の身の上を知った者はほとんどが同情の目を向けてくる。その度に理亜は叫びたくなる。――あたしはかわいそうなんかじゃない!
 梅婆さんは初めて会った時から何も変わらない。その態度も見た目も。一切変わることなくそこにいる。優しい思い出が目の前にあった。梅婆さんを見ているとほっとする。
 理亜はもう一度梅婆さんに抱きついた。梅婆さんは優しく背中を撫でてくれた。
「うまい菓子があるでね。持ってきたるわ」
 理亜が落ち着いたのと判断したのだろうか。婆さんは席を立って部屋を出て行った。
 
 
 その後、しばらくして理亜はタバコ屋を出ていった。
 梅婆さんと話して少しは元気が出たのだろうか。笑顔も少しは出るようになった。あの子は強い子だから、すぐに気持ちを切り替えてくれるだろう。
「ほんでも」
 もっと人を頼るべきだと梅婆さんは思う。ここへ来ても決して愚痴を言うこともない。年齢の近い相談相手でもいればいいのだが。
 梅婆さんは和室に戻った。
「隠れんでもええのに」
「会えるわけないでしょ。今はまだね」
「ほうか。ほうか」
 梅婆さんは元子の顔見てすべてを理解した。
「憎んでもなんもええことないでな。ほうか。ほうか」
「ふん」
 元子は外方(そっぽ)を向いた。心を見透かされて悔しかったのだろうか。
 
 
 幾分か心が軽くなった。まだ人生が終わったわけではない。いつかまた武の側に寄り添うことができるかもしれない。今の理亜にできることは自分の方から扉を閉ざさないことだけだ。
 もう寄るところもないので、自宅に帰ることにした。
 最近引っ越したマンションは歩いて一五分程の距離にある。
 その前に立つと、よくここまで来たものだと思う。かつては屋根があるだけで有り難かった。それが今は二○階建てのマンションの最上階、3LDKの部屋に住めるようになった。
 武は援助すると言ってくれたが、それだけは絶対に嫌だった。金を受け取ってしまったら理亜の価値が決まってしまう。今まで散々自分に値段を付けられてきた。武にだけは付けられたくなかった。
「百万か……」
 思い出すと泣きそうになる。
 エレベーターに乗り、最上階のボタンを押した。
「すいません。すいません」
 マンションの住民だろうか。男が慌ててエレベーターに飛び込んできた。男は理亜の一つ下の階を押して、もう一度“すいません”と謝った。理亜も軽く会釈した。男は理亜の後ろに立った。
エレベーターで異性と二人きりになると訳もなく緊張する。思わずガラスに反射する男を見てしまう。男も所在なさそうにキョロキョロしている。緊張するのは男性も同じなのだろうか。よく見ると怪我でもしたのか左手に包帯を巻いている。
 ようやく一九階に到着した。男が会釈して降りていく。やっと緊張が溶ける。理亜は溜息を吐いた。わずか数秒のはずが、とても長い時間のように感じた。
 最上階で降り、部屋の鍵を開けて中に入った。
 すると突然背中を押され、訳も分からずに床に倒れてしまった。“ガチャ”と鍵の掛かる音がした。
 理亜は慌てて振り返った。するとすぐに口を押さえられた。包帯の感触と血の臭いが鼻につく。
「騒ぐな。殺すぞ」
 それは紛れもなく先程下の階でエレベーターを降りた男だった。
「見ぃつけた」
 血走った瞳が赤く光る。
 理亜は悪魔を連想した。言いようのない恐怖が理亜を襲う。さらに男はナイフを取りだして理亜の目の前にそれを突き出した。
「目ん玉くり貫かれたくなかったら騒ぐな。いいか?」
 理亜は何度も頷いた。男は口を遮っていた手をゆっくりと外した。こいつは人を殺し慣れている。理亜は直感でそう感じた。――ここは逆らわない方がいい。
 男はナイフをキャミソールの中に忍ばせて内側から切り裂いた。理亜の白い肌が露わになる。それを見て男は唇に舌を這わせた。――気持ちの悪い男。
 さらに男はブラジャーのフロント部分を刃先で切った。そして乳房にナイフを軽くあてた。
「うっ!」
 男はナイフについた理亜の血をゆっくりと味わうように舐めた。
「たまんねえな。このまま殺したくなるぜ。くっくっく」
 男は心底楽しそうにナイフの腹で理亜の身体を撫でる。時折ナイフの刃先が肌に触れ、チクリと痛む。その度に男は流れる血を舐めて恍惚の表情を浮かべた。――こいつまともじゃない。
男の目が理亜の下半身を撫で回す。股の間にナイフを入れキャミソールと同じように内側から切り裂いた。象牙のように白い太股が僅かな光に反射して輝いていた。
 男のよだれが太股にぽとりと落ちる。生暖かい感触が股を伝って下りていく。背筋に“ぞく”と悪寒がはしる。そこで男は初めて素手で太股を触った。包帯の隙間から剥き出しになった親指、人差指、中指の三本の指を器用に動かしてまさぐる様は、まるで昆虫が餌を貪っているようだ。
激しく動いていた指が太股の内側でぴたりと止まる。
「これは……、まさか……」
 男は明らかに動揺していた。呆然と一点を見つめ続けている。そこには消したくても決して消えることのなかった、あの悪夢のように。残ってしまった痕がある。男の指がそこをなぞると指先が波形を描くように動いた。
「お前があの……」
 男の手から零れ落ちたナイフが床に突き刺さり、男はそのまま尻餅をついた。
 急に大人しくなった男は、まるで怯えた団子虫のように丸くなって震えていた。
 
 
「どうぞ」
 理亜は煎茶を男に差し出した。震えは収まったが、その目線は落ち着きなく辺りをさまよっている。
 理亜はなぜかこの男を放っておくことができなかった。そのまま警察に通報すればすむことだった。しかし小さくなって震えている男を見ていると、まるで自分の昔の姿を見ているようで居た堪れなくなった。
「あなたは誰?なぜあたしを知っているの」
 定まっていなかった焦点が理亜に合わさった。間違いない。この人は薬をやっている。理亜は確信した。
 男の唇は小刻みに震えだし、それを押さえ込むように煎茶を一気に飲み干した。理亜は激しくせき込む男の背中をさすってやった。
「武をつけたんだ……」
「武さんを?」
「そしたらお前が現れてホテルに入っていった。武の女に間違いないと思って、今度はお前をつけた」
 全く気がつかなかった。ショックのあまり注意力が散漫になっていたのだろうか。
「なぜ武さんをつけるの」
「弱みを握るためだ。あいつのせいで俺は……、俺はすべてを失ったんだ!」
――まさかこの人は……。
「あなた名前は?」
「田中だ。田中星壱。『星龍会』の会長になる男だ」
 やはりそうか。理亜はすべてを理解した。武に追い出された星壱は武を恨み、弱みを握って失脚させようと目論んでいた。そこで都合よく現れた理亜を見つけて話を聞こうとした。そのついでに欲望も満たそうとした。――さてどうしたものか。
「星壱さん、あなた本当に会長になれるとでも思っているの」
「なに!」
「あんなことをして戻れると本気で思ってる?」
「俺は親父の息子だ!俺が跡継ぎだ!」
――だめだ、これは。
 薬は相当星壱の頭をおかしくしているようだ。理亜は作戦を変えることにした。
「あたしがあなたを会長にしてあげようか」
「お前が?」
「その代わりあたしのことは秘密にしてくれる?」
 理亜は星壱の手を握りしめた。そして耳元で囁いた。
「あなたが『星龍会』の会長よ」
 星壱の目が光を取り戻して、ギラギラと妖しく輝いた。
「どうすればいい」
「その前に約束して。あたしのことは内緒よ」
 そう言って理亜は小指を差し出した。星壱は苦笑いを浮かべた。
「指切りできねえよ。指切ってきたからな」
 理亜はにこりと微笑んで星壱の右手を持ち上げた。
「こっちの手ならできるでしょ」
 理亜は強引に小指を絡ませて、“指切りげんまん”と歌いだした。
「嘘ついたら……、殺すわよ」
 星壱の瞳孔は開いたまま固まった。星壱の意識は理亜の妖艶な微笑みに吸い込まれていった。
 
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