○九九七年、五月一一日(一五年前) 11
文字数 2,839文字
「俺、自首するわ」
星次に借りていた肩を外しながら唐突に言った。
元子と星次は黙って頷いた。
三人は軽自動車に乗り、『星龍会』邸宅の前に停めた。
「刑務所行く前に婆ちゃんに挨拶してくるわ」
「うん」
武は道路を渡ってタバコ屋に向かって歩いた。
車の中から元子は愛する男の背中を見ていた。思えばずっとあの背中を追いかけていた。大きくて逞しい背中――父親とそっくりな――に憧れていた。そして嫉妬もした。父は自分達よりも武を愛していた。血の繋がりなど何の力も持ってはいなかった。でも今はそれでいいと元子は思う。血の繋がりや婚姻関係など無くても立派に男を支えられると教えてくれた人がいた。彼女のように自分も支えていこうと思う。それが父の遺言でもあり、自らの願いだから。星次もそう考えてくれていると元子は信じていた。
「姉さん……」
「ん?」
「あれって……」
星次は前方を指さしていた。元子がその指の先を見ると、公園から一直線に走ってくる影があった。
「兄さん?」
星壱の手には街灯に反射する何かが握られていた。
「まさか!」
元子と星次は同時に車を飛び出した。
武は親父との会話を思い出していた。元々多くを語る男ではない。そんな数少ない会話が今は宝物のように思える。武が命を奪った男は紛れもなく武の目標だった。
――絶対越えてやる!実の父親を殺したこの男の背中をのり越えてやる。それが俺の復讐だ!
武はそう思っていた。しかし親父の背中はあまりに高く、大きく武の前にそびえ立っていた。
――結局越えられなかった。俺は逃げたんだ。だから殺した。
親父の息の根を止めた後、武は親父に語りかけた。もう親父は何も答えてはくれなかった。なぜか涙も出てこなかった。復讐を果たしたというのに、残ったのは空しさだけだった。恐らくこの空しさは一生消えることはないだろう。元子と星次も心のどこかで武を憎み続けることだろう。
だからこそ罰を受ける意味がある。もう二度と彼らに会うことはないだろう。武は覚悟を決めた。
武は不意に何かを感じた。首を巡らすと黒い影がこちらに向かって走ってきた。手にはナイフが握られている。
「星壱……」
武は星壱が何をしようとしているのかがすぐに解った。武は身体の力を抜いた。最後まで星壱とは解り合えなかったが、武はなぜかほっとしていた。武は内心でこうなることを望んでいた。今その時がきた。
“ドン”身体と身体がぶつかった。血塗れの手を震わせて星壱が何かを見ている。武を見ていない。
武は視線を少し下げた。そこには武にしがみついて背中から血を流している理亜がいた。
「理亜……」
「うわあああああああ!」
突然星壱がナイフを自分の腹部に突き刺した。跪くような格好で星壱は動かなくなった。
「理亜、何で」
「これを……」
理亜は紙袋を差し出した。
「二人の記念日……。あの日……、渡せなかった」
武は紙袋を受け取って叫んだ。
「理亜!」
膝から崩れ落ちる理亜を武は抱き締めた。
「美雪と……、美雪と呼んでください」
「美雪?やっぱりお前……」
「もう……支えられなくなりました。ご、ごめんなさい」
「馬鹿……。何で俺なんかのために」
「光……、光だから……」
「美雪!美雪――!」
美雪と呼ばれて、彼女はにこりと微笑んだ。
星次は星壱に駆け寄り、首筋に手を当てた。
「くそ!」
星次は元子の方を見て首を振った。元子は星壱を諦めて、美雪に向き直った。
「美雪……」
元子は背中の傷口に掌を押しつけて圧迫した。
「美雪!大丈夫!すぐに血は止まるわ」
「ね……姉さん」
「約束したでしょう。忘れたの?」
「約束……、護れなくて……、ごめんなさい」
「星次!救急車!」
「ああ、解ってる」
星次はタバコ屋の中に入っていった。
武は美雪の手を握った。
――あの小さかった女の子がこんなに大きく。そうだ、四月二九日。
武は思いだした。初めて彼女に出会った日だ。
かつて小さかった女の子は、青白い顔で横たわっている。――この出血では……。
武は何人もの死を見てきた。その経験から美雪が助からないことは明白だった。
「くそ!」
「武……さん」
「ああ、ここにいる。ここにいるぞ」
「あの日……、あたしは命をもらっ……たんです。あなたのおかげです」
「そんな」
――俺にそんな価値はない!
武はそう叫びたかった。
武は父親を殺した男を憎み、そして殺した。美雪は父親を殺した男を愛し、そしてその男を庇って刺された。この違いはなんだ。武は自分が情けなくなった。こんな男のために美雪を死なせてはいけない。気がつくと武は美雪の手を握り締めていた。
「いいんです。あなたの……命を護って死ねるなら」
美雪は青白い顔で微笑んだ。武の目から涙が溢れ出てきた。
「ありが……とう」
美雪の身体から力が抜けた。武の握った手を握り返すこともなかった。
「美雪?美雪、美雪――――――――!」
遠くでサイレンの音が悲しく鳴り響いていた。
武はその場から逃げ出した。走って、走って、走って、銃で撃たれたことなど忘れてひたすら走った。
気がつくと武は古びたアパートの前に立っていた。
「ここは……」
父親が生きていた時に住んでいたアパートだった。
母が浮気相手と出て行って以来、父は遮二無二働いた。母は親戚などには夫に暴力を振るわれていたなどと吹聴して回っていたそうだが、父は母に暴力を振るったことなどなかった。
それから数年、一生懸命働いても会社は父を認めることはなく、容赦なくリストラされた。そしてとうとう父は酒に溺れ、武に暴力を振るうようになった。おまけに友人に騙されて多額の借金を背負ってしまった。後で解ったことだが、友人は自分が助かるために町金とグルになって父を騙した。近所には父がギャンブルで借金を作ったという嘘の噂まで流された。
武は母がいた頃の、頼りないけど優しい父が大好きだった。
その父を親父が殺した。正確には『星龍会』が父を追いつめ、親父の指示で殺された。
その事を武が知ったのは、屋敷に来て何年も経った後だった。親父を憎んだ。しかし、親父を尊敬している自分にも気がついた。このままではこの憎しみはいつか消えてしまう。それは父への思いを消すことと同義な気がした。
だから親父を殺した。
気が付くと武は美雪からもらった紙袋を握り締めていた。中には箱が入っていて、開けると腕時計と手紙が入っていた。
――愛を込めて。
手紙にはたった一言そう書かれていた。
武は腕時計をはめて歩き始めた。そして近くの警察署に向かい、自首をした。
星次に借りていた肩を外しながら唐突に言った。
元子と星次は黙って頷いた。
三人は軽自動車に乗り、『星龍会』邸宅の前に停めた。
「刑務所行く前に婆ちゃんに挨拶してくるわ」
「うん」
武は道路を渡ってタバコ屋に向かって歩いた。
車の中から元子は愛する男の背中を見ていた。思えばずっとあの背中を追いかけていた。大きくて逞しい背中――父親とそっくりな――に憧れていた。そして嫉妬もした。父は自分達よりも武を愛していた。血の繋がりなど何の力も持ってはいなかった。でも今はそれでいいと元子は思う。血の繋がりや婚姻関係など無くても立派に男を支えられると教えてくれた人がいた。彼女のように自分も支えていこうと思う。それが父の遺言でもあり、自らの願いだから。星次もそう考えてくれていると元子は信じていた。
「姉さん……」
「ん?」
「あれって……」
星次は前方を指さしていた。元子がその指の先を見ると、公園から一直線に走ってくる影があった。
「兄さん?」
星壱の手には街灯に反射する何かが握られていた。
「まさか!」
元子と星次は同時に車を飛び出した。
武は親父との会話を思い出していた。元々多くを語る男ではない。そんな数少ない会話が今は宝物のように思える。武が命を奪った男は紛れもなく武の目標だった。
――絶対越えてやる!実の父親を殺したこの男の背中をのり越えてやる。それが俺の復讐だ!
武はそう思っていた。しかし親父の背中はあまりに高く、大きく武の前にそびえ立っていた。
――結局越えられなかった。俺は逃げたんだ。だから殺した。
親父の息の根を止めた後、武は親父に語りかけた。もう親父は何も答えてはくれなかった。なぜか涙も出てこなかった。復讐を果たしたというのに、残ったのは空しさだけだった。恐らくこの空しさは一生消えることはないだろう。元子と星次も心のどこかで武を憎み続けることだろう。
だからこそ罰を受ける意味がある。もう二度と彼らに会うことはないだろう。武は覚悟を決めた。
武は不意に何かを感じた。首を巡らすと黒い影がこちらに向かって走ってきた。手にはナイフが握られている。
「星壱……」
武は星壱が何をしようとしているのかがすぐに解った。武は身体の力を抜いた。最後まで星壱とは解り合えなかったが、武はなぜかほっとしていた。武は内心でこうなることを望んでいた。今その時がきた。
“ドン”身体と身体がぶつかった。血塗れの手を震わせて星壱が何かを見ている。武を見ていない。
武は視線を少し下げた。そこには武にしがみついて背中から血を流している理亜がいた。
「理亜……」
「うわあああああああ!」
突然星壱がナイフを自分の腹部に突き刺した。跪くような格好で星壱は動かなくなった。
「理亜、何で」
「これを……」
理亜は紙袋を差し出した。
「二人の記念日……。あの日……、渡せなかった」
武は紙袋を受け取って叫んだ。
「理亜!」
膝から崩れ落ちる理亜を武は抱き締めた。
「美雪と……、美雪と呼んでください」
「美雪?やっぱりお前……」
「もう……支えられなくなりました。ご、ごめんなさい」
「馬鹿……。何で俺なんかのために」
「光……、光だから……」
「美雪!美雪――!」
美雪と呼ばれて、彼女はにこりと微笑んだ。
星次は星壱に駆け寄り、首筋に手を当てた。
「くそ!」
星次は元子の方を見て首を振った。元子は星壱を諦めて、美雪に向き直った。
「美雪……」
元子は背中の傷口に掌を押しつけて圧迫した。
「美雪!大丈夫!すぐに血は止まるわ」
「ね……姉さん」
「約束したでしょう。忘れたの?」
「約束……、護れなくて……、ごめんなさい」
「星次!救急車!」
「ああ、解ってる」
星次はタバコ屋の中に入っていった。
武は美雪の手を握った。
――あの小さかった女の子がこんなに大きく。そうだ、四月二九日。
武は思いだした。初めて彼女に出会った日だ。
かつて小さかった女の子は、青白い顔で横たわっている。――この出血では……。
武は何人もの死を見てきた。その経験から美雪が助からないことは明白だった。
「くそ!」
「武……さん」
「ああ、ここにいる。ここにいるぞ」
「あの日……、あたしは命をもらっ……たんです。あなたのおかげです」
「そんな」
――俺にそんな価値はない!
武はそう叫びたかった。
武は父親を殺した男を憎み、そして殺した。美雪は父親を殺した男を愛し、そしてその男を庇って刺された。この違いはなんだ。武は自分が情けなくなった。こんな男のために美雪を死なせてはいけない。気がつくと武は美雪の手を握り締めていた。
「いいんです。あなたの……命を護って死ねるなら」
美雪は青白い顔で微笑んだ。武の目から涙が溢れ出てきた。
「ありが……とう」
美雪の身体から力が抜けた。武の握った手を握り返すこともなかった。
「美雪?美雪、美雪――――――――!」
遠くでサイレンの音が悲しく鳴り響いていた。
武はその場から逃げ出した。走って、走って、走って、銃で撃たれたことなど忘れてひたすら走った。
気がつくと武は古びたアパートの前に立っていた。
「ここは……」
父親が生きていた時に住んでいたアパートだった。
母が浮気相手と出て行って以来、父は遮二無二働いた。母は親戚などには夫に暴力を振るわれていたなどと吹聴して回っていたそうだが、父は母に暴力を振るったことなどなかった。
それから数年、一生懸命働いても会社は父を認めることはなく、容赦なくリストラされた。そしてとうとう父は酒に溺れ、武に暴力を振るうようになった。おまけに友人に騙されて多額の借金を背負ってしまった。後で解ったことだが、友人は自分が助かるために町金とグルになって父を騙した。近所には父がギャンブルで借金を作ったという嘘の噂まで流された。
武は母がいた頃の、頼りないけど優しい父が大好きだった。
その父を親父が殺した。正確には『星龍会』が父を追いつめ、親父の指示で殺された。
その事を武が知ったのは、屋敷に来て何年も経った後だった。親父を憎んだ。しかし、親父を尊敬している自分にも気がついた。このままではこの憎しみはいつか消えてしまう。それは父への思いを消すことと同義な気がした。
だから親父を殺した。
気が付くと武は美雪からもらった紙袋を握り締めていた。中には箱が入っていて、開けると腕時計と手紙が入っていた。
――愛を込めて。
手紙にはたった一言そう書かれていた。
武は腕時計をはめて歩き始めた。そして近くの警察署に向かい、自首をした。