○九九七年、五月一一日(一五年前) 8

文字数 4,373文字

「その必要はないわ」
 元子はもう一度繰り返した。
「あら、会長御自らお出まし?」
「その方が話が早いでしょ」
「そうね。手間が省けたわ」
 さくらは元子に歩み寄っていった。一歩歩く度に深いカーペットと草履が擦れる音が聞こえる。静まり返る部屋ではそれが一層よく聞こえた。さくらは元子のすぐ前まで来た。
「彼らの命と引き替えに、『星龍会』のすべてを渡して頂戴」
 無数の目が元子に集中した。彼女が何と答えるかで道が真っ二つに分かれるだろう。もし脅しに屈したら『星龍会』は解散することになる。しかし断ればその瞬間に『星龍会』と『元舞会』の戦争に発展することになるだろう。元子がすべての鍵を握っていた。
「その前に質問があるわ」
「何かしら」
「このことを会長はご存じなの」
「もちろんご存じよ」
 元子は探るような目線を向けたが、さくらの表情は全く動かなかった。
「そう、ご存じなのね……」
「それがどうかしたのかしら」
「いいえ」
「早く答えを聞かせて頂戴」
 さくらは腕を組み、しきりに指で腕をとんとん叩いていた。元子の意味の解らない質問にイライラしているようだ。
 元子は薄く笑った。再び視線が集中するのを待ってから、さくらへの返事を口にした。
「お断りするわ」
「え?」
「お断りすると言ったのよ」
「あなた、何言ってるか解ってるの!あの二人を見捨てるということなのよ」
「そうよ。煮るなり焼くなり好きにして頂戴」
 さくらが何かを言おうとすると、「但し」と元子がそれを遮った。
「但し、その二人を殺した瞬間にあなたの命は無くなると思いなさい。『星龍会』は全力であなたを殺す。例えその結果『星龍会』が壊滅したとしても」
「あ、あなた自分が何を言ってるか解ってるの!」
「もちろん解ってる。解っていないのはあなたの方よ」
「あたしのどこが解っていないって言うの!」
 さくらは完全に我を失って叫んでいた。
「あたしに喧嘩を売るってことはそういうことよ。死ぬ覚悟で売ってきなさい」
 元子の表情は小揺るぎもしない。本気なのだ。彼女の言っていることはすべて。
「わ、解っていないのは元子さん、あなたよ」
「何が?」
「こんなところにのこのこ現れて、生きて帰れると思ってるの!」
 元子は“ふう”と大げさに溜息を吐いた。
「殺せるものなら殺してみなさい。あたしが死ねばブレーキはきかないわよ。もう誰も止められない。あなたにその覚悟があるかしら」
「ぐぐ」
 さくらの歯軋りする音が聞こえる。悔しいのだ。目の前の女は自分より遙か高いところにいる。会長の娘として、今まですべて思い通りになってきた。それが今はどうだ。圧倒的に有利な立場に居たはずなのに、追いつめられているのは自分達だ。
 しかしさくらには最後にきるカード――ジョーカー――が残っていた。この時さくらが持っていたジョーカーはある意味、死神のカードだった。
「それ程までにあの二人が大切なの?『星龍会』を天秤にかけるほどに」
「……」
「あたしはどちらでも良かったのよ。あなたが提案をのめば『星龍会』が手に入る。断ったとしてもあなたは元夫と肉親を見捨てたという経歴が残る。あたしはそれで良かった。でもあなたはそれで納めようとはしない。徹底的に戦うという。あの二人、いえ、武という男がそれほど大切?」
「……」
 元子は真っ直ぐさくらを見つめたまま何も答えなかった。
「まあ、いいわ。あの男はあなたがそこまでして護る価値のない男よ。あたしがそれを証明してあげる。ヒデ!」
「ほい」
 ヒデは小走りにさくらに近寄って何かを渡した。
「これ何か解る?」
 さくらはそれを摘んで、見せびらかすようにプラプラ揺らした。
「さあ、解らないわね」
「これは『眠眠カプセル』という漢方薬を使った睡眠薬よ。でもただの睡眠薬じゃないわ」
「どういうこと?」
 武の顔がみるみるうちに青くなっていく。
「即効性が高く、深い眠りを誘う」
「やめろ!」
 武が叫んだ。さくらに向かって走り出した。しかし、すぐに近くにいたノブに銃のグリップで頭を殴られて倒されてしまった。一体どうしたというのだろうか。あの薬を見るなり武は急におかしくなった。
「ノブ、ちゃんとその男を押さえておきなさい」
「了解!」
 ノブは倒れた武の首筋を力強く踏みつけた。「ぐ」と呻く武などお構いなしだ。
「この薬が何だっていうの?」
「まあまあ、そう慌てないでよ」
 さくらは楽しそうにそしてからかうように両手を振った。彼女の表情には余裕が戻ってきている。
「ヒデまだなの?」
「え?」
 ヒデはさくらの後ろでぼうっとしていた。
「何やってるの!早くあれを準備して!この間流れを説明したでしょ」
「あ!ごめん」
 ヒデは慌てて駆けだした。
「全くこの間もカフェで油を売って……。あたしが急かさなきゃ動かないんだから……。電話までさせて、全く」
 後半はどんどん愚痴になっていった。
「はい、はい、はい、はい。今すぐに!」
 ヒデが屏風の裏からテレビとビデオデッキが乗ったキャスターを運んできた。そしてテープをデッキにセットした。
「姉さん、準備いいよ」
「再生して」
 “ガチャ”という音と共にデッキが動き出した。
 
 街灯に淡く照らされた道路が写る。カメラが動き、周りを見渡している。すぐ近くの家で動きが止まった。
「この家は……」
「そうよ。あなた達の屋敷よ」
 カメラはズームして二階の角の部屋にピントを合わせた。街灯のおかげで中の様子はよく見える。
 ベッドで誰かが寝ている。この部屋に寝ていたのは一人だけだ。
「父さん……」
 さくらが目で合図すると、ヒデが早送りを始めた。親父が一切動かないので静止画のようにも見える。二○分程早送りして、再生ボタンを押した。
 ちょうど部屋に誰かが入ってきた。それは紛れもなく武だった。武は親父に近寄り顔を覗き込んだ。何か言っているようだが音までは聞き取れない。するとおもむろに両手で親父の顔を覆った。いや、よく見ると鼻と口を押さえている。そのまま一○分以上が経過した。武は親父の首筋に手を当てて、その後テーブルの上に置いてあった何かと武がポケットの中から取り出した何かをすり替えた。
 武は親父をじっと見つめている。五分程見つめ続け、そして部屋を出ていった。
 
「この映像は『星龍会』の会長が亡くなった日の防犯カメラの映像よ。これが何を意味しているか解る?」
「……」
 さくらは床に這い蹲っている武に近寄り、苦悶に歪む顔をのぞき込んだ。
「御自分の口で言ったらどう?武さん」
「ぐ!どこでこんなもの手に入れた」
「薬は理亜にもらったわ。ビデオ映像はタバコ屋の二階に設置されているカメラのものよ。理亜の情報では――梅婆さんでしたっけ?あの人の部屋はモニターで一杯だと言っていたわ。本人はとぼけていたらしいけど、あの人は情報屋なのでしょう?絶対映像が保存されていると思って忍び込んでみたのよ。そしたらビンゴだった」
「くそ!あの妖怪ババア!そんなことしてたのか」
「最初、これは星壱さんに調べてくれと頼まれていたのよ。ま、彼は薬の売人に依頼したつもりだったでしょうけど」
「星壱?あいつはこのことを知っていたのか?」
「あなたが怪しいとは思っていたみたいよ」
「……」
「もういいでしょ?あなたの口から説明したら?」
「……」
「できないようね。いいわ、あたしが説明してあげる」
 さくらは再び元子に向き直った。
「元子さん、彼はね。あなたのお父様を殺したのよ」
 武はカーペットに爪を立てた。そして拳を床に叩きつける。
「常備薬を『眠眠カプセル』とすり替えた彼は、薬が効くのを待って部屋に忍び込んだ。そして会長を窒息させて殺した。その後、薬を元の常備薬に戻して部屋を出た」
 元子は目を閉じてさくらの言葉を聞いていた。しかし表情はまるで変化がない。外見からは元子が今何を思い、何を感じているかまるで解らなかった。怒りか、悲しみか、恨みか、それとも哀れみか。しかし元子はその中のどんな感情も抱いてはいなかった。
 手応えのなさにさくらはやきもきし始めた。
「元子さん、聞いてるの?」
「……」
「元子さん!」
「……知っていたわ」
「え?」
「知っていたわ。あたしだけじゃなく星次もね。兄さんもそう感じていたのは意外だったけど」
「なん、ですって……」
「解らない人ね。あたし達はとっくに知っていたって言ってるのよ」
「そんなバカなこと!あなたは父親を殺したのが夫と知っていて、それでも一緒に住んでいたというの?それでも彼を護ろうというの?許せるというの?」
「色々と質問が多いわね。前半はイエスよ。でも最後の質問はノーよ。許せるわけがないでしょう」
「だったら……」
「いつか自分から話してくれると思っていたから。星次と二人でそれを待つことにしたのよ」
「そんな……」
 さくらは唖然としていたが、それ以上に唖然としている者がいた。武だ。
 武は元子と星次を交互に見ていたが、元子は武を見ず、星次は黙って頷くだけだった。
「どうして……」
 武はようやく言葉を紡ぎだした。
「武兄、父さんはね。睡眠薬飲まないんだよ。父さんの遺体から睡眠薬が検出された時に殺されたって解ったんだ」
「でも、親父は俺に。薬は睡眠薬だって」
「タケに心配をかけまいと思ったのよ」
 いつの間にか元子は武の隣にいた。
「じゃあ、あの薬は」
「痛み止めよ。父さんは全身に癌が転移していたの」
「癌……。親父はそんなこと一言も……」
「父さんはタケを本当の子供以上に思っていたから、だから言わなかった。それにタケが父さんを恨んでいることを知っていたから」
「知っていた……。そんなバカな!」
「父さんはね。婆ちゃんに電話で遺言を残していたのよ。そこにすべてが語られていた。父さんはタケに殺されることを覚悟していた」
「覚悟……」
「父さんは“タケを支えてやってくれ”と言っていた。だからあたし達は待つことにしたのよ」
「親父……」
「父さんの気持ちを解ってあげて?あなたを誰よりも愛していた。あたし達よりもね」
「親父……。親父、親父―――!」
 武の慟哭は部屋中に轟いた。腹に直接響くその叫びは悲しみの咆哮だった。その慟哭は一○分近く続いた。
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