○九九七年、五月一〇日(一五年前) 1

文字数 2,172文字

「何の用だ、星壱」
 星壱は意気揚々と『星龍会』邸宅の門を潜って会長室を訪れた。事務処理をしていた武は星壱を見ると露骨に不快な顔をした。もう星壱の顔は見ることはないと思っていたし、見たくもなかった。
「まあ待てよ。この家は昼飯も出ねえのか?」
「お前に出す食事なんかない。出て行け」
「つれないなあ。元子は?」
「まだ寝てる」
「もう昼だぞ。何やってんだ」
「うるさい。お前には関係ない」
「元子を呼んでくれ。あいつが来たら話すよ」
「ちっ!」
 武は舌打ちして内線電話の受話器を取った。寝ていると思ったが元子はすぐに電話に出た。元子はすぐに行くと言って電話を切った。
 武は星壱の意図を計りかねていた。土下座でもして戻してもらおうというのか。しかし今の星壱の態度からしてそんな気はなさそうだ。では尊大に戻せと言うのか。それとも元子に泣き落としをかける気か。それが一番可能性が高そうだ。しかし元子も今更星壱を戻すことはできないことは解っているはずだ。
 星壱は鼻歌を歌いながら会長室の中をぐるぐる歩いていた。まるで自分の庭を散歩しているかのように。武は急に不安になった。星壱のあの余裕は一体何なのだ。
 星壱は会長室を歩きながら明るい未来を想像していた。『星龍会』の会長に就任する自分。理亜を嫁に迎えて会長夫人にする。星壱の想像力は論理を無視し、理性を飛び越えて、ただの願望になっていた。そしてその願望と現実の区別がつかなくなっていた。
 コンコンと扉がノックされ、元子が入ってきた。元子は部屋着用の着物姿で現れた。
「兄さん……」
「よお、元子」
「何しに来たの。せっかく拾った命を捨てに来たの?」
「冷たいことを言うなよ」
「星壱!本題に入れ。何しに来たんだ」
 武は痺れを切らして声を荒げた。
「解ったよ。これを見ろ」
 星壱はバッグの中から紙を取りだし、机の上に放り投げた。
 目を通した武は愕然となった。
「こ、これは……」
「ある女の診断書だ。そこにはこう書いてある。その女は懐妊していると。その女は工藤愛。クラブ『ドリフト』に勤めるホステスで源氏名は理亜。つまり武の愛人だ」
「馬鹿な!あの女とはもう終わったんだ」
「その女とはいつ別れた?」
「四月の末だ」
「そこには何と書いてある?」
「……妊娠約一ヶ月以上経過していると判断される。そんな馬鹿な……」
「つまりお前の子だ」
 武は診断書を落としてしまった。元子は拾って目を通した。武は元子の表情を伺ったが一切感情の動きはなかった。驚きも怒りも何も読みとれなかった。
「タケ、どうするの?」
 元子は責めるでもなくただそう尋ねた。
「武さんよ。これを古株どもが知ったらどうなるかね。奴らは親父の娘を裏切ったことを許してくれると思うか?それとも奴らと元子を切って強引に我を通すか?それはもはや『星龍会』とは呼べねえな。くくく、はっははっはーー」
 星壱は心底楽しそうに武をいびり、大声で笑い始めた。
「黙れ!!」
 武の怒声に星壱の動きは止まった。
「まさかこんなことになろうとは……。じゃあ俺は何のためにあんな……」
 武の目は虚空を見つめていた。元子は何も言わなかった。武が自分で結論を出すのを待つことにした。
 武はしばらくぶつぶつと独り言を言っていた。星壱は怒声にびびってしまったのか、大人しく黙っていた。
「はっはっはははは」
 武は突然笑いだした。武はショックのあまりおかしくなったのか。武は一分以上笑い続けたが、笑いが収まると唐突に口を開いた。
「終わったな」
 武は引き出しから紙を取りだし、それに書き込み始めた。書き終わると元子に手渡した。
「元子、すまなかった」
 それは離婚届けだった。元子と離婚した瞬間に『星龍会』会長としての正当性を失う。つまりそれは会長を辞任することを意味する。
 武は立ち上がり部屋を出ていった。元子は何も言わずにそれを見送った。その表情からは何の感情も見えてこなかった。
「さあ、元子。幹部を集めろ!」
 星壱は“待ってました”とばかりに口を開いた。
「幹部を?どうして?」
「どうしてって。俺が会長に就任することを発表するんだよ」
「……」
 元子は哀れむような目線を星壱に向けた。
「どうしたんだよ。早くしろよ」
「無理よ」
 元子は冷たく言い放った。
「無理だと。何言ってんだ!」
「兄さんには無理よ」
「何を言ってるんだ……」
「父さんの鉄の掟を覚えてる?」
「……」
 星壱の表情が曇っていく。――まさか、元子は知っているのか……。
「堅気に迷惑をかけるな。仲間を裏切るな。そして……」
 星壱の目が見開き、瞳孔が開いていった。
「薬には手を出すな」
“ガタッ”
 星壱はよろけて机にぶつかった。机の上の書類が宙に舞う。
「『星龍会』はあたしが継ぎます。兄さん、金輪際この家の敷居を跨ぐことは許しません。出て行きなさい」
“ガタン”
 椅子を倒しながら星壱はその場から逃げ出した。星壱の目にはもはや現実は見えていなかった。悪魔が自分を襲ってくる。星壱はただひたすら逃げた。
 
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