○九九三年、五月八日(一九年前)

文字数 842文字

 この日、星次は武を外に呼び出した。公園のベンチに腰掛けて、買っておいた缶コーヒーを手渡した。武は「すまん」と言ってそれを受け取った。
「どうした。何か相談か?」
「……」
 星次は明らかに話しにくそうにしている。もじもじしながら頻りに手を擦り合せている。武は急かすことなく星次が話し始めるのを待った。
 星次はその後たっぷり五分程沈黙して、ようやく口を開いた。
「家……、出るわ」
「……どうしてだ」
「俺、兄達がいがみ合うのを見たくないんだ。前はあんなに仲が良かったのに」
「……星次」
「なんでこんなになっちゃったんだろうな」
 星次は呟いた。それは武に対して問うというよりも独白に近かった。武もそう感じたのだろう。何も答えなかった。
「武兄、壱兄とまた仲良くなれないのか?」
「……」
「だめか……」
 武の沈黙を星次はノーの意思表示と判断した。実際、武の心の中はそんな単純なものではなく、様々な答えが出ては消え、出ては消えたりしていた。その逡巡が星次を誤解させた。武としても星壱といがみ合うのは本意ではない。しかし、せっかく得た後継者の地位を捨てることもまた本意ではなかった。
 もはやこの家で自分が出来ることは何もない。星次はこの時そう感じて、はっきりと家を出る決断を下した。自分が家を出ると言えば、武は考えを変えてくれるかもしれないと期待した。しかしその願いは叶わなかった。
 星次は武に手を差し出した。武は黙ってそれを握り締めた。
「武兄、知ってるか?」
「……」
「壱兄は誰よりも武兄を尊敬してたんだぜ」
「そうか」
「どこかで歯車が噛み合わなくなっちまった。それは多分長い時間をかけて少しずつズレていったんだ。ということは、それを元に戻すには……」
 星次は去っていった。武は星次の背中を黙って見送った。
――それを元に戻すには、同じだけの時間をかけるしか方法はない。
 武には星次が言いたいことがよく解った。
 
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