○九九七年、五月一〇日(一五年前) 11

文字数 4,724文字

 タバコ屋から星次が飛び出して来た。そして屋敷の方に走って行く。武は慌てて追いかけた。そして星次が玄関をくぐったところで声をかけた。
「星次!」
 星次は肩をびくっとさせて立ち止まった。武を見てさらに驚いたように目を見開いた。しかしすぐに取り繕って武に近づいてきた。表情が変わったのも一瞬のことで鈍感な武には星次の微妙な感情の変化は解らなかった。
「いきなり声かけないでよ。びっくりするじゃないか」
「悪い。でも屋敷に何か用か?」
 星次は家を出てから今まで、親父が亡くなった時にしか屋敷を訪れていない。ということは何か大変なことが起きたということだ。武は鈍感ではあるが馬鹿ではない。下手に誤魔化しても無駄だなと星次は思った。
「姉さんに呼ばれてきたんだ。梅婆さんの処でお茶を飲んでたら電話がかかってきた。何であそこにいることがバレたんだろう。超能力かな」
 星次が真顔で言うのでおかしくなった。星次がそんな非科学的なものを信じているとは思わなかったからだ。
「あ、武兄馬鹿にしたな。姉さんの勘の鋭さはすごいんだぞ。あれは超人的だよ」
「馬鹿になんかしてないよ。それに元子の勘が鋭いことは身を持って知っている」
「武兄こそどうしたんだよ。入らないのか?」
「いや、俺はもうこの屋敷には入れない」
「事情がありそうだな。あっちへ行こう」
 そう言って星次は武を公園に誘った。星次は武と二人だけで話したい時はいつも公園を使う。昔から部屋を人払いして二人きりにしても絶対に話そうとはしない。必ず外へ出たがる。その度に武は苦笑いしながらも星次のしたいようにさせてやった。今は立場が逆になってしまったが。
 ベンチに腰掛けて武は事情を説明し始めた。
「理亜って女と浮気してたことがバレちまってな。おまけに妊娠させてしまったんだ。さすがにこれは浮気の限度を越えちまってるからな。離婚届けを書いた」
「武兄、馬鹿なことしたな」
「全くだ。俺もそう思う」
 星次は急に考え込んだ。武が声掛けても手で待ってくれと制される。武は大人しく待つことにした。
「それ本当かな?」
「何が?」
「妊娠のことだよ」
「ちゃんと医者の診断書があったぞ」
「でも何で別れ話した時には言わなかったんだ?」
「知らねえよ、そんなこと。ってお前何で別れ話したこと知ってんだよ」
「浮気してたって過去形だったし、それに武兄の性格からしてそうしてたんじゃないかって思っただけだよ。違うのか?」
「違わねえけどよ、でもお前……」
「そんなことはどうでもいいよ。そんなことよりもどうやって診断書持ってきたんだ?直接その人が来た訳じゃないよな。来たら姉さんに殺されちまう。郵送か?」
「いや、違う。星壱が……」
「壱兄?何で壱兄が出てくるんだよ」
「そうだ!忘れてるところだった。星壱がさらわれたんだ」
「は?」
「『元舞会』だよ。奴らの車のトランクに放り込まれるところを見たんだ」
 星次の顔がみるみるうちに強ばっていった。
「それは本当か?」
「ああ、確かに見た」
 星次の顔が急に引き締まった。今までの柔和な表情とは打って変わって迫力ある顔、まるでヤクザのようだった。そして思い出した。――こいつは親父の息子だった。血がそうさせるのだろうか。
 それでもこんな顔ができたのかと武は驚いた。
「今の話は本当なの?」
 後ろから声がした。武と星次は同時に振り向いた。
「元子……」
「姉さん……」
 武と星次が話しているのを見て屋敷から出てきたのだろうか。
「本当なの?」
「ああ、本当だ。若頭の高崎って野郎だ」
「一体何のために」
「多分復讐だろう。大輔の件で俺が会長に会った時、その横で喚いていた。恐らくその頃から『星龍会』を恨んでいたんだろう」
 武は大輔の死体を運んだとは言えなかった。恐らく元子も知っているとは思ったが、元子の前で自分の暗黒面を見せるのはやはり抵抗があった。
「でもそれなら武兄を狙うんじゃないか?壱兄は直接は関わっていないわけだし」
「『星龍会』そのものを恨んだのだろう。だから親父の息子である星壱を連れ去ったんじゃないか?」
「うーん」
 星次は納得ができないらしく、腕を組んで考え出した。
「確か大輔が殺した幹部はその高崎の弟だったわね」
 武は驚いた。そんな話は初めて聞いたからだ。元子は一体どこまで裏を知っているのだろう。親父も武も元子には直接活動には参加させていなかった。それにも関わらず元子は色々なことを知っているようだ。
「兄さんをどうする気かしら」
「そんなの決まっている。大輔が幹部を殺したように、星壱を殺す気だ」
「でも、あんな状態の兄さんを殺して満足するかしら」
 確かに星壱は薬でボロボロになっていた。まともに歩くことさえできていないようだった。
「そうか。なら大丈夫かも」
 星次は先程までの思案顔とは打って変わって、納得したように何度も“うんうん”と頷いた。
「何が大丈夫なんだよ」
「それはひとまず置いといて。話変わるけど壱兄はどうやって理亜って人と知り合ったのかな」
「知らねえよ、そんなこと」
「後をつけたのよ」
 元子が当然とばかりに言った。
「タケと理亜が一緒にいるところを見かけて後をつけた。それ以外兄さんが彼女を知る機会はないわ」
「何でそう言い切れる」
「兄さんの手足となり親身になって動く部下はいないわ。人望ないもの。それにタケの普段の態度から弱みを見つけられるほど頭もキレない。ということは、たまたま二人……、二人を見かけたとしか考えられない」
「お前、実の兄貴をめちゃくちゃ言うな」
 元子は“ふん”と顔を背けた。先程から元子は星次を見ながら話している。武とは目を合わせようともしない。武は余程自分のしたことが許せないのだろうと理解した。しかし武が思っているよりも、もう少し複雑な女心が元子の態度を決めていたのだが、鈍感な武は気づくはずもなかった。
――何であっさり離婚届け書いちゃうのよ。別れたくない!許してくれって謝れば許してやったのに。
 元子は武の顔を見るとそのことを思い出してイライラしてきた。
「ってことはやっぱり妊娠は嘘だね」
「何でそうなるんだよ」
「妊娠が本当なら、壱兄を頼る必要なんてない。別れさすことが目的なら彼女が直接姉さんに訴えればいい。でもそうはしなかった」
「……」
「これは勝手な想像だけど、彼女はそこまで考えていなかったんじゃないかな」
「どういうことだ?」
「離婚させようなんて思っていなかった。彼女は以前の付き合いで満足してたんじゃないかなあ。もし妊娠が本当で別れさせようと思ってるなら、さっきも言ったように武兄には内緒で姉さんに手紙を書くとか、電話で話すとかすればいい。姉さんが信じなかったら診断書の登場だよ」
「じゃあ、実際はどうだっていうんだ?」
「壱兄が彼女を脅したのか、彼女が提案したのか、それは解らないけど偽造の診断書を使うことを決めた。そして壱兄は偽造、というより捏造してくれる医師を使って診断書制作した。後は壱兄がうまくやるはずだった……」
「だった?」
「多分激怒するだろう姉さんを窘めて、“子供もできてしまったことだし、子供を認知して時々会うくらいは許してやれ”とか言う予定だったんじゃないかな。実際は感情が先走って武兄を追い出してしまった。おまけに自分まで姉さんに追い出された」
「ふう」
 元子は星次の話を聞いて溜息を吐いた。自分の兄ながら情けなくなる。
「そう考えると一番辻褄が合うんだ。壱兄がさらわれた理由もね」
「なに!」
「え!?」
 ほぼ同時に武と元子は星次の言葉に反応した。
 それを見て星次は得意げに口笛を吹き始めた。武に頭をはたかれ、さらに“早く説明しろ”と怒鳴られて渋々説明を再開した。本当はもう少し優越感に浸っていたかったのだが。
「壱兄に診断書を捏造してくれる医師なんてものが見つけられるかな。人望もコネも、それにその時は屋敷を追い出されて金もなかっただろうし」
「だから薬の売人にでも聞いたんだろ」
「金はどうするのさ。壱兄の手持ちの金程度で得られる情報じゃないと思うけどね」
「なら誰なんだよ」
「高崎さ」
 武と元子ははっとした。まさかそこに繋がってくるとは思わなかった。
「壱兄馬鹿だから薬も『元舞会』のだって知らずに買ってたんじゃないかな。薬漬けにしたところで薬を餌に壱兄を操っていたんだ」
「何のためにだよ。星壱に利用価値なんてあるのか?」
「武兄を陥れるためだよ」
「な!」
「やはりこれは武兄への復讐だと思う。つまり壱兄はさらわれたんじゃなくて回収されたんだ」
「ということは兄さんが理亜を弁護せずに、タケを追い出す方向にもっていったのも高崎のシナリオね」
「だろうね。もっともその時の壱兄がそんなこと考えられたかは解らないけどね。その時は得意になって、武兄を追いつめるのが楽しくて突っ走ってただけかもしれないけど」
「馬鹿な奴だ……」
 武は不思議と星壱に同情していた。そんなにボロボロになっても武を憎まずにはいられなかった。自分がいけなかったのだろうか。星次が出ていった時、もしあの頃まで戻れたら二人はやり直せるだろうか。今更考えても無益なことだ。武は自嘲の笑みを漏らした。
「で、姉さんどうする?」
「この件で『星龍会』は動かせないわ。そんなことをしたらまた戦争が始まってしまう。また命が奪われてしまう」
「……」
 星次は拳を握りしめた。過去を振り返り、当時無力だった自分を思いだして悔しくなった。力があれば救うことができた命がある。
「タケ、手伝ってもらうわよ」
 元子は当時星次がどれほど傷ついたかよく解っている。兄弟の中では一番の甘えん坊だったからだ。元子も言いようのない傷を心に負ったが、元子には武という心の支えがあった。肩を落とす元子の傍で武は優しく慰め続けた。元子にとってそれがどれほど力強かったか。
「しかし……、俺は」
「これには『星龍会』は関知しないというスタンスを取ります。ということは組員を動かすことはできない。外部の人間で信頼できる人材なんてそう簡単には見つからない。猫の手も借りたい状況なのよ」
「いいのか?」
 元子は武の目を見ることなく頷いた。そして「少し一人にして」と言ってその場を離れた。
「姉さん、あんな言い方してたけど不安なんだ。武兄の助けが必要なんだよ」
「解ってるよ。二五年も一緒にいるんだ。あいつは決して人前では泣かない。でもとても繊細な心を持っている」
「母さんからそう教えられていたからね。極道の女が組員の前で泣くことは許されないとね」
「あの時も俺の前では泣かなかったよ。部屋の隅で一人泣いていた。あいつももう三二歳なんだな……、大きくなったもんだ」
「大人になっても、母さんの遺言が呪いのように姉さんを縛っているのかもしれない。『星龍会』を護ろうと必死なんだ」
「遺言?」
「とにかく一端屋敷に入ろう。姉さんもすぐに帰ってくるよ」
 星次は武の返事を聞かずに屋敷の方へ歩いていった。その背中を見て不意に思った。
「逞しくなったもんだ。あいつが一番『星龍会』のトップにふさわしかったのかもな……。なあ、親父」
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み