○九九七年、五月一〇日(一五年前) 6

文字数 1,178文字

「開いているわけがないか」
 まだ時刻は午後二時を回ったばかり、クラブ『ドリフト』の扉は当然のように鍵がかかっていた。店長くらいは来ていると思ったが、まだ誰もいないようだ。
 武はどうすべきか迷い、一服しようとスーツの胸ポケットに手を伸ばした。
「あ……」
 慌てて身支度をして鞄一つで出て来たために、煙草を忘れてきたらしい。武は道路を渡って向かいのタバコ屋に入った。店内を見回したが誰もいないようだ。
「困ったな……」
「何を困っとりゃあす」
「!」
 誰もいないと思っていたカウンターから黒い影が現れた。全く動かなかったので風景に溶け込み、人がいることに気がつかなかった。
「いたのかよ、婆ちゃん」
「そりゃあ、おるわい。タケ坊どうした」
「煙草を買いに来たんだよ」
「タッチの差やったなあ。さっきまで元子がおったのに」
「そうか……。実はな、俺家を出たんだ」
「家出か?全く子供やなあ。それで死んだような顔しとったのお?ええ顔がワヤだがね」
「いや……、まあいいや。とにかく煙草くれよ。ライターもあるか?」
「いつものでええかね」
 頷くのを見て、武がいつも買っていく煙草と百円ライターを渡した。
「いくら?」
「ええわ。あんたはこれからが大変だでね」
 武はいつもこの梅婆さんの底がしれなかった。何も知らないボケた婆さんのように見える時もあれば、すべてがお見通しと感じる時もある。親父とも知り合いだったらしいが詳しくは知らない。元子も小さい頃から懐いていたようだ。一介のタバコ屋の店主がなぜヤクザと付き合いがあるのか。確かに屋敷の目の前ということもあり、組員の多くはこの店で煙草を買う。――それだけなのか?
 武はいつも疑問に思っていた。梅婆さんに聞いてもはぐらかされるだけだった。
「婆ちゃん、俺の父親を知ってるか?」
「流星のことか?」
「いや、本当の親父のこと」
「ああ、詳しくは知らんがね。でもあんたの将来を心配しとった」
「ここに来たことあるのか!」
「借金の期限を延ばしてくれちゅうて頼んでたんやろね。その帰りによく来とったわ」
「そうか……」
「今思えば、自分の死を予感しとったのかもしれんね」
「え?」
「自分にもしものことがあったら息子を頼むと流星に頼んどったでね。オレにも頭を下げとった」
「そうだったのか」
 やはり父は納得していた。では自分のしたことはただの自己利益の追求にすぎなかったのだ。
「完全に逃げ道もなくなったな……」
 武は小さく呟いた。梅婆さんは聞こえているのかいないのか、何も言わなかった。
 武はタバコ屋を出ると空を見上げた。白みがかった春の空は青にも白にもなりきれていないようで、武は何もかもが中途半端な自分と重ねてしまった。
 
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