○九九〇年、四月三〇日(二二年前)

文字数 1,327文字

 元子はにっこり笑って少女の頭を優しく撫でた。
 
 昨日少女を風呂に入れて、身体を洗ったのは元子だった。浴衣を着せて、その日は一緒に眠った。一切話そうとしない少女を優しく抱き締めた。
 今日は元子と同じ柄の着物を――かつて母がそうしてくれたように――着せてやった。着物に初めて袖を通したのだろう。美しい柄に目を丸くしていた。やはり女の子、元子は少し安心した。
 今、その少女が初めて口を開いた。
「美雪……」
「え?」
「名前……。美雪」
 元子はにっこり笑って美雪の頭を優しく撫でた。
「あたしは元子よ。よろしく」
 元子は美雪の小さな手を握って握手した。元子の表情が急に曇った。
「明日、あなたを施設に預けることになったわ」
 美雪は表情を変えることなく頷いた。逆らうことを許されていない奴隷のように濁った目。元子は美雪を抱き締めた。何とかしてあげたかった。美雪の家庭の事情は武から聞いていたから、彼女がこうなった理由は解る。解るけど、納得ができない。何かできることがあるはずだ。元子はそう思っていた。
「何もしてあげられなくてごめんね」
 元子は泣いていた。美雪はなぜ元子が泣いているのか解らないといった風に、首を傾げた。
「いつかあなたの笑顔が見てみたいわ」
「笑顔?」
「そう笑顔よ」
 元子は泣きながら笑顔を作った。
「解らない。笑ったことないから……」
「大丈夫。知らないならこれから覚えたらいいの。あたしが教えてあげる」
「無理だよ」
「なぜ無理だと決めつけるの?やってもいないのに」
「やらなくても解る」
「美雪。愛って知ってる?」
「愛?」
「そう愛よ」
「知らない。愛されたことないから」
「よし!じゃあ、あたしが最初の一人ね」
「?」
「美雪を愛している人の一人目よ」
 再び微笑んで美雪を撫でた。
「愛されることを知れば、今度は愛することができるわ」
 美雪はキョトンとしている。
「じゃあ、こうしましょう。美雪が人を愛することを知って、心から笑えるようになったら、何でもお願いを聞いてあげる」
「ほんと?」
「もちろん。何か願い事はないの?」
「……」
 美雪は恥ずかしそうに手をモジモジと動かし始めた。
「恥ずかしがらないで言ってみて?」
「兄弟が……欲しい」
 元子は美雪の頬にキスをしてギュッと抱き締めた。
「あたしがなってあげる。お姉ちゃんになってあげる」
「本当に?」
 元子は頷いた。
「小指を出して」
 美雪は言われるがまま小指を立てた。元子は小指を絡めて上下に動かした。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本、のーます。指切った」
「指切った」
「これで約束成立よ。忘れないでね?」
 元子の笑顔につられて、美雪はぎこちない笑みを僅かに浮かべた。
「あ!その調子よ。後少しね。大丈夫、大丈夫。じゃあ、もう一つ約束よ」
 元子が小指を出すと、すぐに美雪は小指を絡めてきた。
「あたしはいつでもあなたの味方よ。これは約束」
 二人は揃って“指切りげんまん”を歌った。何度も、何度も、繰り返し、繰り返し。
 
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