○九九〇年、四月二九日(二二年前)

文字数 1,680文字

 その日の昼頃、『丸武公園』にはたくさんの地域の住民がいた。おしゃべりを楽しむ者、散歩する者、走り回って遊ぶ子供など。それらの人々に共通することがある。笑顔だ。一様に皆楽しそうである。
 例外もある。公園の端の方には段ボールで作られた家がいくつも並んでいる。段ボールは保温性に優れ、見た目よりも遥かに頑丈だ。おまけに安い――彼らは買わずに拾ってくるのだが――。ホームレスにとっては魔法の紙と言ってよいだろう。
 そこには何人ものホームレスが住んでいる。彼らには表情と言うものがない。ただ座っていたり、ただ立っていたりするだけだ。
 彼らの表情が動くのは、地域住民がいなくなってからだ。夕方になって何人かで集まり話し始めた。そこには先程の無表情とは打って変わって笑顔が浮かぶ。村長を中心にして話題は弾んでいた。
 その公園をふらふらと、一〇歳前後の恐らく少女が歩いていた。なぜ恐らくかというと、少年なのか少女なのか解らない程に、汚れて服もぼろぼろであったからだ。元々は可愛いワンピースだったのだろう。だから辛うじて少女だと判断できた。
 そのかつてワンピースだったものは、右肩から腹にかけて破れ、幼く膨らみ始めた胸が露わになっていた。
 無残にも殴られたのだろうか、左頬の青い痣が痛々しい。さらに左足の太股にはいくつも黒く焦げた跡があり、股下からは一筋の血が流れている。その血はワンピースの裾にも滲んでいた。マッチ棒の様に細い足を引き摺って歩くその姿はあまりに哀れだった。
 何人かのホームレスが少女に目線を向けるが、腫物に触るように、おろおろするばかりで声を掛けられない。
 そうしている間に少女は公園を離れ、タバコ屋の前を通りかかった。
ちょうど自販機で誰かが煙草を買っている最中だった。それは武だった。
 武が振り向くと、目の前をその少女が通り過ぎた。
「おい」
 少女が虚ろな目線を武に向けた。
「何があった?」
 武はスーツのジャケットを脱いで少女に着せてやった。
「……ねばいいのに」
「ん?」
「死ねばいいのに」
「……そうか。誰にやられた?」
 およそ少女が言うとは思えない言葉を、武は聞き流した。
 少女は小声でぼそぼそ呟いた。武は口元に耳を寄せた。
「解った」
 そう言って武は少女が歩いてきた道程を辿るように、公園を横切って歩いて行った。
 少女は不思議なものでも見るように武の背中を見送った。
 武が去った後、店から梅婆さんが出てきた。そして少女にピンクのストールを羽織らせた。梅婆さんは少女の頭を撫でてにこりと微笑んだ。しかし少女の表情は動かなかった。
「おみゃー、かわええ子やね。名前ゃは何て言うの」
 少女は答えない。ただ黙って武が去った方角を見ている。
「おみゃー、口が聞けんの?そんな形だとせっかくの美人がワヤになってまうわ。あかんがね」
「……」
「ほうか、ほうか。なら無理せんでええ」
 梅婆さんは少女の頭を撫でて店に戻ろうとした。
「美雪……」
「ん?」
「美雪」
「美雪ちゃん。ええ名前だがね。おみゃー、武を待っとるの?」
 美雪は武というのが誰のことか一瞬解らなかったようで、ぽかんとしていたが、すぐに理解して慌てて何度も頷いた。
「ほうか。頭のええ子だね。オレは梅いうもんだで。困ったらいつでもいりゃあせ。遠慮したらいかんでね」
 再び美雪の頭を撫でて店に戻っていった。
 
 二時間程すると武が戻ってきた。少女はタバコ屋の前でずっと待っていた。
 武は引き攣った様な笑顔を見せた。少女が待っているとは思っていなかったようだ。
「何だ、まだいたのか?」
 少女は無表情で頷いた。
「お前行くところがないんだろ?」
 ピクリとわずかに頬が動いた。そして力なく頷いた。
「よし!来い」
 少女の表情が初めて動いた。明らかに驚いたという顔になる。
 武は軽々と少女を持ち上げ、肩に担ぐとそのまま『星龍会』邸宅に入っていった。
 
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