○九九七年、五月一〇日(一五年前) 7

文字数 1,020文字

 感情のスイッチを切ると、時々意識を失うことがある。何分くらい失っていたのだろうか。理亜は壁に掛けてある時計を見上げた。どうやら三○分くらいのようだ。
 理亜はまずベッドのシーツを剥がし洗濯をした。そして風呂に入ってシャワーを浴びた。特に下半身には入念にシャワーをあてる。――またやってしまった。
 かつては生きるためにやっていた。それ以外に孤児院を飛び出し、戸籍まで売ってしまった小娘に生きていく道はなかった。売春で金を貯めて戸籍を買った。その課程で笑い方を忘れてしまった。いや、元々笑ったことなどなかったかもしれない。学校ではいじめられ、家では父親に嬲(なぶ)られる。そんな生活で何を笑えるというのか。
 あの日理亜は父親に噛みついて家を飛び出した。先のことなど考えていなかった。ただ今のこの地獄から逃げたかった。そしてあの人が現れた。まるで神が彼を遣わせたかのように。彼はすべてを変えてくれた。あの日理亜は生まれ変わった。
 身体を拭いて新しい下着を着てシャツを羽織った。
「はあ」
 武は行ってしまった。また戻ってきてくれるだろうか。武に連絡する手段がない。元々理亜から連絡を取ることは絶対にできない身分だった。理亜はあくまで愛人だ。武は家を出たと言っていた。理亜にできることは待つことだけだった。理亜はどうやって武を説得しようか悩んでいた。このままでは武の妻にまで迷惑がかかってしまう。武に別れを告げられて焦っていたとはいえ、浅はかな策を練ったものだ。
「やっぱり……。本当のことを話すしかないの?」
 理亜は自分に問いかけた。星壱と共謀して行ったことだと知れば、武は理亜を許さないだろう。もう二度と会うこともできなくなる。――それでも……。
「あたしのせいで他人を不幸にすることはできない」
 星壱にも悪いことをした。武に頼んでみようか。前の身分は無理でも屋敷に戻ることができれば星壱も生活には困らないだろう。自分を犯した男に同情するなんて酔狂なことだ。理亜は考えて可笑しくなった。
 そして理亜は決心した。武のためだけに生きてきた、その武と永遠に別れることを。
 “ピンポーン”と在り来りな音の呼び鈴が鳴った。武が戻って来たようだ。理亜は深呼吸をして呼吸を整えた。それでもドキドキは収まらない。理亜は心臓を押さえながらノブを回して扉を開いた。
 そこには理亜の予想に反して、女と男が立っていた。
 
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