○九九七年、五月三日(一五年前)

文字数 2,182文字

 その日理亜はいつものように出勤すると、武がオーナーを辞任したことを告げられた。これは理亜の予想通りだった。恐らく武は自分との繋がりを絶とうとするだろうと思っていた。武はあの日以降、店に顔を出していなかった。もう店に来るつもりがないことは明白だった。
 後任の名前は多田明弘というらしい。体格が大きく無愛想な男だった。
「武さんは体調不良のため辞任することになった。オーナー代理を務める多田だ」
 もう一つささやかな出来事があった。久しぶりに新人が入るという。新人と言っても今年で三○歳になるという。以前はアパレルのメーカーでOLをしていたらしい。源氏名はさくら。およそホステスには向かないまじめそうな女性だった。
 店長は理亜をさくらの教育係に任じた。断る理由もないので理亜はそれに応じた。
意外にもメイクをしてドレスを着せると見事にホステスらしく見え、輝いて見えた。
「さくらさん綺麗ね」
 理亜は思わず口にした。
「やだ。お世辞?」
「いえ。そんなんじゃなくて」
 理亜は手を振って否定した。お世辞ではなく本当に綺麗だと思ったからだ。
「ごめん、冗談よ。ありがとう」
 そう言ってさくらは満開の桜のような優しい笑顔を見せた。弾けてしまいそうな純粋な笑顔、年齢とのギャップを感じさせた。その少女のような微笑みはとても三○歳には見えない若々しさがあった。
「理亜さん、今日からよろしくお願いします」
 さくらは優雅に頭を下げた。その所作は自然で美しく、理亜は彼女に着物を着せたら似合うのではないかと思った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 
 さくらは基本的に理亜のヘルプに付くことになった。理亜が側に居る時は問題なかったが、指名を受けて理亜が席を外すと何をしてよいか解らずに戸惑ってしまう。客と会話が弾まずにその度に黒服のフォローを必要とした。しかし不思議と客は居心地良さそうにさくらとの無言の空間を楽しんでいるようだった。さくらの空気感がそうさせるのだろうか。理亜は素直に感心した。
酒のつぎ方や煙草に火をつける様はやはり和の臭いを感じさせる。水商売の経験はないと言っていたが、接待は慣れているように思えた。OL時代に得たスキルだろうか。
ようやく慣れてきたと感じた時に勤務時間が終わった。この日は二一時から三時までのシフトだった。勤務を終えてさくらは疲労を感じている様だった。慣れないことに普段以上に神経を使ったからだろう。
 
「ふう」
 さくらは思わず溜息を吐いた。
「疲れましたか?」
 理亜はすでに着替えを済ませていた。アップにしていた髪も下ろしている。
「ええ、少しね」
 さくらは驚いた。理亜は自分よりもよくしゃべり、はるかに多く酒を呑んでいた。それにも拘らず勤務前と何も変わっていなかったからだ。その顔からは疲労もまるで感じられない。
 理亜は腕時計をチラッと見た。深夜三時を回っている。
「さくらさん、時間あります?」
「え?」
「お腹すきませんか?」
 さくらはお腹に手を当てた。そういえば何も食べていなかった。思い出すと急にお腹が空いてきた。
「そういえばペコペコ」
「じゃあ、食べに行きましょう」
 そう言って理亜は手を握って歩きだそうとした。
「ちょ、ちょっと待って。あたしまだ着替えてない」
「あ、ごめんなさい」
 理亜は慌てて頭を下げた。しっかりしているように見えて、抜けているところもあるようだ。さくらは年下の先輩を素直に可愛いと思った。
 
「おいしい」
 さくらは思わず口にした。キャバクラやクラブが多いこの一角では深夜まで営業している飲食店は珍しくない。ここは本場イタリアで修行したシェフが最近出展した店だ。若いが腕は確かと理亜が太鼓判を押した。その通り見事な腕だった。素材の味を生かして調味料は必要最小限しか使用しない。さくらが注文した海鮮パスタは磯の味がした。
「でしょう。まだ二○代なのに腕はいいの」
「理亜さん料理詳しいのね」
「勉強しました。古風な人が好きだと思ったから」
「恋人が?」
 理亜は首を振った。
「好きな人だけど、恋人じゃないです。結ばれることのない運命だから」
「運命なんて……。未来は誰にも解らないでしょう」
「解りますよ。あたしには解るんです」
「理亜さんは占い師だったかしら」
「……」
 理亜は真顔で“かもしれません”と答えた。彼女なりの冗談なのだろうとさくらは理解した。
「さくらさんは不思議な人ですね」
「え?」
「初対面なのに話しやすい。こんな話するの初めて」
「理亜さんも話しやすいわよ」
「理亜でいいです」
「じゃあ、あたしもさくらでいいわ」
 二人はその後二時間程おしゃべりを楽しんだ。理亜は今まで店の同僚と食事をすることは一度もなかった、だから今日は楽しかったと言ってくれた。
 店を出ると躊躇いがちに理亜が言った。
「あたし達友達になれますか……」
 さくらはにこりと笑って頷いた。
「また明日」
 理亜は帰っていった。さくらは理亜と同じ思いを抱いていた。理亜とのおしゃべりはとても楽しかった。
 さくらは理亜の笑顔が見てみたくなった。
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