○九九七年、五月一〇日(一五年前)

文字数 2,229文字

 玄関のチャイムが鳴った。今日は一体何人の客がくるのだろう。でも今度こそ武だろう。美雪はそう思った。
 扉を開くと、またしても予想外な人物が立っていた。
「何で……」
「やっぱりあなただったのね」
「どうしてあなたがこんなところに……」
「あなたに会いに来たの。久しぶりね」
「元子さん、覚えてくれてたんですか?」
「忘れるわけがないでしょう」
「とにかく入ってください」
 美雪は元子を部屋に招き入れた。さくら達に出していた湯呑みを片づけ、新しいお茶を入れた。
 元子はそれを一口啜った。
「おいしいわ。梅婆ちゃんのお茶ね」
「はい」
 梅婆さんは美雪が遊びに行く度に、菓子や茶をくれる。屋敷の近所だし、元子も飲んだことがあるのだろう。美雪の頬は熱くなった。顔が赤くなっていないか心配になるほどだった。彼女は覚えてくれているだろうか、かつて彼女は美雪を愛していると言ってくれた。愛を知らなかった美雪に愛を教えてくれたのは元子だった。武と元子が美雪の心の支えだった。
「どうしたの?」
「いえ、嬉しくて」
 自然と笑顔になれた。これは皮肉にもさくらのおかげでもあった。
「笑えるようになったのね。愛することも知ったみたいだから、今度はあたしが約束を護らなくちゃね」
「約束……、覚えてくれてたんですね」
「もちろんよ」
 あの時と同じ元子の笑顔がそこにあった。美雪は目頭が熱くなるのを必死に堪えた。本当に元子は兄弟になってくれるのだろうか。
「美雪、聞きたいことがあるの」
「はい」
「星壱って男は知ってる?」
「はい……。武さんの弟さんですよね」
「……?最近会った?」
 美雪はドキッとした。最近どころか、先程美雪は星壱に襲われた。でも元子に心配は掛けたくなかった。
「いえ……」
「美雪!」
「はい!」
 元子が突然大きな声を出したのでびっくりした。
「あたしに嘘はつかないで、お願い。あなたの姉としてお願いしているのよ」
「……。ごめんなさい。心配掛けたくなくて……。今日ここで会いました」
「心配?何かされたの?」
「いえ……。あの……、はい」
「そう。どうしようもない兄でごめんなさい」
 元子は手をついて頭を下げた。美雪は慌ててその手を握った。
「あたしがいけないんです。星壱さんを利用したから」
「利用?」
「『元舞会』って知っていますか?」
「ええ」
「その『元舞会』の会長の娘でさくらという人がいるんです。その人がクラブ『ドリフト』にキャストとして入ってきたんです。あ、あたしもそこに勤めているんですけど……」
 美雪は元子がどこまで知っているか解らなかったので、回りくどい説明になってしまったが、元子は気にした様子もなく真剣に聞いていた。
「あたしも星壱さんも情けないことにさくらの掌で踊っていただけなんです。さくらはすべてを話して帰っていきました。武さんにも奥さんにも申し訳なくて……。言い訳ですけど、そんなつもりはなかったんです。時々武さんの傍に居られたらそれで良かったんです」
「じゃあ、やっぱり妊娠は嘘だったのね?」
「はい。すいません」
「元々はタケが悪いんだから」
「でも……、奥さんに申し訳なくて」
「悔しいけど、あたしに武をつなぎ止めるだけの魅力がなかっただけよ」
 元子はとても魅力的だ。美雪はずっとそう思っている。でもなぜ元子の魅力が関係してくるのか、美雪は元子が何を言っているのかまるで解らなかった。
「やっぱり知らなかったのね」
「え?」
「あたしが武の嫁よ」
 目の前が真っ白になった。そんなこと考えもしなかった。五年前、屋敷で初めて会った星壱が武を兄、元子を妹と説明してくれたので、てっきり二人は兄妹だと思っていた。愛人になってからも、武は妻の話は一切しなかった。
「正直言うとね。タケが浮気してるって知った時はすごく辛かった。相手を恨んだわ。でも梅婆ちゃんの家であなたの声を襖の向こうで聞いた時、悪い人じゃないって解った。それにもしかしてって思った。そしたらやっぱり美雪だった」
「あたし……そんな」
 武も元子も美雪にとっては恩人だ。その恩人を知らないうちに傷つけていたなんて。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
 身体に力が入らない。もう何が何だか解らなくなった。
「あたしなんて……、いない方がいい」
「はい!そこまで!」
 元子は両手で美雪の頬を摘んだ。そして力一杯引っ張った。
「美雪!次そんなこと言ったら、ほっぺ引きちぎるからね」
「でふぉ」
「でもじゃない!」
「でふぉ」
「頑固な子ね。解ったわ」
 元子は手を離した。頬がじんじんと痛む。
「罰として!」
「……」
「罰として、今後はあたしの部下になること!それとタケと『星龍会』を護るために全力を尽くすこと!」
「……」
「返事!!」
「はい!」
「よし!」
 元子はいつもの笑顔を浮かべて、美雪を抱き締めた。あの時と同じ温もり、そして、あの時と同じ優しさを感じた。
「もういなくなっちゃイヤよ」
「はい……」
 美雪の首筋に暖かいものが流れてきた。元子の涙が首から背中へと伝っていく。美雪はもう元子を悲しませないと心に誓った。彼女が護ろうとするものを命がけで護ってみせる。
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み