○九九六年、一二月八日(一六年前)

文字数 1,212文字

 『ドリフト』の営業時間前、武の執務室の扉がノックされた。
「入れ」
 武が声をかけると扉が開き、理亜が部屋に入ってきた。
「確か理亜だったか。何か用か?」
「店長に頼まれてキャストの資料とお得意さまのデータをお持ちしました」
 武は思わず眉を寄せた。店長の意図が見えたからだ。
「お前はそんな事務員の様な仕事もするのか?」
「いえ。たまたま頼まれたので、持ってきただけです」
「そうか。そこに置いておいてくれ」
 武は目の前の応接用のテーブルを目で合図した。理亜は言われるままにテーブルに資料を置いて、部屋を出ていこうと後ろを向いた。
「理亜」
 呼ばれて理亜は振り返った。改めて見ると、やはり表情は乏しいが、美しい女だった。透き通るように白く美しい肌は男受けすること間違いない。これでもう少し笑顔が作れたら人気のホステスになるだろう。現在、理亜の売り上げは下から五番目。決して優秀な成績ではない。
「何でしょうか」
 武が何も言わないので理亜が促した。
「いや……。今後はこんなことはしなくていい。売り上げを伸ばすことだけを考えろ」
「はい。ですが、どうすればいいのでしょう」
 質問が返ってくるとは思わなかったので、武は少し面食らった。少し考えてから口を開いた。
「そこに掛けろ」
 応接用のソファーを再び目で合図した。言われるまま理亜はソファーに腰掛けた。
 そして武も理亜の横に腰掛けた。
「お前は笑顔を作れんのか?」
「……」
「どうした?」
「笑顔は……、忘れました」
「忘れた?」
「あたしの人生に笑顔は必要ありませんでしたから」
 理亜の虚ろな視線を見て、武はなぜこの女のことが気になるのか、解った気がした。
――似ている。あの少女に。
 それはかつて武が助けた当時一○歳だったあの少女――確か美雪と言った――のことだ。顔立ちそして何より雰囲気がそっくりだった。
 もし理亜があの少女本人だとしたら、年齢的には一六、七歳のはず。しかし理亜は二○歳。本人ではない。
 武が何も言えずにいると、武の膝に手を置いて顔を近づけてきた。あまりに自然な仕草だったので、武は拒絶することができなかった。唇と唇が触れるか触れないかという距離で動きが止まった。息がかかるほど近くに理亜の顔があった。ラベンダーの香りがする。
 理亜の手が胸に触れた。心臓が高鳴る。それがばれるのではないかと思い、武は仰け反って少し距離を取った。理亜はさらに近づいて武の耳にキスをした。
「オーナーがあたしに笑顔を教えてください」
 耳元で囁かれて背筋がぞくっとした。
「お、大人をからかうんじゃない。もうすぐ店が始まる。行け」
 理亜は無表情のまま執務室を後にした。
「似ている。しかしそんなはずは……」
 彼女が去った後、ラベンダーの香りだけがその場に残った。
 
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