○九八二年、七月七日(三〇年前)

文字数 1,367文字

 一年に一度だけ織姫と彦星が出会うと言われているその日、この町は雨だった。しとしと降る雨は悲しげで、二人の出会いに水を差してしまったことを悲しんでいるようだった。
 この町には名物と言われているものが三つある。
 その一つは『タバコ屋』だ。築何年かも解らないような古い日本家屋で、一見すると店が開いているのかも解らない。それは入り口が煙草の自販機で隠れているからだ。しかし、店主の梅婆さんの顔を見に何人もの常連が訪ねてくる。『タバコ屋』が名物と言うより、この梅婆さんが名物と言った方が正しいかもしれない。年齢不詳のこの婆さんは町の皆から愛されている。
 もう一つは公園だ。町の中心にあるこの『丸武公園』は、『タバコ屋』から見て十字路を挟んで南東にある。地域住民の憩いの場であると同時に、家を持たないホームレスと呼ばれている者たちの生活の場でもある。春は桜が咲き誇り、夏は虫が恋の詩を歌い、秋は紅葉が儚く散り、冬は雪が辺りを白く染める。
 この公園にはホームレスの村が二つある。公園の北東に住む者たちと、南西に住む者たち。村にはそれぞれ村長と呼ばれる人がいて、村人は彼らに従って暮らしている。彼らは村を区別するために、北東を『丸村』、南西を『武村』と呼んでいる。丸村と武村の村人がいざこざを起こした時は、村長同士が話し合いを持つ。彼らのただ一つのルールは“暴力禁止”。必ず話し合いで解決する。どうしても収まらない時は、村長たちの趣味でもある碁で決着をつける。負けた方はこの決定に必ず従うことになっている。彼らは独自の世界を築いていた。
 最後の一つは『タバコ屋』の東、そして『丸武公園』の北にある屋敷だ。表向きにはこの辺りの地主にして大金持ち。ということになっているが実際は違う。『星龍会』というヤクザ者の会長が住んでいる。会長の口癖は“堅気に迷惑はかけるな”だったので地域住民とトラブルになることはほとんどなかった。
 その屋敷から声が聞こえてくる。
「親父!すいません」
「武、何のことだ?」
 親父と呼ばれた男は目付きがやたらと鋭く力強い。しかし武と呼ばれた男を見る目はどこか優しく暖かい。その武はというと、畳に頭を擦り付けているので顔は全く見えない。
「お嬢のことです」
「そのことか……」
「親父……。知っていたんですか?」
「気が付かないわけがなかろう。お前のことは生意気なクソ餓鬼だった頃から知っている」
「すいません。すぐに指詰めさせていただきます」
 そう言って武は、顔を上げるなり懐から刃物を取り出した。刃渡り三〇㎝程で、ドスと呼ばれているものだ。
「馬鹿野郎!」
 親父が武を殴り飛ばした。
「滅多なことをするんじゃねえ。儂を悲しませるな」
 武の目には涙が溜まり、そして零れ落ちた。怒りに満ちていた親父の顔は優しい顔に戻っていく。
「親父……」
「お前、娘を愛していないってのか?」
 武は激しく首を振った。親父を真っ直ぐに見つめる目に力が籠る。
「本気です。お嬢はまだ若いけど、それでも俺は、俺は……」
「なら何も言うな。儂は何も言わぬ」
「親父……。ありがとうございます!」
 武は再び深々と頭を下げた。
 そんな『星龍会』邸宅での出来事だった。
 
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