第164話 覚醒と崩壊●「恐怖症発覚」
文字数 2,556文字
江口の表情が蒼ざめた。高校時代には見抜かれつつもスピードで誤魔化せた「内角を狙えない」欠点が、こんなにも早く露見するとは思ってもいなかった。二軍とは言えプロのバッターである。43,2センチあるストライクゾーンの横幅を22センチ程度に狭めれば、いくら打ちにくい外角低めであろうと狙い打ちである。さらに「江口に死球の心配はない」と知っていれば怖がらずに踏み込める。外角ボール球の変化球を引っかけさせて、ようやく三つ目のアウトを取った時にロビンスは三点を先取していたのである。
ガイヤンツのベンチでは長尾二軍監督の怒鳴り声が響いた。
「江口!ストライクゾーンには打者への内側もあるんだ!内角の胸元で打者の腰を引かせてからこそ、外角低めの決め球が生きるんだ。悔しかったら内角に、お前の自慢のストレートを決めてみろ!」
マウンド上でロビンスの湯本は突如、コントロールを乱したように危険なボールを投げる。二軍とは言え鍛えられたガイヤンツの打撃陣が、おいそれと当てられやしないが、そういうボールの後に外角へのスライダーやスピードを殺した落ちるボールを打ち損じてしまう。わざと危険球も混ぜているように見えるが湯本特有の「すまん!すまん!」が功を奏して主審は注意すらしない。長尾は江口に「見ろ!」と湯本を指差した。
「ストレートだって、お前ほど早くない。変化球だってお粗末なもんだ。だが内角、外角、高め、低めにボールを散らして打者を翻弄している。お前はドラフト一位。あれはドラフト10位。しかも入団拒否選手の代替入団だ。お前の背番号は19番。湯本は49番。これだけ見ても、どれだけ球団が期待をした選手か?お前にも分るだろう。この試合は何十点取られようと俺はお前をマウンドから降ろさん!そのつもりで投げろ!ロビンスの奴らにぶつけるつもりで内角を抉ってやれ!」
と厳しい口調で江口に命じた。「はい!」と答えた江口だったが、なぜか目から涙が流れていた。自分がチームのお荷物になっている…こんな体験は初めてだったのだ。
キャッチャーの矢口も二回裏の江口のピッチングには頭に来ていたらしい。
「江口よぉ。内角のサインが出ているのに外角に投げるってのは、このガイヤンツじゃベンチからのサイン無視で罰金対象なんだぜ!甲子園優勝ピッチャーだからって大目に見てもらえるほど、ここは甘くねぇんだよ」
と厳しく罵った。二軍の投手陣はもちろん、野手陣も冷たい視線で江口を見ている。唯一、同部屋の淡谷だけが
「まだ初登板じゃないか!外角低めの難しいコースに精密機械のように速球を決められる江口君のコントロールなら、内角高めにだって決められるはずだよ!君ならば必ず出来る。そうすれば君は俺なんか置いてきぼりにして一軍入りさ!」
と慰めた。そして三回裏のロビンスの攻撃は下位打線の八番からである。キャッチャー矢口は内角高めのサインを出す。江口は「僕だって内角にも投げられる!」と自分に言い聞かせた。だがボールは皮肉にもストライクゾーンの真ん中高めの絶好球となる。二軍の八番打者でも、こんな絶好球は見逃さない。センター前にクリーンヒットである。
バッターボックスにはピッチャーの湯本が入った。湯本は「どうせ俺はピッチャーだからバッティングなんか興味もない」という態度でバットを肩に乗せた怠惰な構えだ。それでもキャッチャー矢口のサインは内角高めである。江口は「今度こそ。内角高めを決めてやる!」と心に誓った。しかしボールは江口を嘲け笑うように外角高めに決まる。
キャッチャー矢口の返球が荒っぽくなった。本気で怒っているのが右手のグローブに伝わる。実際に、たった2イニングで何球のサイン無視をしてしまったのだろう?という不安が胸いっぱいに広がっていく。「今度こそ、ちゃんとバッターの内角に投げなきゃ。あの湯本さんってピッチャーだってバッターの近くに投げている。僕だって…」という気持ちで振りかぶった。だが投げる瞬間に「もしも相手ピッチャーに当てっちゃったら大変だ」という不安が脳裏を過ぎる。
キャッチャーの矢口は目をつぶった。「駄目だ!これじゃキャッチボールだ」これが剛球左腕江口のボールか?と思うほどスピードを殺したストレート。それも物の見事に内角高めの絶好球となってバッター湯本に迫った。
「舐めるな!この小僧。俺だって高校時代はピッチャー四番だぜ!」
プロ入り以降は、まともに打撃練習されしていなかった湯本がフルスイング。ボールはレフトのフェンスを越えてツーランホームランになった。キャッチャー矢口はミットを地面に叩きつけて怒りを剥き出しにしている。「こんな野球をやってられるか?」という態度である。
二軍ピッチングコーチは長尾に江口降板を勧めた。しかし長尾は「河村監督からの指示だ。何点取られようと江口をマウンドから降ろすな…というな。それに江口が一種の投球恐怖症だったとしても練習で克服はできん。試合で克服させるべきだ」と突っぱねた。
江口敏にとっては冷酷な仕打ちのように試合は進んだ。外角低めに剛速球、カーブ、スクリューボールを決めてもロビンス打線は打ち返していく。満塁で、もう一度土井に打順が回った。土井は真ん中付近に来たカーブを見事に狙い打ち満塁弾を放った。このイニングだけで六点が入った。この時にキャッチャー矢口が江口に出したサインはガイヤンツでは禁断のサインと呼ばれる「故意死球」であった。
虎視眈々と一軍入りを目論むロビンス打線は弱りきったピッチャーに容赦なく猛打を浴びせる。外野フライで一つアウトを取ったものの三回裏で十二点を献上した。「いくら一軍からの要請でも、これ以上は試合放棄も一緒だ」と言う長尾二軍監督が。ようやく江口への降板指示を出した。