第170話 変革●「苦悩の二軍監督」
文字数 2,399文字
1971年のシーズンも大詰めに迫っている。二位の中京ドアーズを引き離して七連覇を達成するのも目の前だ。だが河村監督の心中は穏やかではない。前半戦の十二連勝が効いて首位で逃げ切れそうだが七、八月は勝率五割をなんとかキープする戦いぶりであった。投手陣は堀本、高岡、左右のエースは好調なものの、他のピッチャーは芳しくない。この二人が十五勝づつ合計三十勝しても優勝ラインの七十勝を確保するには四十勝を他のピッチャーで賄わなくてはいけない計算になる。
特にサウスポーで頼れるピッチャーは高岡一人。三年目にして一軍に昇格させた新山は、なんとか四勝を挙げたものの期待通りの活躍とは言いがたい。来シーズンは高岡をリーダーに新山と江口でサウスポー三本柱を作りたいのである。長尾二軍監督は毎晩、河村監督から江口の状況を電話で訊かれる日々が続いている。
「二軍とは言え相手もプロです。江口の速球もコントロールも外角には天下一品でも内角に速いボールが決まらないことはイースタンの全てのチームに知れ渡っております。ショートリリーフさえ失敗しています…。ええ…。もちろんです…投球練習でもバッターを立たせておりますよ。まぁ…練習だとプレッシャーがあまりないのか…ええ…投げられるようになってきています。多少スピードは落ちますが…ええ。ここは辛抱強くイースタンで投げさせて試合で克服していかないと…ええ秋季、自主トレ、キャンプで課題になりますね」
こんな話題が毎晩続く。コーチスタッフとも夜中まで相談する。常に話題は「江口をどう育てるか?」ばかりである。もはや長尾自身の考えでは「早いところ投手江口は諦めて打者へ転向させるべき」と長尾なりに指導者としての結論を持っていた。ガイヤンツでは短時間であるが投手の打撃練習がノルマになっている。一軍ではドラフト三位の淡谷を左のスラッガーとして期待しているが長尾の見るところでは江口の方が打者としての素質があると見ていた。
投手としては内角球恐怖症と呼ぶべき心理的な欠点を抱えてはいるが外野手に転向させれば強肩の持ち主になるだろう。足も遅い訳ではない。司馬、長岡の次を打つ五番打者候補にはうってつけである。年齢差を考えれば司馬の引退後に一塁手に抜擢すればガイヤンツの一塁は向こう二十年は安定する。
長尾から再三に渡って河村に「江口打者転向説」を提言したが、河村は突っぱねた。「打者なら淡谷を五番に育てろ!江口は、あくまでもピッチャーだ」と頑として聞く耳を持たない。ドラフト制度の導入後、ガイヤンツはくじ運が良いとは言えない状況が続いてきた。各球団が競合する甲子園の英雄を引き当てた河村が、その嬉しさから頑固になっていると思っていた。
長尾としても困り果てた状況が続いていたのである。さらに長尾が気になっているのは江口の表情である。入団直後の陽気さが影を潜め、おどおどとした練習態度が目立つようになっていた。ブルペンでの投球練習時でも監督、コーチそしてブルペンキャッチャーに怒られることを恐れているような顔つきである。長尾と目が合うと江口は視線を逸らすようになっていた。長尾は「完全に萎縮してしまっている」と感じた。二軍の夏の終わりごろになると二軍選手は自分の成長ぶりを長尾にアピールするようになるのが通例である。
例えば投手ならば新しくマスターした変化球を投げる。打者ならば、それまでの苦手コースを要求して克服したことをアピールする。今シーズンの一軍昇格は難しくても来年は開幕一軍を狙ってくる。中にはシーズン終盤に怪我や調整で一軍登録抹消される先輩がいれば、せめて日本シリーズだけでもベンチ入りして、あわよくば代打でタイムリーでも打てば一軍入りも確定できると穏やかではないことを考える選手もいる。
セカンドやショートのポジションは守備範囲も広く怪我や故障も多い。本来は外野手でありながら長尾の前でセカンドを守って見せたりする。「ほら、俺はセカンドも守れますよ」というアピールである。先輩の怪我を期待するなど不謹慎とも言えるが、これがプロ野球選手の根性であるべきなのである。
寮長の報告によると「深夜に冷蔵庫の食べ物の減り方が以前に比べて激しい。一部の選手達に訊くと眠れないらしく江口君を深夜に見かけることが多い」というものもある。確かに長尾の目からも睡眠不足の江口が、どこか投げやりで、その日の練習終了まで義務的に練習しているように見える。これは若い選手のやるべきことではない。五年ほど二軍で燻って戦力外通告を待つ選手の態度である。
イースタンの試合中も無気力な表情が目立つ。得意の外角低めを狙い打ちされ二点も取られると降板命令を待っているような節さえある。ピッチングコーチが交替を告げる際、若手ピッチャーは不服そうな顔を見せるものだ。「たまたま失投しましたが俺は、まだ投げられます」と言い返す。プロ野球選手に欲しいのは、そんな負けじ魂なのだ。江口は、すんなりとコーチにボールを渡す。まるで「僕なんかに投げさせたって打たれますよ」と言わんばかりの態度である。
長尾は江口に怒ることを止めていた。入団当初から「背番号19番に恥じない選手になれ!」と周囲から言われ続けたプレッシャーが江口を追い詰めてしまったのかもしれない。高校卒の一年目としては高額な契約金や給料。河村監督からの過剰な期待。イースタンの公式戦に於いて相手チームの打者も江口がマウンドに上がると躍起になって打つ。「甲子園の優勝投手を滅多打ちにしてやったぞ」という勲章を自軍の首脳陣にアピールしたいのだ。
正直なところ、この江口敏を、どう育てたらいいか?長尾自身も迷宮に迷い込んだような状態に追い込まれていたのであった。