第5話 序章●「犬が狼の気分になる時」
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岐阜青雲高校野球部顧問の天野は困惑していた。この弱小野球部には身分不相応な天才児・江口敏の存在である。走力も素晴らしい。打撃練習をさせても副主将で四番打者の岡部を軽々と越える長打力とミートの上手さを持っている。何よりも恐ろしいのは江口が全力投球した時の豪速球である。部員が口を揃えて「速過ぎて見えない」と言うのである。
最も江口自身は優しい少年でチームメイトへの投球は腕の振りを殺して月並みに投球する。しかし咄嗟の時に本気が出てしまうのだ。唸りを上げた豪速球が上昇しつつ選手を襲うように一瞬で飛んでくる。青雲野球部には2年生の青木が一塁手を担当していたが大きなファーストミットでボールを止めるのがやっとであった。
もちろん江口の父も息子を投手として英才教育をしていたのだろう。だが天野の元に岡部から申し出があった。
「先生…情けない話ですが僕の力では江口君の全力投球を受けきれません。大怪我をしてしまうことも考えられます。もちろん僕も野球選手として江口のような天才ピッチャーと甲子園を目指したい気持ちはあります。小宮だって江口をエースにして外野に転向することを考えてますよ」
「そうか…小宮が、野手転向を考えているのか?俺はウチの野球部で持て余す江口のことを疎ましく思っているのかと考えていたよ」
「先生!考えすぎですよ。皆ちょっとワクワクしてるんです。せいぜい二回戦の進学校、勉強ばかりの野球部の僕らが地区大会を勝ち進んでいったら、他の学校の連中は驚きますよ。ただ…江口が僕のことを気遣って投げたら、よくて準々決勝。たぶん3回戦止まりでしょう」
学業そっちのけで運動部の部活動を熱心にやる私立高校も多いが、時として番狂わせで進学校が甲子園やインターハイに出場してしまうことがある。実際、指導者経験のある人物から聞いた話だが、偏差値の高い学校を指導すると生徒が自分なりに合理的なトレーニング方法を考え、運動神経や体力とは別の部分で技術的な上達は偏差値の低い学校の生徒よりも早いと言う。
岡部は、その明晰な頭脳から短期間に、どのようなトレーニングをしたとしても江口とバッテリーを組めるキャッチャーに自分がなりうる算段がなかった。力をセーブした江口のピッチングでは強豪チームを抑えるのは無理だろうと冷静に考えたのだ。
天野にとって意外だったのは上級生の野球部員が江口敏という新入生の人柄に好印象を持っていることだった。天野自身も調べたところ入試の成績も上位。礼儀正しく明るい性格。野球部でも用具の準備や後片付け、部室の清掃なども率先してやっている。進学校としては教師達が懸念している左翼思想への傾倒も今のところ見受けられない。
欠点と言えば大らか過ぎるというか天然ボケなところがあり、部員たちがトイレに入ると江口が鍵もかけずに大便をしている姿が何度も目撃された。
「江口!ウンコする時は鍵かけろ!」
と怒鳴る上級生もいたが、本気で怒ってはいなかった。むしろ突然変異のように現れた天才児の滑稽なギャップを心底から笑っていた。ユニフォームの着こなしも野暮ったく、ズボンのベルト通しの一箇所にベルトが通ってないことが多い。先輩に注意されるとグラウンドにも関わらずベルトを外し、オドオドしながらズボンを履き直している。
「おい!江口!女生徒も見ているんだから、部室で履き直せ!」
と注意されている。野球部の練習に女生徒の見学が増えたのは江口の天才ぶりが校内に広まったのが原因だが、そのことに江口自身は気づいていなかった。
「天野先生、僕の中学時代の後輩に運動神経抜群の奴がいて、青雲に入学してるんです。今のところ、どこの運動部にも所属してないんですよ。そいつを口説いて江口とバッテリーを組ませたいんです。やっていいですか?」
天野は岡部の顔を黙って見つめていた。高校野球部の顧問として今まで自分には無縁と思えていた”甲子園”という三文字が頭に浮かんだ。どんな弱小野球部でも、この三文字の魔力には人を変えてしまう力があるのだ。唯物論者である数学教師の彼にも、この理屈で割り切れない魅力と力を認めざるおえなかった。