第142話 光と影●「嬉しい」
文字数 2,743文字
江口の父は不機嫌そうな顔で八木や織田に不満を募らせている。「あれほど息子は中京ドアーズ志願だと言ったはずだ」とか「私は息子の指導者として、あんたを選んだ。何も甲子園優勝投手にする必要はなかったんだ」などと八木や織田を糾弾している。八木は「申し訳ございません。しかし七球団が一位指名されては、こればっかりはドラフトですから…」などと反省したポーズを見せている。一方の織田は薄笑みを浮かべながら「しかし勝負ってのは勝てなきゃいけませんよ。ねぇ林さん」などと言っている。
織田の、どこかリラックスした表情からガイヤンツの林捕手も、江口の父の憤慨は一つのポーズであることを察した。何かにつけ青雲大学への内部進学をさせるとプロ入り拒否をちらつかせる。林は内心「ははん。天下のガイヤンツが、どう出るか?伺っているな。この親父さんは」と思っていた。
「林さん。あなたのキャッチャーとしての偉大さは私も理解している。河村監督に最も信頼されているのは司馬選手や長岡選手ではなく、あなただろう。しかしガイヤンツには高村一三という左のエースがいるではないか?また静岡の新山選手。今のところ二軍だが、彼だって頭角を現すだろう。うちの敏を取ったところで三人目のサウスポーが必要なのでしょうか?」
「まず。高村ですが昨年は二十勝を超え金山投手引退後の左のエースとなりましたが、安定感はないピッチャーです。辛うじて勝ち越していますが今年は十二勝十敗。とても優勝チームのエースと呼べる内容ではない。新山君に関しましては甲子園での連投で肩、肘に故障を抱えたままでの入団でした。完治させまして来シーズンは一軍入りを期待されていますが、実績のない選手を戦力として構想するなどガイヤンツは甘いチームではありませんよ」
林は理路整然と説明した。「とても勝てませんわ」「あんなバッター。どうリードしてもあきませんわ」などとマスコミには弱音を吐き、いざ試合になるとちゃっちゃと相手チームを沈黙させるガイヤンツの頭脳担当は伊達じゃない。江口の父親も態度を軟化させた。
「やはり林さんのような一流キャッチャーにノンプロ止まりの私が駆け引きを仕掛けても無駄ですな。本音で話しましょう。この際、金銭要求などが私の目的ではない。むしろ林さんが受けた場合、この敏にどのような要求をするのか?が知りたいですな」
「まずプロ野球における左ピッチャーの価値ですが、相手打線が手も足も出ないピッチングというのは求めていないです。あの四百勝投手金山さんでさえ、打たれる時には打たれます。ご存知でしょうが黒星も記録的な多さです。しかし高打率を出しやすい左打者を抑えるのは左投手です。良い左投手がいなければ現役時代の河村監督など、打率四割を達成していたでしょう。現役では司馬が左打者のナンバーワンですが、彼も同じです。対戦相手が全員右投手だったら打率四割、本塁打六十本を達成してしまいます。後は一塁ランナーの盗塁阻止。盗塁によってスコアリングポジションにランナーを進めるのはディフェンス側は不利です。左投手に牽制や配球をしっかりと教え込めばチームの失点は相当減少します」
「私の目から見て敏がランナーの背負った時のピッチングはお世辞にも褒められたものではない。林さんであれば、どのように指導されるのか?」
「これは八木さんの方が詳しいと思います。私はペナントレースの真っ只中で、食事時に少し甲子園の中継を見るだけですからね。これは江口敏選手に限った話ではなく、高卒の選手は、まず二軍でスタートします。私はスコアを見たり、少しだけテレビで江口選手のピッチングを拝見しましたが、やはりプロでやっていくには矯正すべき点は、かなりあります。早くてオールスター明け、夏に一軍入りできればガイヤンツの即戦力と呼べます。」
林は江口の父の質問に具体的には答えていないが、その理論的に野球に対する姿勢に納得した。
「分かりました。さすが常勝ガイヤンツを支える名キャッチャー林さんだ。うちの息子を開幕一軍で使えるとか、即戦力だ、とか一切言いませんね。少し無礼な態度もあったことをお詫びいたします。しかしまぁ本人あってのことです。敏。お前はどうなんだ?」
江口敏は応接間の片隅で固くなって大人の話を聞いていた。テレビでしか見たことのないガイヤンツの林捕手が目の前にいるだけで頭がぼーっとしていた。
「黙ってないで自分の意志を言いなさい!」父の声ではっと我に返った。
「は…はい。確かに僕は子供の頃から中京ドアーズのファンでした。でも、こうしてガイヤンツに誘っていただけると、やっぱり嬉しいです。両親さえよければ東京ガイヤンツで鍛えていただきたいと思っています」
「うん。敏君。ガイヤンツの野球は他のチームの野球と違う。厳しく期待も要求も高い。ただ最後に一言。河村監督を初め首脳陣の皆さんが君のために背番号19番を準備しているとだけ話しておこう」
「19番!エースの堀本さんが18番。左の高村さんが21番。確かドアーズの市原監督が現役時代に付けられていた番号ですね!」
「そうだ!堀本、江口、高村で最強の投手陣を組みたいという河村監督の願いだよ!]
江口敏は、しきりに頭を下げて「頑張ります」を繰り返している。江口の父は八木スカウト、林と、それぞれ握手して喜んでいる。この場の全員が笑顔で包まれているように見えた。
だが部屋の片隅で難しい顔をして耳打ちしていた者がいる。青雲大付属高校の指導者、織田と天野である。
「さすがはガイヤンツ。交渉術も盟主と言うべきだ。でも天野先生。江口には少し窮屈な環境に思えませんか?」
「同感です。私もドラフトの時には、できれば弱小チームに行ければいいと願ってました」
「まぁ、これで江口は私たちの生徒や選手じゃなくなる。我々が口を出す筋合いじゃないが…背番号の件といい。少し気の弱い江口に耐えられるかな?と心配になりますね」
「なんか嫌な予感がしてならねぇんだ。まぁ、これ以上、我々が首を突っ込むのも江口さんに悪い。俺は、これで責任を果たしたということで帰りましょう」
織田と天野は連れ立って江口家を出た。十一月中旬、そろそろ本格的な冬に入る季節である。その骨身に染みる寒さが二人の身体を包み込んだ。