第74話 春風編●「自分にない何かに惹かれて」
文字数 1,953文字
抜群の運動神経と度胸を持っていても超高校級の剛速球を捕球するのは容易なことじゃない。困難な目標を持った時に矢吹は燃える。柔道時代も挑戦者であった時期は生き甲斐を感じられたのだ。多くの友人を持つ不良少年の矢吹は箱入りお坊ちゃんの江口の度胸のなさに気付き、名古屋の繁華街で童貞を捨てさせた。この時期に江口との友情も、より強いものへと変わったのだ。
九つある野球のポジションの中でもキャッチャーは難しい。捕球技術はもちろん、各ポジションへの指示。ランナーの盗塁阻止。打者との駆け引き。やることはいっぱいある。これが外野手や一塁手で野球部を手伝っていたら、矢吹は夏の甲子園が終わった時点で退部していただろう。
去年の九月、甲子園で対戦した由良明訓高校監督の織田が新しい指導者として加わった。江口の父親によって織田に引き合わされた矢吹は織田から秋季大会からは四番打者に抜擢することを宣言された。矢吹の身体能力は予選でもマグレ当たりの長打を飛ばした。しかし本格的なバッティング指導は受けていない。四番を打ちながらも江口の方が打撃に関しても技術は上だった。
何よりも矢吹が苦しんだのは学業である。もともと合格すれば儲けもので受験した岐阜青雲大学付属高校である。矢吹の入試結果は合格点のギリギリである。なおかつ授業も中間、期末のテストもレベルは高い。織田新監督は「合格点の取れない者は補習」という条件もつけた。顧問の天野が数学教師であったため、矢吹は苦手な数学でもしごかれたのである。
さすがの矢吹でも捕手、打者、学業の重責はプレッシャーになる。矢吹は陽気に振舞っているが本来は寡黙で暗い性格である。常に目標を見失い。刺激を求める性格を他人に悟られまいと明るく振舞う癖があった。
そんな無口になった矢吹を常に見つめる同級生がいた。内川亜紀である。亜紀は中学校から矢吹のクラスメイトであった。正直言えば中学時代の矢吹は怖かったし、嫌いだった。地元のチンピラや不良達との交際はあからさまであったし、柔道で全国制覇という実績を得ても爽やかなスポーツマンというイメージには、ほど遠い。亜紀が岐阜青雲大学付属高校へ進学したのも、こんな名門進学校に矢吹や周囲の不良は進学して来ないだろうという目論見だった。
一年前の入学式で亜紀は愕然とした。もう顔も見ることはないと思っていた矢吹がいた。さらにクラスまで一緒になった。矢吹の噂は他の中学から進学した者も知っていた。さすがに青雲のような学校では自分から矢吹に近づいていくお調子者はいなかった。入学当初、矢吹は鋭い瞳をギラつかせながら孤立していた。
数週間して亜紀が帰ろうとしたところグラウンドで野球のユニフォームを着た矢吹を見た。弱小野球部に江口敏という天才投手が入部したことは知っていたが、その江口のキャッチャーをやろうとしているのが矢吹だった。辛うじて剛速球をミットで止められるようにはなっていたが、お世辞にもキャッチャーとして絵になっているとは思えない。
その頃から亜紀は江口のことが、そんなに嫌いではなくなっていった。中学時代のように不良仲間を引き連れて歩くようなこともしなくなったし、学校の周辺にチンピラがうろうろすることもなくなった。亜紀には、よく分からないが、不良の人達にとって真面目に野球なんかやっている矢吹には用事がなくなったのだろう。
大騒ぎとなった夏の甲子園出場。続いて春の選抜大会。まさか進学校に入って高校野球の応援に甲子園まで行くとは亜紀も想像してなかった。二度の甲子園。そして二度の由良明訓高校に惜敗。他の生徒と一緒になって亜紀も泣いた。涙でぼやけた視界にはグラウンドで泣いている江口と青木が見えた。だが矢吹一人が明訓メンバーを見つめて下唇を噛み締めていた。
二年生になって矢吹が無口になっているのに気づいた。どこか危険な匂いだけは残している。青雲大付属で、そんな匂いを発しているのは矢吹一人である。一年前には大嫌いだった危険な匂いに亜紀は惹かれているのを自覚した。夏の甲子園でも選抜大会でも全校生徒がマウンド上の江口に注視している中で亜紀だけが矢吹を見つめていた。
「嫌いという感情の裏側に好きというって誰かの本にあったけど…こういうことなんだ」
亜紀は毎日、野球部の練習を見つめていた。