第194話 栄光の片隅で●「一本足」
文字数 2,557文字
二軍とは言えプロになると投手陣と野手陣は練習メニューが違う。LAドジャースの影響を強く受けたガイヤンツでは、その傾向は強く、野手陣が投手のスケジュールに無関心な訳ではなく、ほとんど交流もないので知らないのである。
ベンチに戻ってきた大西が
「そう言えば里中はベンチ裏にいましたよ。バット持ってたのを見かけました」
と報告した。二軍戦の行われる地方球場には代打陣が素振りをできる通路スペースなどなく、ベンチ裏と呼ばれる空き地や関係者駐車場などで素振りをしていることが多い。中川は
「はぁ?バット?ベンチ裏?まさか里中の方から野手転向とか言い出すんじゃないだろうな」
中川は少し憤慨しながらベンチ裏に出た。当初は投手陣に口を出さない黒岩を長尾より、やりやすい二軍監督だと思っていたが、江口敏を勝手に打者に転向させた結果が骨折であったり、里中の俊足に着目して左打ちを勧めたり、勝手な行動も多い。
代打陣が素振りをしているベンチ裏に里中はいた。他の野手のように力のこもった素振りではなく、バットを持って打撃フォームをやっているだけである。司馬の真似をしているのか?右打席だが一本足打法の構えをしている。左足を地に落としてもスイングはせず、体重移動だけを確かめているようだ。今度は両足を完全に地面を着地して上半身だけを捻っている。この時も、またスイングはせず体重移動だけを確認している。
「さっきの一本足は間違いない。司馬君の打撃フォームだ。今のベタ足は?長岡さんではないな。そうか!ロビンスの大本か!今度は左肩にアゴを乗せた…これはリンクスの村野さんのフォームだ」中川コーチは、しばらく里中の様子を観察していた。里中は、いろんな打撃フォームを試しながら「やはり。これだな」という感じで頷くと司馬の一本足打法のフォームで固まり、そのまま立っていた。
「なかなか見事なバランス感覚だな。司馬さんの一本足打法のフォームで静止できるバッターはプロでもなかなかいるもんじゃない。それにしても何の練習なんだ?」
里中は、ハッ!としたように振り向いた。
「すいません。ブルペンに行く前に試したいことがあって…。試合前だけでも司馬さんのフォームを研究したかったんです」
「おいおい。試合前って…もう三回の裏が終わろうとしてるんだ」
「えっ!もう試合が始まってるんですか?」
中川は里中に少しばかりの説教をするつもりだったが、止めた。「こいつは今、何かヒントを掴んで時間を忘れるほどに集中していたんだ。ピッチャーが一本足打法を真似るというのは一見、突拍子もないが、的外れとは断言できない」と考えながらブルペンに向かった。ほどなく、里中はピッチング練習に入った。
それは一見、それまでの里中の投球フォームと大きく変わるものではない。ただ、微妙にタイミングが違うのだ。投球動作の初動はゆっくりと…それからサイドスローでキャッチャーに投げる時には前日よりも勢いがあるような感じがした。セットポジションから左足を上げ、右足一本でピタリと一回止めている。中川の目には司馬の一本足打法をピッチングに応用しているのが分った。
「昨夜、里中は後楽園球場で一軍の試合を観戦している。てっきり一軍投手陣を研究するため…と思ったが、どうやら違ったらしい。司馬の一本足打法を自分のピッチングフォームに応用しようと考えたんだ」と中川は察した。中川は四年前に引退しているがガイヤンツのコーチ陣としては最も若い。1957年に高校からガイヤンツ入り。翌年、東京六大学野球のスター長岡が入団。さらに一年後の59年に甲子園選抜大会優勝投手として司馬が入団している。
入団早々から「司馬のへっぽこカーブじゃプロでは通用せん。甲子園で大ホームランを打つ長打力を磨け」と打者転向を命じられた。しかし入団から三年間は低迷し続けた。当たれば長打を放つが三振が多く、打率も二割五分以下でシーズンを終える日々が続いた。そんな司馬を開花させたのが荒井打撃コーチのガイヤンツ就任だった。
荒井はスターズの打撃コーチであったが、合気道の有段者でもあり、合気道の極意をバッティングに取り入れることでスターズ自慢のミサイル打線を育て上げた。その手腕を河村監督が評価しており、ガイヤンツに迎え入れたのである。荒井は司馬と同じ早田実業高校の出身で、いわば司馬にとっては先輩である。
司馬は荒井の自宅に通いマンツーマンの指導によって一本足打法を完成させた。その後は前人未到の十年連続本塁打王を記録している。世間では一本足打法は荒井の合気道を打撃に応用したものとして高く評価されている。しかし中川は里中の投球練習を見ながら、司馬が高校時代に投手経験があったがために完成した打法ではないか?と思い始めた。
もしも合気道の応用によって一本足打法が成立するなら、スターズ、ミサイル打線から一本足打法を完成させる強打者が生まれていてもいいはずである。綾波、内山、榎…荒井門下生から秀逸な強打者は育っているが、司馬ほどの成功は収めていない。
「おい!里中。このピッチングフォームを完成させるなら、荒井さんを訪ねてみたら、どうだ?養子の孝君のプロ入りで公私混同を避けるためガイヤンツのコーチを勇退してラジオの解説などやっておられるが、来る者は拒まずという人物だよ」
「それは嬉しいです!しかし荒井さんと言えば打撃コーチ。ピッチャーの俺が行っても荒井さんは受けてくれますか?」
「いやいや…。荒井さんは、そんな度量の狭い人ではない。司馬の一本足打法をピッチングに応用しようという里中の試みは理解してくれるはずだ。俺から話をしておくから、一度、会ってみても良い経験になると思う」
中川は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。