第128話 死闘!決勝戦●「回想」
文字数 1,952文字
江口の異様な精神状態でのピッチングに里中の緊張感は増した。八回の裏に田山がサードゴロに終わったのをベンチで見ながら、江口がすでにスタミナとか体力の限界を超えた境地でピッチングをしているのが分かった。何か、こう実力プラスアルファの力が出ているのである。捕手からのサインやらベンチからの指示など、気にならなくなる。ストレートでも変化球でも面白いように決まり、相手打者のバットも空を切ったり、ボテボテの内野ゴロになった。
二年生の選抜大会。里中は、そんな状態になっていた。大川は卒業し、浜は、まだ入学していない。由良明訓のマウンドは里中一人で投げきるしかなかった。夏の大会に比べれば春の選抜は気温も涼しく疲労はあまり感じない。とは言え、準々決勝以降の過密なスケジュールはピッチャーにとって厳しいものである。
今、思い出しても決勝戦など、どういう配球をしたか?どんな打者と対戦したか?全く思い出せない。何か得体の知れない野球の魔人が自分の体に乗り移って信じられないようなピッチングをしていたような感覚だった。はっきりと思い出すのは翌朝、目が覚めてから全く身体が動かないぐらいに疲労していたことだ。
「江口は、あの選抜大会の時の俺みたいになっている」
里中にとって、やはり江口は特別な存在だった。同い年で、こんな凄いピッチャーがいたことに始まり、朱美への横恋慕。話しをすると投げる剛速球が不似合いに優しく、どこか気の弱い性格。子供っぽい笑顔。意外な素顔を持つ江口には単純なライバル心だけではなく、奇妙な友情も芽生えてきていた。
青雲大付属の攻撃も八回、九回は下位打線である。しかし里中は気を抜かない。こういう試合では思わぬ伏兵がヒットを打って、それがきっかけで得点されることがある。八番、九番の打者に対しても、のけぞるようなシュートを胸元に決めた。バッターボックスから見ると、背中側から放たれたボールが、まるで生き物のようにS字に曲がり、自分の上半身を狙うように襲ってくるボールである。ボールはちゃんとストライクゾーンに決まっているのに右のバッターは腰が引けたり、尻餅をついたりする。
逆に左バッターには内角に抉り込むカーブを武器にした。「見た目だけのアイドルピッチャー」「美少年エース」などと騒がれた里中は、そのイメージに反発していった。あえて内角の厳しいボールで打者の恐怖心を煽ってきた。
センターとして出場する時も同じだった。相手バッテリーが里中の足を警戒して、執拗に牽制球を投げられた時こそ、むきになって盗塁した。監督の土井からは「リリーフもあるのだから、無理な盗塁は止めておけ」と言われても「ピッチャーの癖は盗みました。必ずセーフになる自信があったので走りました」と言い張った。
そういう意味では江口は全く里中と逆の野球選手である。痩身の里中に比べ、厚みのある逞しい肉体。技巧派の変化球投手と豪腕速球投手。俊足の短距離ヒッターと長打を狙える強打者。意地っ張りで強気な男と優しく弱気な男。バッターの内角を攻められないのは一年生の頃からの江口の致命的な弱点である。それは三年生になった今も克服はできていないようだ。時折、抜いたチェンジアップを内角に投げることはあるが剛速球を内角に決められない。
江口の潜在意識には自分の剛速球をよけ切れずに血だらけになって倒れる打者の幻影を見てしまうのではないか?と里中は考えていた。江口は誰にも語っていないが、過去に死球を投げて相手を大怪我させたことがあるのではないか?とも考察した。どっちにしろ、ストライクゾーンの半分しか使わずに、これだけの好成績を挙げてきた江口は、やはり怪物である。この試合だってプロ球団並みと言われる由良明訓打線を沈黙させてきているのだ。
九回の裏、由良明訓は七番の浜、八番の土屋、九番の小杉という下位打線である。打者として最も期待できる浜が、あえなく三振に倒れた。土屋も小杉も頑張ってレギュラーの座を掴んだ二年生だが、そう簡単に奇跡は起きないだろうと里中は考えていた。
「延長か…」
里中が呟いた時に土井監督が里中を見た。
「いけるか?」
「いけます!」
岩城と田山が里中の近くにやって来た。
「すまん!だが延長に入ったら、俺たちが必ず打つ!」
「あぁ…頼むよ」
さらに浜と二本松も来た。
「俺たちだって三イニングしか投げてません。いつでもマウンドに上がります」
と宣言した。いつも関西弁の二本松が、この時に限って真面目な顔して標準語を喋ったのでベンチ内には笑いが起こった。
「それにしても俺たちが由良明訓に入ってから、延長戦ってのは初めてだな」
いち早くグラブを着けた馬場が、どこかかったるそうにグラウンドに出た。