第197話 栄光の片隅で●「四球地獄」
文字数 2,962文字
「プロ野球なんてオジさんと男の子ばっかりが好きなものだと思っていたけど、二軍戦っていうのは女の子のファンが多いものなのね」
ヨーコは初めてのプロ野球観戦に驚いている。ロビンス戦で復活した江口敏が三日後のコンドルズ戦で先発を命じられたと里中繁雄に教えられ朱美と二人で観に来たのである。ヨーコは名古屋の定食屋を辞めて朱美の部屋に転がり込み、吉祥寺にある洋食屋に就職していた。朱美にしてみれば球団に結婚を一年先延ばしにさせられたため、ヨーコと結婚しているような毎日になっていた。
「そうねぇ。ガイヤンツも一軍スター選手は家庭持ちが多いから、芝山さんとか真田さん以外の女性ファンは少ないらしいのよ。逆に二軍戦は選手も若いし、独身の選手ばかりだから若い女の子が選手目当てに集まるって話だわ」
「なるほど!運よくゴールインすれば明日のガイヤンツのスター選手の奥様も夢じゃないってことね!相変わらず里中君の女の子ファンって凄いんでしょ?」
「そりゃそうでしょうね。試合のない練習日でもブルペン見学のファンは絶えないって言うし」
「もし朱美が里中選手の婚約者だなんて知られたら、ここを生きて出られないわね?」
「滅多なこと言わないでよ!丸大百貨店を辞める時にも大変だったんだから!呉服売り場のオールドミスの中には本気で、あいつを狙ってたのもいたらしくて散々、嫌味を言われたわ」
「これで彼が一軍入りしたら、まずまず大変ね」
そんな話をしているうちに試合が始まった。先行のガイヤンツは一塁ランナーを出したものの、後続が打てずに攻撃終了。一回の裏、コンドルズの攻撃に変わってマウンドには江口敏が立った。里中から話は聞いていたが朱美もヨーコも驚いた。すっかり肥満した江口が投球練習を始めたのである。
「あれが…江口君。田山三太郎君かと思ったわ…」
「いやぁ…田山君もデブにはデブだけど運動デブって言うのかな?もっと逞しい感じがするけど、なんかこう食べ過ぎて家でゴロゴロしていたら太っちゃった…みたいな感じね」
「不恰好だけど…可愛らしいって言えば可愛らしいかもね」
ヨーコは、それなりに江口を援護するような言い方をした。しかし投げるボールは相変わらず速い。百キロを超える体重をボールに乗せている感じでコンドルズの一番バッターは、すでに嫌な顔をしている。
第一球はド真ん中にストライク。バッターはタイミングを確認するような仕草でバットを出しかかったが「厳しいなぁ」という表情をした。二球目は、あわや暴投という糞ボール。キャッチャーの矢口が飛び上がって後逸だけは免れた。三球目は外角に大きく外れてボール。四球目もボール臭かったが主審は「ストライク」をコールした。球速は全然落ちない。ここまでの江口を見ていると高校時代よりも荒々しく、逞しい印象を二人は受けた。
しかし、その後が悪い。カーブかスクリューボールを投げようとしたのだろう。ボールは曲がり過ぎてワンバウンドした。五球目も低いボール。結局、フォアボールで出塁を許した。
マウンド上の江口は「どうもういかんなぁ」という表情である。二番打者はバントの構えだ。しかし大きく外れたボール球と判断してバットを引っ込めた。二球目は打者の内側に来た。バッターは「危ねぇ」という感じで避けた。「落ち着いていこうぜ」キャッチャーの矢口が江口に声をかけた。江口の方は軽く頷いていたが視線は泳いでいる。三球目、外角ギリギリにストライクが入った。ベンチから「それでいいだ。決まりさえすりゃ打てやしねぇって!」と声がかかる。しかし後はストライクが決まらずにフォアボールでランナー一、二塁となる。
「どう思う?ヨーコ。もう私たちが知っている江口君とは別人じゃない?」
「うん…。なんか目がね。変なのよ。黒目…瞳孔から感情みたいなのが見えないの」
「目か…。なんかヨーコの言ってることも分る。私には太っただけじゃなくて顔つきも変わってしまったように感じるわ…。なんか唇も腫れぼったい感じがするし…」
朱美とヨーコの勘は概ね当たっている。ノーアウト、ランナー一、二塁。こうこうピンチに陥った時、高校時代の江口は決まって少しう狼狽しながらキャッチャーやベンチのサインを確認する。最も高校時代の江口が連続四球で二人もランナーを出すことはなかった。由良明訓高校戦で現在は福岡クリッパーズのキャッチャーになった田山三太郎に対して敬遠四球があっただけだ。
三番打者に対しては一球もストライクが入らずにフォアボールだけで満塁となった。
ガイヤンツのベンチから二人のピッチャーがブルペンに走った。一人は背番号40番が見えた里中繁雄である。二軍とは言えコンドルズのバッターは四番である。早くも二球続けてボールになる。四日前のロビンス戦では、際どいボール球に手を出したバッターが三振したり、凡打に倒れたりした。そのスコアを見たコンドルズのベンチは「ツーストライクまでは振るな」と各打者に指令を出していたのである。
コンドルズ戦で見せた「復活」が、たった四日間で音を立てて崩れていくようであった。四人連続でフォアボール。バッターは死球にだけ注意して立っているだけで一点を貰ったのである。ガイヤンツ側ベンチの黒岩は分厚い唇を噛み締め、投手交替は告げない。
キャッチャーの矢口がマウンドで行く、何か一言二言を江口に告げた。五番打者を迎えての一球目。江口のピッチングフォームが明らかに変わった。これまでの頭上、真上から左腕を振り下ろす豪快なフォームが消え、肘を曲げたままスリークォーター気味に投げた。明らかにストライクを取るためスピードを殺したボールである。まるで練習球のようなスローボールを五番打者が見逃す訳がない。
待ってました!とばかりにジャストミートされたボールはセンターのフェンスにドスンと直撃した。打ったバッターは二塁へ到達。走者一掃のツーベースヒットだ。一回の裏、江口敏は計二十球を投げストライクはたったの四球。うち一球は狙い打ちされた。後の十六球は全てボール球である。
とうとうベンチから黒岩二軍監督が出て主審に「ピッチャー館山」を告げた。朱美のヨーコは、どうせなら里中のピッチングを見たかったが江口がノックアウトされるのが予想以上に早く里中の肩ならしが間に合わなかったのだ。
朱美とヨーコにとってショックだったのは、これだけ無様なピッチングをしながらベンチに引き上げる江口の表情から何一つ悔しい気持ちや闘志が見当たらなかったことだ。まるで「僕が悪いんじゃない。僕なんかに投げさせる監督が悪いんだ」とでも言いたげな表情だ。口と目は寝坊した子供のように半開きになっている。
「どうして…こんな…こんなピッチャーになっちゃったんだろう…」
ヨーコが口から洩れるように言葉が出た。朱美がヨーコの横顔を見ると、しきりにこぼれる涙を指で押さえている。朱美も同じ気持ちだった。甲子園を沸かせた剛球左腕。怪物江口敏とは、まったく別人のようなピッチャーを見てしまった。