第154話 覚醒と崩壊●「背番号のプレッシャー」

文字数 2,613文字

 1971年のプロ野球ペナントレースが開幕した。七連覇を目指す東京ガイヤンツは開幕から十二連勝を決め、開幕ダッシュに成功。誰もが「今年も強いガイヤンツ」を実感した。しかしディフェンディングチャンピオンの指揮官は、常に不安材料に怯えている。攻撃面では三番ファースト司馬、四番サード長岡は首位打者、本塁打、打点の打撃三部門のタイトルを同一チームで争うほどの実力者であり、さほどの心配はなかったが問題は投手陣である。
 エース堀本と左のエース高岡一三が、それぞれ十五勝は期待できる。しかし、それではトータルで三十勝である。優勝ラインは七十勝と考えると残り四十勝を他のピッチャーで賄わねばならない。河村監督から長尾二軍監督に毎日かかる電話は「新山、江口、大西は、どうだ?」という内容である。長尾は二軍のガイヤンツでは何をすべきか?を熟知した男である。毎日のように河村にレポートを提出している。
 「●新山について●肩、肘の故障については再発の危険性はありません。二年間、走り込みばかりしていたため、下半身は安定し、コントロールにも向上が見られます。フォーメンションプレーを覚えれば一軍での戦力として期待できます。
●江口について●体力は申し分ない。スピード、コントロールは新山以上。変化球のコントロールも良いので新山以上の投手と言えます。ただし精神面では大きな問題あり。先輩達に萎縮している様子が見えます。フォーメーションプレーに関しては素人。アマチュア時代にランナーを出した際の駆け引きなど、してこなかった弊害が見受けられます。
●大西について●投手守備、牽制球などは経験豊富です。ただし投手能力として考えますと新山、江口と比較してスピード、コントロール、変化球全ての面で劣ります。右投手であれば三年目の関谷、二年目の神田の成長が見られ、一軍でも通用できると思われます。大西君の将来も考え内野手への転向を提言いたします。外野手に関しては三位指名の淡谷に期待できます。大西は内野が向いているでしょう」
 試合前に長尾からのレポートに目を通すのが河村の日課である。渋い顔でレポートを見ている河村にヘッドコーチの牧場が声をかける。常勝ガイヤンツの指揮官としてマスコミでは「石橋を叩いても渡らない河村野球」などと評されているが、実際の作戦面は牧場が指揮している。河村が劉備とすれば牧場は諸葛亮のような存在であった。
 「やはり問題は投手陣ですか?新山の治療が成功したのは何よりです。長尾二軍監督の提言は、さすがですな。大西は早い段階で内野手にすべきでしょう。江口投手は、どうでしょうね。思っていたよりも気が弱いのかもしれません。やはり新人には大きな背番号から始めさせないと、いきなり19番では彼には荷が重いかもしれませんな」
 河村監督は相変わらず難しい顔をしている。牧場の意見に賛同しながらも、納得はしてない。
 「たかだか背番号ごときが負担になるような選手なら、そこで終わりだよ。長岡の背番号3だがね。君も知っているだろうが、私の前の三番を打った猛牛、大葉の本来ならば永久欠番にしなくてはならない背番号だ。江口君ほどの実績があれば金山君の永久欠番34番をあげても可笑しくはない。しかし、それではプレッシャーが大き過ぎる。だから19番にした」
 「仰る通りですな。大葉さんも素晴らしい選手でしたが長岡君はミスタープロ野球と呼ばれるスターになりました。長打力は司馬君が上ですが、それだけに司馬は敬遠が多い。司馬が敬遠されると長岡は俺の見せ場だとばかりにタイムリーを打つ。チームを勝たせているのは、やはり長岡のバットです」
 「うむ。普通ならば足の速い中距離ヒッターを三番に置き、足は遅いが長打力のあるバッターを四番に据える。司馬への敬遠を計算して三番と四番を逆に据えた君の作戦には脱帽しておるよ。しかし…問題は…」
 河村監督はいても立ってもいられないという様子でベンチから二軍の長尾宛てに電話を入れた。「わしだ。河村だ。長尾君を頼む。あぁ…長尾君か…。レポートは拝見した。今日にも大西選手には内野手への転向を伝えてくれ…あぁ…早い方がいい。それから新山選手だがイースタンで投げさせろ。打たれても決して七回までは替えるな。勝ち負けの問題ではなく内容がよければ一軍に上げる。江口選手に関してだが慎重に育てろ。イースタンでは、まず敗戦処理だ。うんうん。それでいい」とだけ告げて電話を切った。牧場は、その会話を聞きながら
 「江口よりも新山ですが?培養された美しい花よりも雑草の強さを評価しましたな」
 「うむ…。長尾君は問題にしておらんが、二軍のコーチ陣より提言があってな。新山と江口の不仲で投手陣が閉口しているようだ。最も後輩の江口は何を言われても言い返せないようだがね。新山は韓国籍のせいか自分が馬鹿にされている。とか自分が軽く扱われている。と思いやすいようだ。そろそろ一軍を経験させてやってもいい。敗戦処理に失敗するようならば自分の力を思い知るだろう。一度、江口と新山は切り離す」
 「それでは監督も長い目で見れば新山よりも江口だと!」
 「うむ…。投手としての能力も必要だがね。ガイヤンツの選手は野球の成績がいいだけではない。常にテレビ、新聞。マンガにさえなる。長岡は明るい笑顔でプレーし、司馬が空にホームランの虹をかける。例えばタイタンズの湯夏投手は、わしも現役最高のサウスポーだと評価しておる。だが、ガイヤンツには向かんよ。大阪下町の出身で、どこかヤクザっぽい雰囲気が顔に出ている。それに比べると江口君の顔は子供用の絵本に描かれた金太郎さんのように天真爛漫な笑顔だ。わしがドラフト会議の時に江口一位を譲らなかったのは彼の笑顔を評価したからだ」
 牧場は、それ以上の意見をしなかった。現役時代は中京ドアーズの内野手だった牧場には河村のような選手育成を知らなかった。ドアーズでは単純に上手い者、力を持った者が一軍に上がり、スタメンに選ばれるチームであった。「ガイヤンツでは、もう一つレベルの高さが求められるというところか…背番号19番。まさに来季のスター候補と呼ばれる江口君だが…長尾二軍監督のレポートにある”精神面では大きな問題あり”の一言が、私には気になる。河村監督と長尾さんが大きな期待をかければ、かけるほど江口君が苦しむような気がしてならない」と感じていた。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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