第199話 閑話休題13●「なぜか馬場と猪木の話」
文字数 2,728文字
なかなか難しい作業になるが、プロットの文章化というものは登場人物が増えれば増えるほど物語が複雑になり、上手く書かないと破綻しかねない。まぁ、所詮は筆者程度の表現力では、すでに破綻したプロットになっているのかもしれない。それでも付き合ってくれる方もおり、調子に乗って書き進めている訳である。
実在選手の名前に関しては、かなり安易な手法を取っていることが多い。筆者のこだわりとして存命人物に関しては、こういうエッセイ部分でも明らかにはしたくない。悲しいかな筆者はプロのスポーツライターにはなれなかった人間である。多少、目指した時期もあったが、封建的なプロ野球マスコミに入り込むことは許されなかった。プロレスや格闘技に関しては、それなりに商業誌への執筆経験もある。
しかし、そういう業界に関わっていると、それなりにプロ野球OB選手と知り合う機会もあった。大洋ホエールズに入団して一時期は監督もされた某人物。ロッテオリオンズに入団して投手から打者に転向。晩年は中日ドラゴンズで左の代打の切り札をやられた某人物などは現在でも軽く親交はある。彼らから聞いた球界のどす黒く濁った部分を作中に散りばめるのも、このプロットの目的の一つであった。
筆者程度の関わりでは残念ながら巨人軍関係者と関わりを持つことは出来なかった。スポーツ記者の間でも巨人軍担当になるのは、かなり難しい。一時期の西武ライオンズも厳しいという噂は聞いたが、某誌面で元巨人軍選手の記事を載せようとしたら「巨人の記事だけは否応なく諦めるしかない」という判断をされたことがある。
別に、筆者はスキャンダル記者でも何でもなかったのだが門前払いをされてしまったのだ。そこで思い出したのはプロレス界に関してである。基本的に一般スポーツ新聞には記事が掲載されないためプロレス界は一般的なマスコミに対して協力的である。ヌードグラビアな大半を占めるような雑誌で格闘王とかスパークリングクラッシュと呼ばれた大物選手に出てもらったことはある。インディーズ団体の選手などは少しでも知名度を上げたくて自分から売り込んでくるぐらいである。
ただメジャー二団体。すなわち新日本プロレスと全日本プロレスではマスコミ対応が正反対に違うのがユニークであった。新日本プロレスは何でもオッケーという社風で、必要とあらば闘魂三銃士のようなスター選手でも貸し出しますよ。というスタンスである。記事内容も肯定的なものでも否定的なものでも原稿チェックも無しという自由さで、ともかくいろんな媒体に出演して新日本プロレスをメジャーなプロレスと印象付ける社風だった。
ただし、ややこしいのはアントニオ猪木に関してで、筆者がプロレスに関わった時点でアントニオ猪木は新日本プロレスの会長という立場ながら新日本プロレスの所属ではなく、猪木事務所の所属となっていた。ただ、そこさえクリアしてしまえば猪木自身が議員になったり、実業家をやったりとプロレス以外に手を出す人物だったため、比較的メジャーな媒体であれば二つ返事で承諾された。違いがあるとすれば長州、藤波、武藤、蝶野、橋本らでも会社の広告としてノーギャラでも出演するのに対してアントニオ猪木には会社の規定分でいいので出演料を支払って欲しいと言われたことだ。
対して全日本プロレスは一般誌が取材を申し込んでも一度は必ず断ってくる。返答は決まっていて「プロレスが不人気な時代にプロレスを支えてくれた東京スポーツさん。週刊ファイトさん。ゴング。週刊プロレスさんへの義理があり、また日本テレビ及び読売グループに所属する全日本プロレスとしては他局への選手の出演は控えさせております」というような書面が戻ってくる。ただし東京スポーツ新聞社にしてもベースボールマガジン社にしても、さほど厳しい社風ではなく、電話一本で「東京スポーツの○○の紹介で」という仲介があれば四天王のようなスター選手も貸し出してもらえた。
アントニオ猪木とは対照的に義理堅いジャイアント馬場の持つ会社方針があったのだろう。いわゆる筋というものには厳しかった。またゴング、週刊プロレス以外の後発のプロレス雑誌にブームに乗って出てくることを嫌ったのではないか?と推測している。
アントニオ猪木と対照的なジャイアント馬場の人物像が感じられたのは謝礼に対する対応である。猪木氏も謝礼額を、その場で確認するような真似はしなかったが「どうも」と一言言って自分の背広の内ポケットに封筒ごと入れていた。インタビュー記事など小額のギャラは猪木氏のポケットマネーになっていたのだろう。
反してジャイアント馬場は謝礼を渡すと「こんな金を貰って、俺が喜ぶと思うか?お前らで飯でも食え。焼肉でも食って来い」と言いながら、取材陣の胸ポケットに謝礼の封筒をねじ込むのである。これは他の記者からも聞いた話なので、どんな媒体に対しても同じように接していたのだろう。ブラジルの事業やモハメッド・アリ戦で多額の借金を抱えた猪木氏と違い。常にプロレスという城の中で胡坐をかいてきた馬場氏の資産だったのか?大物ぶりを誇示する演出だったのか?は不明だが、馬場氏の流儀とは、そういうものであった。
また掲載前の原稿に対しても全日本プロレスは厳しいチェックが入った。たぶん選手にも同様の縛りはあったと思われる。元全日本の主力が移籍したプロレスリングノアになると、割と奔放に言いたいことを言うように選手のコメントが変わってきた。
ジャイアント馬場は元読売巨人軍の選手である。確かにプロ野球選手としては活躍もせず、その才能を開かせることはなかった。ただ馬場氏にとって最初のプロスポーツ経験は巨人軍であることは間違いないのだ。その後、比較的柔軟性のあるプロレス界にステージを移しても、馬場氏はマスコミに対して巨人軍流を押し通してきたのではないか?と考えられる。
馬場氏の巨人入りは長嶋茂雄入団の一年前である。三年目には王貞治も入団している。長嶋、王ともにジャイアント馬場逝去の際には「馬場先輩」と呼んで当事を振り返った。馬場氏にとって元巨人というのは大きな勲章だったのだろうと思う。