第203話 心の暗闇●「密約」

文字数 4,047文字

 江口敏の入院から早くも一ヶ月が経過した。ペナントレースも終盤である。七月には兵庫タイタンズに同率首位に並ばれたものの、後半戦を巻き返した東京ガイヤンツは八連覇を成し遂げようとしていた。「今年も圧倒的に強かったガイヤンツ」と言われたが球団内部には病巣が宿っていた。まずミスター・ガイヤンツ長岡が作シーズンに比べ成績を落としていた。本塁打は二十七本と、そこそこ打っているが打率は.266。長岡の歴代打率でも最低のシーズンである。この成績は首脳陣及び本人の口から「スランプ」ではなく「衰え」であると断言した。
 一方、主砲の司馬も四十八本で本塁打王を記録したものの、打率三割を切るシーズンとなった。長岡、司馬の二人が揃ってこそ、強力打線を構成してきた。長岡の方が衰えを見せてきた今、急務になるのは長岡の後継者探しである。シーズン終了を待たずに河村監督は行動を開始した。試合日程の隙間を縫って近畿リンクスの村野選手兼任監督と河村、長岡による話し合いが持たれた。
 河村は現状、リンクスでは三塁手二人がポジション争いをしていることを知っていた。大卒の富岡と高卒の岩城正の二人である。長岡の希望は岩城だった。岩城と高校時代はチームメイトだった里中繁雄が二軍でいいピッチングをしている来季は一軍入りを期待できる。また高校時代から長岡は岩城を自分の後継者として高く評価していたと村野に話した。
 村野は熟考して「分りました富岡を出します」と言った。村野にしてみれば前任の山城監督と同じ法大出身であることでチーム内の学閥が鬱陶しいことが大きかった。
 「かつて法大三羽烏と呼ばれた富岡がガイヤンツに入れば、タイタンズの主砲に成長した淵野辺。モータースで頭角を現しだした山木とセリーグに三羽烏が散るのは魅力あるでしょう」
 と切り出した。そして
 「ところで河村はん。わしんとこは三番打者の富岡を出します。ガイヤンツさんでは、誰を出してもらえるんでしょう?」
 見返りを期待するのは当然のことであった。河村が熟考していると、村野の方から
 「あの江口敏君ってサウスポーは、なかなか上に上がって来ないですな。どないなっておるんですか?」
 長岡は事情を知らなかったため「同室の選手の素振りに巻き込まれて骨折して入院中のはずです」と知っていることを話した。江口の名前を出されて河村の顔が青ざめた。態度は、のそっとしているが鋭い勘を持つ村野である。慌てて長岡と村野を遮った。
 「いやぁ…村野さん。江口君の怪我は想像以上に重傷だったんです。ガイヤンツとしても困ったものですよ。せっかく引き当てたドラフト一位に、こう怪我ばかりされていちゃ…。このままトレードしたらリンクスさんにご迷惑でしょう。どうでしょう?ピッチャーならば里中繁雄を出しますが?」
 村野にしてみれば「もう一年ノンプロでやる」と断っておきながらガイヤンツ入りをした里中が許せなかった。
 「いや里中君はあかんですわ。河村はんもご存知でっしゃろ?去年のドラフトで、わしは里中君を狙っていた。だが、ああいう形で指名回避したのは、わしとしても面白くないですわ。それに松映ロビンスから移籍した湯本が今年は急成長したんで、リンクスは右のピッチャーは揃ってるんですわ。サウスポーの江口君なら、嬉しいですがね」
 長岡が何か言おうとした…河村は厳しい表情で長岡を睨んだので、長岡は「いえ…別に」と押し黙った。現役キャッチャー兼任監督の村野が、この奇妙なやり取りを見逃す訳はない。
 「ほう…河村はんも大変ですな。同室の選手が素振りしていたバットが左肘にでも直撃したのですか?それだと左ピッチャーとしては大事ですな。確か、シーズン前の亀裂骨折で江口君は休んでいたのを覚えてます。それにデッドボールで右手を骨折。一年間に三度の骨折では困ったものです。それなら、わしも諦めますわ」
 「本当、球団としても困っております。近いうちにガイヤンツ側からのトレード要員をリストにして提出いたします。富岡君のようなレギュラー選手。しかもクリーンナップを打てる選手をいただくのですから、ガイヤンツとしては二名以上をお約束します」
 これが日本を代表する名監督の姿か!と思うばかりに河村は床に額を擦りつけ村野に挨拶をした。「止めてください!河村はん。日本一の名将に土下座なんかされたら、わしは困ってしまいますわ。まだシーズン中だというのに監督とミスタープロ野球が揃って、こげなご丁寧な席を設けてくださいまして、それだけでも恐縮や」村野が河村を止めた。
 「ところで河村はん。それに長岡はん。これは、わしが首を突っ込む話やないですが、長岡選手が現役引退後は河村監督は勇退。長岡新監督誕生というのが次代東京ガイヤンツの設計図と見ました。今日は、その帝王学を学ばせるための機会というところですかな?」
 「さすがは球界一の名捕手ムラさんですね!これまで私がガイヤンツの主将を務めておりましたが、来シーズンからは司馬主将。私は打撃コーチ兼任選手に就任いたします。ムラさんの選手兼任監督に比べれば気楽な立場ですが、私なりに指導者としての自覚を持ち、それを学びながら残りの選手生活をやっていくつもりです」
 長岡は明るく村野の問いに対応した。常に陽気で溌剌としたスター長岡の振る舞いは、こうした場でも変わらない。村野は再び恐縮して
 「ガイヤンツのような王者のようなチームとリンクスのような大阪のローカルチームでは監督と言っても責任が違いますわ。それにリンクスは、わしの前の山城親分が三塁手兼任監督でしたから、チームの伝統として選手兼任監督を歓迎する傾向がありますわ」
 河村は懐かしそうに思い出しながら
 「思い出しますな…。太平洋戦争が終わって翌年です。復員できた者が集まって草野球のようなリーグ戦が始まった。昭和二十一年です。ガイヤンツは選手も戻りましたしね。私も選手として球団に復帰しました。ジャジャ馬の赤田君。猛牛と呼ばれた船橋君。プロ野球再開一発目のリーグ戦ですよ。もちろんガイヤンツが優勝せねばならない!と臨んだんですが…そこに立ち塞がったのが山城選手兼任監督です。戦力ではガイヤンツが上回っていたと思いますがリンクスは凄かった。選手は皆、山城君を親分と呼ぶ。それが任侠っぽくてね。格好いいんです。ガイヤンツで同じことをしたら上層部から大目玉を食らう。人情味溢れる人物で敵ながら天晴れと思いましたよ」
 「いやいや…外面では人情監督とか言われてましたが、山城親分は選手には厳しかった。わしなんか何発殴られたことか?覚えてまへんわ。ところで御二方!話は変わりますがね。来シーズンから、そちらガイヤンツのOBでもある金山はんが高橋スターズの監督に就任するって話はご存知ですか?」
 「はい。つい先日。金山君がテレビ中継の解説者をしておって試合が終わってから私と、この長岡。それに司馬を交えて食事をしながら、監督就任決定の挨拶をされました。今年は低迷しましたが金山君監督になればスターズも暴れまくると予想しております。まぁ同じパシフィックリーグの村野さんにとっては頭の痛い話題かもしれませんがね」
 「いやいや。お客さんあってのプロ野球。観客動員の少ないパリーグにとってリーグが荒れるのは大歓迎ですわ。ちなみに金山はんは、その時に江口敏君のことは言いましたか?」
 河村は横の長岡を見やって
 「いやぁ。監督就任の挨拶だけで…トレード等の相談は受けてません。なぁ長岡君」
 と言う。長岡も「金山さんも、就任が決まったというタイミングだったんでしょうね」と答えた。
 「たまたま、わしの所にも金山はんが挨拶に来られて、来年からはムラんとこには勝たせへんでぇ!と意気上げてるんですわ。挨拶っちゅうより挑戦状を叩きつけてきました。まぁ金山はんらしくていいですな。その時に、ちょっと相談受けましてな。ガイヤンツは金山二世と呼ばれた江口っちゅうのを上手く育てらん。わしが貰って育て上げようか?と考えちょる。なんて言ってました。まぁ金山はんもサウスポーですから、それなりに考えておるようですな」
 そう言うと村野は河村監督の顔をジッと観察している。「やはり、わしが江口敏の名前を出すと河村監督は視線が泳ぐ。長岡の方は何も知らんようだ。どうやらガイヤンツにとって江口の存在は泣き所になっているって噂は本当やな。プロ野球選手なら骨にヒビが入っていても、平気で試合に出るような奴がぎょうさんおる。何か…もっと深刻なものがあるな」と察した。
 二時間ほどでリンクス村野とガイヤンツ河村、長岡の三者会談は終わった。帰りの車の中で河村は長岡に言った。
 「やはり噂通り、村野という男は油断ならんな。世間ではキャッチャーながらホームラン王は凄いとか、選手兼任監督としては成功している…などと言われているが、あの男の凄さは狡猾な心理戦に強いところだ。山城さんの時代は良かった。チームの力と力。技術と技術の勝負ができた。しかし村野は分らん。相手ベンチに盗聴器を仕掛ける…という話も聞いているが、勝つためなら、そんな手段も使ってくる男だろう」
 「えぇ。日本シリーズやオールスターで対戦しましたが、僕らがバッターボックスに立つと、夕べどこで飲んでただろう?とか、どこのホステスとは、どうなった?とか…なんで、こんなことを知っているんだろう?ってことを言ってくるんですよ。ピッチャーがいいコースに投げているのに、あかん…と呟かれるとバッターは慌てて打っちゃう。策士ですね」
 「そう呑気なことを言ってちゃ時期監督としちゃ不安だな。村野はリンクス一筋に生きてきた男だが、わしは、そうリンクスへの忠誠心はないと睨んでおる。典型的な大阪人だ。金には弱い。君が監督就任の際にはヘッドコーチ辺りでガイヤンツに招聘すべきだと思うよ」
 河村は、そう言うとやり場のない視線を車の窓から大阪の街に移していた。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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