第203話 心の暗闇●「密約」
文字数 4,047文字
一方、主砲の司馬も四十八本で本塁打王を記録したものの、打率三割を切るシーズンとなった。長岡、司馬の二人が揃ってこそ、強力打線を構成してきた。長岡の方が衰えを見せてきた今、急務になるのは長岡の後継者探しである。シーズン終了を待たずに河村監督は行動を開始した。試合日程の隙間を縫って近畿リンクスの村野選手兼任監督と河村、長岡による話し合いが持たれた。
河村は現状、リンクスでは三塁手二人がポジション争いをしていることを知っていた。大卒の富岡と高卒の岩城正の二人である。長岡の希望は岩城だった。岩城と高校時代はチームメイトだった里中繁雄が二軍でいいピッチングをしている来季は一軍入りを期待できる。また高校時代から長岡は岩城を自分の後継者として高く評価していたと村野に話した。
村野は熟考して「分りました富岡を出します」と言った。村野にしてみれば前任の山城監督と同じ法大出身であることでチーム内の学閥が鬱陶しいことが大きかった。
「かつて法大三羽烏と呼ばれた富岡がガイヤンツに入れば、タイタンズの主砲に成長した淵野辺。モータースで頭角を現しだした山木とセリーグに三羽烏が散るのは魅力あるでしょう」
と切り出した。そして
「ところで河村はん。わしんとこは三番打者の富岡を出します。ガイヤンツさんでは、誰を出してもらえるんでしょう?」
見返りを期待するのは当然のことであった。河村が熟考していると、村野の方から
「あの江口敏君ってサウスポーは、なかなか上に上がって来ないですな。どないなっておるんですか?」
長岡は事情を知らなかったため「同室の選手の素振りに巻き込まれて骨折して入院中のはずです」と知っていることを話した。江口の名前を出されて河村の顔が青ざめた。態度は、のそっとしているが鋭い勘を持つ村野である。慌てて長岡と村野を遮った。
「いやぁ…村野さん。江口君の怪我は想像以上に重傷だったんです。ガイヤンツとしても困ったものですよ。せっかく引き当てたドラフト一位に、こう怪我ばかりされていちゃ…。このままトレードしたらリンクスさんにご迷惑でしょう。どうでしょう?ピッチャーならば里中繁雄を出しますが?」
村野にしてみれば「もう一年ノンプロでやる」と断っておきながらガイヤンツ入りをした里中が許せなかった。
「いや里中君はあかんですわ。河村はんもご存知でっしゃろ?去年のドラフトで、わしは里中君を狙っていた。だが、ああいう形で指名回避したのは、わしとしても面白くないですわ。それに松映ロビンスから移籍した湯本が今年は急成長したんで、リンクスは右のピッチャーは揃ってるんですわ。サウスポーの江口君なら、嬉しいですがね」
長岡が何か言おうとした…河村は厳しい表情で長岡を睨んだので、長岡は「いえ…別に」と押し黙った。現役キャッチャー兼任監督の村野が、この奇妙なやり取りを見逃す訳はない。
「ほう…河村はんも大変ですな。同室の選手が素振りしていたバットが左肘にでも直撃したのですか?それだと左ピッチャーとしては大事ですな。確か、シーズン前の亀裂骨折で江口君は休んでいたのを覚えてます。それにデッドボールで右手を骨折。一年間に三度の骨折では困ったものです。それなら、わしも諦めますわ」
「本当、球団としても困っております。近いうちにガイヤンツ側からのトレード要員をリストにして提出いたします。富岡君のようなレギュラー選手。しかもクリーンナップを打てる選手をいただくのですから、ガイヤンツとしては二名以上をお約束します」
これが日本を代表する名監督の姿か!と思うばかりに河村は床に額を擦りつけ村野に挨拶をした。「止めてください!河村はん。日本一の名将に土下座なんかされたら、わしは困ってしまいますわ。まだシーズン中だというのに監督とミスタープロ野球が揃って、こげなご丁寧な席を設けてくださいまして、それだけでも恐縮や」村野が河村を止めた。
「ところで河村はん。それに長岡はん。これは、わしが首を突っ込む話やないですが、長岡選手が現役引退後は河村監督は勇退。長岡新監督誕生というのが次代東京ガイヤンツの設計図と見ました。今日は、その帝王学を学ばせるための機会というところですかな?」
「さすがは球界一の名捕手ムラさんですね!これまで私がガイヤンツの主将を務めておりましたが、来シーズンからは司馬主将。私は打撃コーチ兼任選手に就任いたします。ムラさんの選手兼任監督に比べれば気楽な立場ですが、私なりに指導者としての自覚を持ち、それを学びながら残りの選手生活をやっていくつもりです」
長岡は明るく村野の問いに対応した。常に陽気で溌剌としたスター長岡の振る舞いは、こうした場でも変わらない。村野は再び恐縮して
「ガイヤンツのような王者のようなチームとリンクスのような大阪のローカルチームでは監督と言っても責任が違いますわ。それにリンクスは、わしの前の山城親分が三塁手兼任監督でしたから、チームの伝統として選手兼任監督を歓迎する傾向がありますわ」
河村は懐かしそうに思い出しながら
「思い出しますな…。太平洋戦争が終わって翌年です。復員できた者が集まって草野球のようなリーグ戦が始まった。昭和二十一年です。ガイヤンツは選手も戻りましたしね。私も選手として球団に復帰しました。ジャジャ馬の赤田君。猛牛と呼ばれた船橋君。プロ野球再開一発目のリーグ戦ですよ。もちろんガイヤンツが優勝せねばならない!と臨んだんですが…そこに立ち塞がったのが山城選手兼任監督です。戦力ではガイヤンツが上回っていたと思いますがリンクスは凄かった。選手は皆、山城君を親分と呼ぶ。それが任侠っぽくてね。格好いいんです。ガイヤンツで同じことをしたら上層部から大目玉を食らう。人情味溢れる人物で敵ながら天晴れと思いましたよ」
「いやいや…外面では人情監督とか言われてましたが、山城親分は選手には厳しかった。わしなんか何発殴られたことか?覚えてまへんわ。ところで御二方!話は変わりますがね。来シーズンから、そちらガイヤンツのOBでもある金山はんが高橋スターズの監督に就任するって話はご存知ですか?」
「はい。つい先日。金山君がテレビ中継の解説者をしておって試合が終わってから私と、この長岡。それに司馬を交えて食事をしながら、監督就任決定の挨拶をされました。今年は低迷しましたが金山君監督になればスターズも暴れまくると予想しております。まぁ同じパシフィックリーグの村野さんにとっては頭の痛い話題かもしれませんがね」
「いやいや。お客さんあってのプロ野球。観客動員の少ないパリーグにとってリーグが荒れるのは大歓迎ですわ。ちなみに金山はんは、その時に江口敏君のことは言いましたか?」
河村は横の長岡を見やって
「いやぁ。監督就任の挨拶だけで…トレード等の相談は受けてません。なぁ長岡君」
と言う。長岡も「金山さんも、就任が決まったというタイミングだったんでしょうね」と答えた。
「たまたま、わしの所にも金山はんが挨拶に来られて、来年からはムラんとこには勝たせへんでぇ!と意気上げてるんですわ。挨拶っちゅうより挑戦状を叩きつけてきました。まぁ金山はんらしくていいですな。その時に、ちょっと相談受けましてな。ガイヤンツは金山二世と呼ばれた江口っちゅうのを上手く育てらん。わしが貰って育て上げようか?と考えちょる。なんて言ってました。まぁ金山はんもサウスポーですから、それなりに考えておるようですな」
そう言うと村野は河村監督の顔をジッと観察している。「やはり、わしが江口敏の名前を出すと河村監督は視線が泳ぐ。長岡の方は何も知らんようだ。どうやらガイヤンツにとって江口の存在は泣き所になっているって噂は本当やな。プロ野球選手なら骨にヒビが入っていても、平気で試合に出るような奴がぎょうさんおる。何か…もっと深刻なものがあるな」と察した。
二時間ほどでリンクス村野とガイヤンツ河村、長岡の三者会談は終わった。帰りの車の中で河村は長岡に言った。
「やはり噂通り、村野という男は油断ならんな。世間ではキャッチャーながらホームラン王は凄いとか、選手兼任監督としては成功している…などと言われているが、あの男の凄さは狡猾な心理戦に強いところだ。山城さんの時代は良かった。チームの力と力。技術と技術の勝負ができた。しかし村野は分らん。相手ベンチに盗聴器を仕掛ける…という話も聞いているが、勝つためなら、そんな手段も使ってくる男だろう」
「えぇ。日本シリーズやオールスターで対戦しましたが、僕らがバッターボックスに立つと、夕べどこで飲んでただろう?とか、どこのホステスとは、どうなった?とか…なんで、こんなことを知っているんだろう?ってことを言ってくるんですよ。ピッチャーがいいコースに投げているのに、あかん…と呟かれるとバッターは慌てて打っちゃう。策士ですね」
「そう呑気なことを言ってちゃ時期監督としちゃ不安だな。村野はリンクス一筋に生きてきた男だが、わしは、そうリンクスへの忠誠心はないと睨んでおる。典型的な大阪人だ。金には弱い。君が監督就任の際にはヘッドコーチ辺りでガイヤンツに招聘すべきだと思うよ」
河村は、そう言うとやり場のない視線を車の窓から大阪の街に移していた。