第143話 光と影●「立ち消え」
文字数 2,190文字
「元気そうだな。やっぱり野球やらないと少し太ったんじゃないか?」
馬場は、普段どおりの飄々とした態度で、自分の手でお腹の周りを叩いた。
「そうかな?絵を描くのも、ピアノ弾くのも、けっこう体力使うもんだぜ」
土井も声をかけた。
「そういえば馬場は音楽系と美術系の、どちらで行くつもりなんだ?」
「まぁ今のところは美術系ですかね。両方の勉強が出来る大学がありゃあいいんですけどね。どうしても音楽はクラシックの勉強ばかりになるんで保守的なんですよ。美術の方が間口が広くて、やりがいがあるなと」
岩城も嬉しそうに声をかけた。
「東京にある日本芸術大学っていうのは音楽も美術も勉強できるんじゃねぇのか?」
「あそこは音楽学部と美術学部で別れるんだ。敷地も道隔てて別の所にあるんだよ」
「へぇ?知らなかったぜ。やっぱり俺らは体育系馬鹿なんだな」
「しかし凄いもんだな。監督も含めて野球部から四人もドラフト指名されるなんてよ。田山は福岡クリッパーズ。岩城は近畿リンクス。監督と里中は松映ロビンスか!来年のパシフィックリーグは盛り上がるといいな。東京ガイヤンツばっかり目立ってちゃ面白くないよ」
そう言われて里中が遮った。
「俺は松映ロビンスさんを断ってしまったんだ。ちょうど大阪体育大学から推薦入学の誘いが来たんで進学するよ。実は休日には先乗りして練習に参加しているんだ。俺は田山や岩城みたいな体格はないし、体育大学で、しっかり身体を作ってみようと思う」
「それは羨ましいなぁ。なにせ芸術大学に推薦入学はねぇからよ」
そのうち後任のキャプテンになった池田を中心に浜、二本松ら現役野球部員も集まり、しばし歓談を楽しんだ。甲子園決勝戦で青雲大付属に敗れてから、少しばかり暗い影が部員にも付き纏っていたのである。
そんな部室にやって来たのは青雲大付属野球部監督の織田。フリースカウトの八木。大阪体育大学の日向助教授である。全員が驚いて織田を見つめた。かつては由良明訓の監督として土井を育て田山らが入部した年に夏の大会を制覇した。しかし、その後、部員に挨拶もせずに姿を消し青雲大付属の監督になっていた。織田は頭をかきながら
「まぁ出戻りってことだ。次期キャプテンは池田ってチビか!それに浜、二本松、小杉、土屋は甲子園で会ったな。お前ら安心しろ!田山、岩城、馬場、里中が卒業して由良明訓が弱くなったなんて世間の奴らに言わせねぇぜ。明日から俺がたっぷりしごいてやる!」
池田を中心に「はい!」と声を揃え、新チームも本格的に始動となった。しかし織田は慌てた様子で里中を呼んだ。
「おう。里中!ちょっとすまん。もう八木さんや日向先生のことは知っているな。お前には気の毒な話なんだが…」
「織田さん。その件は私からお話します」と日向が里中に対峙した。里中の中では、常に溌剌として自信たっぷりの日向が今にも泣きそうな顔をしている。そしていきなり土下座をした。
「止めてください!日向先生!」
「いや…今の私は、こうするしかない!里中君すまん!つい昨夜の教授会で今年の推薦入学枠、特待生枠が急遽、中止されることが決定したのだ。もちろん私は大反対をした!しかし私は助教授。教授や名誉教授たちの決定事項を覆すことができなかったのだ」
「いや…俺は…一般入試でも構わないですよ」
「ありがとう。しかし事情は説明しておこう。東京では大学闘争に参加した学生が、かなり逮捕された。ニュースでは学生運動も沈静化されたように言われているが、むしろ過激化しているのだ。彼らの怒りの矛先は、スポーツ進学や特待生制度へと向かっているという。事実、大阪体育大学にも悪戯とも本気ともつかない脅迫状が来ているのだ」
そんな日向に話を訊いて土井、里中、岩城、馬場、田山は北のことを思い出していた。大学でも野球を続けていると思っていた北が学生運動に加担し、警察に指名手配されていたのを知った時はショックを受けたものである。
土井は里中に
「俺から事情を話すから里中も松映ロビンスに入団したら、どうだ?九位指名の評価は不満だろうが、大学に行ったつもりで四年間、プロでトレーニングするのも悪くないぞ」
との提案をしたが、里中は迷っている。
「ありがたいのですが、やはり自分から一度、断ってしまった球団に入団するのは他の選手にも悪いですよ。俺が在籍しているチームに、そういう選手がいたら、やっぱり面白くはないですね。大阪体育大学を受験してみますよ」
内心、ショックはあった里中だが出来る限り爽やかに笑ってみせた。そこでスカウトの八木が別の提案を出した。
「里中君がプロ野球選手志望なのは判っている。大学に進学してしまうと四年後のドラフトを待つことになる。そこでだ。我々としては君にノンプロ入りを考えてもらいたいのだ」
八木の話を聞いて里中はハッとした。それまでプロ入りか?進学か?だけで悩んでいたが、よくよく考えてみればノンプロという選択肢もあったのである。
「はぁ…社会人野球ですか…」
この第三の選択肢に里中繁雄は興味を示した。